周辺有事立法を批判する(その2) 1998/3/9


行機に乗るとき、時間ギリギリに行くと、新聞や週刊誌はほとんどない。ビジネス客が多いときはとくにそうだ。昨年11月、連続講演で名古屋空港から沖縄に向かったとき、遅れて機内に入ったので、残っていたのは『月刊経営塾』という見るからに食欲のわかない雑誌だけ。マイッカ、とばかり手にとってパラパラと頁をめくる。ペンネームで韓国批判の本を出し、顰蹙をかった評論家のエッセーが目にとまる。「周辺事態」の定義にこだわったものだ。「周辺事態の概念は、地理的なものではなく、事態の性質に着目したものである」。これを彼は不倫にたとえる。「不倫という男女関係の概念は、性的なものではなく、男女関係の性質に着目したものである」。結論は新ガイドライン賛成論なのだけど、この例えはおもしろい。とにもかくにも、「有事」の際には、「軍」に最大限の自由を確保しておく。そのためには、変な制限を付けさせない。政治や法律による「縛り」から解き放たれたいというのは、「軍」のもつ本能といってよいだろう。ただ、旧日本軍の誤りを安易に自衛隊にあてこするのは有効な批判とはいえない。だから、「かつて来た道」という言い方を私はしない。旧日本軍の「軍事的不合理性」に対しては、自衛隊の幹部も十分すぎるほど研究し、かつ承知している。問題は、むしろ、「軍事的合理性」が貫徹され過ぎるところにこそある。「軍」に対する政治の統制があまりにも稚拙でお粗末なこの国では、「軍事専門家」たちが、政治家を馬鹿にしながら、必要以上に「軍事的合理性」を押し進める危険性が高いのである。軍事カードを切れる「普通の国」になりたいという外務官僚の衝動もかつてないものだ。「昔、関東軍、いま、外務省」。新ガイドラインの策定過程を見ても、政治の機能不全は著しい。「周辺」に台湾を含めるか否かをめぐる政治のゴタゴタは、政治の最終的敗北を意味した。政治の場面で、「周辺」に対する地理的な縛りと歯止めを加えることに失敗した結果、「周辺」の確定・判断を日米の「軍」「官僚」に委ねる恰好になってしまった。いま、国会で制定への動きが活発化している「周辺有事立法」の中身は、「周辺事態基本法」という包括的な「授権法」の形をとるか、自衛隊法などの改正の「微調整」ですませるか微妙な状況だ。後者の可能性が大きいが、その場合でも、「周辺」という流動的な概念がインストールされていく結果、従来の政府解釈の枠ではおさまらない問題が色々と出てくるだろう。それを曖昧にせず、きちんと批判していく必要がある。日本国憲法の平和主義は、戦争を放棄しただけではなく、「軍事的合理性」が当たり前のように貫かれる国のあり方をも否定しているのである。今後、このコーナーでは、「周辺有事立法」について、断続的に批判を加えていく。