特攻隊とサリン――国家の面子を守るために 1998/6/15


鹿児島大学での講演のあと, 主催者の案内で知覧町へ行った。戦争末期, 本土最南端の特攻基地となった町だ。「特攻平和会館」(英文名はPeace Museum for Kamikaze Pilots) には,飛燕や疾風といった戦闘機の現物のほか,特攻隊員の遺書や遺品が展示してある。息子と同じ年齢(19歳) の一人の若者の遺書を熟読する。達筆だ。勇ましい文字の向こうに, 病気がちの父親への心遣いが読みとれる。本音が書けなかった時代。抑制されたギリギリの表現のなかに父母, 家族への思いが滲み出る。
  ところで,知覧から飛び立った特攻機で一番多かったのが97式戦闘機だった。ノモンハン事変の頃の飛行機で, 時速470キロ。爆弾を積めば, さらに遅くなる。しかも, 練度の低い, にわかパイロット。これでは, 米軍艦載機の「固定標的」に等しい。このような「無謀な特攻」を命令した高級軍人たち。彼らが守ろうとしたのは何か。端的にいえば「国家の面子」だったのではないか。「国体護持」を目的として, これらの若者を含む国民を単なる手段とみる発想だ。そうでなければ, 「特攻」や「本土決戦」の説明がつかない。

  福岡でも仕事をして帰途につく。機内で『毎日新聞』(8日付夕刊) を手にして目が点になった。一面トップ「ベトナム戦争でサリン―米軍, 逃亡兵掃討に使用」。70年9月11日, ラオス国内の村に潜む米軍逃亡兵に対して, 特殊部隊(SOG) がサリン弾を使用し, 村人を含む100人以上が死亡したという。アメリカCNNのスクープだ。
  帰宅後,各国の反響を調べる。さすがにドイツのマスコミは, 自国の科学者が発見した,ドイツに縁の深いサリンには敏感だ。二つの意味でこれをスキャンダルと呼ぶ(die tageszeitung vom 9.6.98) 。一つは, オウム教団が東京の地下鉄で使用したサリンだったこと。もう一つは, 逃亡兵が軍法会議を経ないで「処刑」されたことである。
  CNNによれば,サリンの使用は,ニクソン政権の国家安全保障チームが承認したものだった(元統合参謀本部議長)。独立国ラオスの国内に100キロも侵入し,かつ民間人の住む村落に,化学兵器を使用する。これだけで幾重にも国際法に違反する行為だ。さらに重大なことは,逃亡兵とはいえ米国民である。敵前逃亡に対しては,合衆国憲法下の軍刑法に基づき,正式の軍法会議の手続きを経て刑罰を科すのが原則である。だが, 「いかなる状況下でも殺せとの命令を受けた」とSOG隊員は証言している。自国民を抹殺するために,政府が殺し屋を派遣した。しかもサリンを使い, 民間人を巻き込んで。ニクソン政権が20人以上の逃亡兵を抹殺してまで守ろうとしたものは何か。当時,米国内でもベトナム反戦運動が高まり, 軍の士気は著しく低下していた。「米兵が敵に寝返った」という情報に, 政府と軍の高官は驚愕したに違いない。単なる逃亡兵ではなく, ニクソン政権の戦争遂行を妨げる「ビールス」に感じられたのだろう。危険な病原菌を抹殺するには毒ガスが有効。手段の選択に躊躇はなかった。ここでも, 「国家(政権)の面子」を守るために,恐るべき手段が選択された。