周辺有事立法を批判する(その1) 1998/3/2


月中旬、広島で講演した。宿泊したホテルの28階からは、すぐ右下に原爆ドーム、その奥に平和公園。宇品港、江田島、似島などの島々も見える。美しい風景の向こうに、日清戦争から原爆までの日本の戦争史が重なる。久しぶりに市内を散策。比治山の影になり焼失を免れた段原地区の古美術店街に足が向かう。再開発の結果、伝統の古道具屋街は消え、すべてビルの中。違和感を覚える。昭和16年製の憲兵腕章と、軍隊用のミツワ石鹸の箱を購入。小さな包みで 5桁の買物となり、家族のあきれる顔が浮かぶ。段原在住の志熊直人氏の『廣嶋臨戦地日誌』(復刻版・渓水社)もあった。県書記官が、臨戦地境戒厳下の広島の市民生活を克明に記録した一級史料だ。懐かしかった。この本は広島大学時代、『中国新聞』94年 3月21日付文化欄で紹介したことがある(拙著『ベルリンヒロシマ通り』所収)。1894年 9月15日から翌95年 4月27日までの 225日間、明治天皇が広島に移り、大本営が置かれた。木造の仮議事堂も建設され、臨時軍事予算や軍事関連法案が可決された。半年間に 4個師団が宇品港から中国に出兵。広島の後方支援機能はフル動員された。『日誌』の「広島市宿舎取調表」を見ると、寺院 112 、民家 4308戸(36356 畳分)の受入れ能力が記載されている。戦時編成の師団は 2万数千人。出港までの間、民家・寺院に分宿して、市民総出でたきだしを行った。県書記官の几帳面な筆は、さまざまなトラブルを含め、行政や市民が戦争にどのように協力していったかをリアルに描写している。 1世紀前の話をなぜ書いたのか。それは、新ガイドライン関連国内法の骨格が決まったという『毎日』 2月28日付「スクープ」を見たからだ。構想されているのは、(1) 周辺有事の際の米軍への「後方地域支援」を定める新法、(2) 物品役務相互提供協定の有事バージョン、(3) 在外邦人救出に自衛艦派遣するための自衛隊法改正、(4) 船舶検査(臨検) 法の計4 本。『朝日』 3月 1日続報では、新法の名称につき、後方地域支援に限ったときは「後方地域支援法」、臨検等を加えたときは「周辺事態法」が想定されているという。「後方地域支援法」には自治体や民間業者への協力要請などが盛り込まれる。米軍の海外における軍事行動に、自治体も民間も深く関与するわけだ。 1世紀前とは比べものにならないハイテク軍隊に対して、「いたれりつくせり」の態勢が準備されている。「後方地域」(rear area) とは「戦場および第一線地区より後方の地域」(米国防総省軍事関連用語辞典)のこと。日清戦争の時代は広島が臨戦地境になったが、現代戦の「後方地域」のすそ野は広い。なぜ、米軍にそこまで協力するのかという議論が欠けている。またもや手段の議論が突出してきた。ちょっと前までは「難民が押し寄せる!」といった「有事オブセッション(強迫観念)」だったが、今や、「早く制定しないとアメリカが怒る」という「対米オブセッション」にかわったようだ。