20年前の内部告発書 1998/9/14


日、書庫から20年前に読んだ本を出してきて、読みふけってしまった。『核先制攻撃症候群』(岩波新書、1978年)と『先制第一撃』(TBSブリタニカ、1979年刊)。
   著者はロッキード社の戦略ミサイル主任設計技師だったR・オルドリッジ。10人の子どもを抱えながら、核ミサイルの設計に従事するエリート技師だった。ある晩、長女が父を厳しく問いつめる。抑止兵器の存在が核戦争を阻止しているという建前で、自分は給料をもらっている。だが、長女は核抑止論に納得せず、核弾頭作りをする父を執拗に批判し、「本気で平和を願うなら、誰かが始める勇気を持たなければならない」と叫ぶ。父はこの言葉が頭を離れない。当時アメリカは、莫大な費用のかかるABM(弾道弾迎撃ミサイル)を断念。核ミサイルの命中精度を高めるカウンターフォース政策を追求していた。彼は、これは核抑止政策から先制第一撃戦略への転換ではないかと疑い始める。相手の核ミサイルを確実に叩くことが技術的に可能になれば、こちらが先に使う誘惑を増大させる。悩む毎日が続く。そして、ついにロッキード社に辞表を提出。反核運動に身を投ずるのだ。25年間専業主婦だった妻も仕事に出て、夫の選択を支える……。

   核兵器開発の先端にいたエリート技師の内部告発書を再読しながら、北朝鮮の「弾道ミサイル」騒ぎのことを考えていた。1956年2月28日衆院内閣委で、船田防衛庁長官は、「急迫不正の侵害を排除するためにどうしても他に手段がない、…誘導弾あるいはその他の新兵器をもつてどんどん攻撃してくる、そういうときに敵の基地をたたくということは、自衛権の範囲内において最小限度許さるべきことである」と答弁。先日、額賀防衛庁長官は、この答弁を持ち出し、北朝鮮の基地を攻撃することも自衛の範囲内という理解を示した。確かに弾道ミサイルは発射後、着弾までほんのわずかの時間だ。いきおい、「攻撃は最大の防御」とばかり、相手が発射する前に相手基地を叩く先制攻撃への衝動が出てきやすい。だが、北朝鮮の今回の「発射物」の実態と意図はまだよく分かっていない。日本を飛び越したということは、明らかにアメリカとしか直接交渉しないという意思の表明である(惨めな日本外交よ)。ニュース映像を通してアラブ世界などに兵器売り込み(外貨獲得)の宣伝をしたという側面もあろう。いずれにせよ、事態がよく分からない段階での過剰反応は危険である。北朝鮮が「窮鼠猫を噛む」状況に陥らないように、アジア諸国との連携をはかりつつ、粘り強い、多面的な外交的努力が求められている。こういう時期だからこそ、「ミサイルにはミサイルで」という発想を率先して捨てるべきだろう。

  なお、オルドリッジは、武器をもつ根源に恐怖があるとして、代案として「非暴力的国家防衛政策」を提言している。冷戦下の議論だが、いまも有効な視点である。彼の決断を促したのは、「誰かが始める勇気」という長女の言葉だった。

トップページへ