憲法9条と禁酒宣言 1997/7/6


法 9条の戦争放棄を禁酒宣言に例える話はけっこうある。その元祖は、法学者・穂積重遠の『私たちの憲法』(社会教育協会発行、1949年)だろう。「徹底した平和主義」という節で穂積は書いている。「…侵略戦争は言うまでもなく、紛争解決のためやむを得ず、というような何らかの名目の附く戦争もしない、さらに進んで自衛のための戦争をも放棄しよう、そのために、家重代の日本刀も惜しげなくかなぐり捨てて、サッパリ丸腰になる、というのである。…もし日本があの何回かの国際軍縮会議のときに、五・五・三がどうのこうのガンバル代りに、『軍縮』など手ぬるい、『軍廃』にしようじゃないか、とでも提唱したのなら大したものだが、今となつては『引かれ者の小うた』、よっぱらいが徳利を取り上げられて禁酒演説をするようなものだ、とひやかされそうでうしろめたい。しかし『過ツテハ改ムルニハバカルナカレ」、酒の上で大しくじりをした者の二度と徳利を手にしないという誓言こそ、最も雄弁な禁酒演説かも知れない。たとえやむを得ずであろうがなかろうが、憲法第九条の戦争放棄規定は、われわれの目ざす日本再建はけつして日本再軍備でない、という日本平和建設宣言として意義が深い。…列国がなお盛んに爪牙をみがきつつある今日、自衛戦争まで放棄するとは、何ぼ何でも無謀も甚しい、何によつて国家の生存を維持するつもりか、こういう非難と心配があろう。至極もっともな非難と心配だが、身を捨ててこそ浮む瀬もあれ、『前文』が『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼』すると言つている一節は、実に全世界の共鳴同調を要求するに足る正々堂々たる平和宣言であるから、もう一度読み返してほしい」(22~24頁)。軍事力を直接・間接に用いて、自国の意思を他国に強制するという手法を放棄した日本が、「国連の戦争」あるいは「日米の死活的利益」の擁護という名目で、武力行使・威嚇に踏み込もうとしている。「ガイドライン」の見直しは、壁に禁酒宣言の紙を張ったまま、その前にあぐらをかいて酒を飲む姿と似ている。「ほろよい気分になるのに必要な最小限度のアルコール分の入った液体は、酒ではない。もっぱら自己のストレス解消のために飲むのではなく、町内会の会合で皆で一緒に飲むのは、隣近所との円滑な交流を促すための液体であって、酒ではない」とブツブツ言いながら。