埋もれたる真個の人材、いでよ 1997/4/21


日届いた古書のなかに、緋田 工著『新官吏道の提唱』(新光閣、一九三五年)がある。著者は、内務省警保局(特高警察の上部組織)の高官。かなり悪さをした人物だ。でも、「天皇陛下の官吏たるの本分を知り、常に国家的見地に立ちて行動すること」から始まる「新官吏道七則」は面白い。「明確なる社会認識」を持ち、「上官に対し、常に適切な進言」を行い(盲目的服従にあらず)、「民衆の要望を活現すること」など、なかなか立派な項目が並ぶ。
  解説にこんな下りがある。いまの官吏制度は、成績・試験優秀者が優位を占める仕組みだが、その試験の本質を見ると、多くは記憶力を測定する程度のもので、人間としての的確なる総合判断力を考査するものではない。「秀才」が国家行政の要職を占めていては、日本の行政は弱体化する。今後は、地方や民間からも、「埋もれたる真個の人材」を登用すべし。従来、「官僚的」という文字は、「孤立超在的、高踏独尊的、繁文秘密的」の意味をもつ。官吏相互、官庁相互、官民相互の連携が巧妙完全に行われるように努力せよ。「善き国家の革新は、善き国民の提携から」が、新しい官吏のモットーでなければならぬ。
  戦後、「天皇の官吏」から「市民の奉仕者」へ。だが、高級官僚の大半は、本郷の某国立大法学部の出身者。外務官僚も同様だ。私の友人が、東欧のある国に留学していたときのこと。首都の大使館に、留学生とその家族が呼び集められた。彼は地方都市に住んでいたので、奥さんと雪のなか、2日がかりで首都に辿り着いた。到着して挨拶もそこそこに、大使は、「君、何年卒」と聞く。北大出身だった友人は、その後の会話には入れてもらえなかったという。
  62年も昔の「官吏道」も、受験秀才だけではだめだと説く。厚生省汚職やHIV問題、動燃事故などを見ても、受験秀才重視型の人事はもう限界だろう。「埋もれたる真個の人材」、チャレンジ精神あふれる若者よ、いでよ。