カーチス・ルメイという男 1998/12/14


国のThe Independent 紙をサーチしていて、偶然9月8日付の興味深い記事を見つけた。アメリカで最近公開された公文書に、冷戦下の60年代初期、核兵器使用の許可権限が大統領から軍司令官にあらかじめ委譲されていたことが記載されているという。戦略空軍司令官カーチス・ルメイ将軍は、1957年から63年までその地位にあった。ルメイの核兵器に対する偏愛ぶりは異様で、彼が68年大統領選挙のとき、右翼の独立候補ジョージ・ウォーレスの副大統領候補となったのだが、ルメイの核への執着ぶりに、さすがのウォーレスも当惑したというのだ。そんな男の手に、核の使用許可権限が委ねられていたわけである。ほんとうに「危ない」時期だった。

  ところで私は、拙編著『ヒロシマと憲法』のなかで、チャップリンの映画「殺人狂時代」(1948 年) を紹介しつつ、ルメイについてこう書いた。「女性連続殺害の罪で死刑を求刑されたデェルデュはいう。『陪審員諸君。…この世界は大量殺人を唯一の目的に破壊の武器を製造しているのではないでしょうか? この世界は無垢の婦人や子供たちを粉々に、しかも極めて科学的に吹き飛ばさなかったでしょうか? 大量殺人者としての私は、これに比すれば一個の素人にすぎません…』と。そして、断頭台に向かう時、『一人の殺人は悪漢を生み、百万の殺人は英雄を生む。量が神聖化するわけです』と独白する。東京大空襲や原爆投下の実行責任者として、これに深く関与したカーチス・ルメイ将軍。原爆投下の際、日本側に警戒態勢をとらせないため、B29の高々度の単機使用というのは彼の発案だった。ルメイは原爆投下から19年目の1964年、航空自衛隊育成の『功労』により、日本国天皇から勲一等旭日大綬章を受け、1990年10月、83歳で長寿を全うした」。この死を比較的大きく報道したのは、広島の『中国新聞』だけだった。

  私はルメイのことを知ってもらうため、学生たちに、NHK特集「東京大空襲」(78年3月9日) のビデオを見せた。番組の終わりの方にルメイが出ている。ナレーション:「ロスアンジェルス郊外。海に面したニューポートビーチの静かな邸宅。ハンブルグ大空襲からベトナム戦争の北爆まで深く関わってきたルメイ将軍。そのルメイ将軍に聞きたいことが一つだけある。なぜ、東京のあの地域を攻撃目標に選んだのか」。カメラはルメイを隠し撮りする。若き日のNHK特派員日高義樹氏が質問で迫るが、ルメイはかたくなに取材拒否。再びナレーション:「インタビューは断るが、勲章ならば撮ってもよいと彼が指さした棚の中に、勲一等旭日大綬章があった」。勲章のアップに、焼け焦げた市民の死体の絵を重ねつつ番組は終わる。制作スタッフの静かな怒りが感じられるすぐれた作品だ。なお、NHKはこの番組を、昭和天皇が死んだ後に、「昭和を記録したドキュメンタリー」として再放送した(89年3月2日) 。

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