「われ遊ぶ、故にわれあり」――年頭にあたって 1999/1/4


けましておめでとうございます。
   日本でこの直言を執筆するのも、あと2か月あまりとなった。年末の1日、「仕事のアンテナ」を解除して、のんびり古本屋めぐりをした。けっこう楽しい。美術や音楽、古代史などの分野でけっこう面白いものが見つかり、たちまち両手一杯になった。しかし、悲しいかな。アンテナを解除しても、仕事に関係する本が3分の1を占めてしまった。
  そのなかに、タイトルが似たものがあった。『国思う、故にわれあり』(徳間書店)と『われ思う、故に、われ間違う』(産業図書)。前者は、竹村健一氏や長谷川慶太郎氏と同様、中身を読まなくても内容が知れてしまう「週刊誌広告」的著者の一人、渡部昇一氏のもの。「国思う」といった、かつては超レトロに響いた言葉が、昨年の小林よしのり『戦争論』の異様な売れ行きのなかで、決してレトロではなくなったところがやっかいである。この本は、明らかに、『戦争論』の読者層を狙った便乗的出版といえる。ただ、80年代には保守論壇の一翼を担った渡部氏だったが、筆の衰えは覆いがたく、これ以上コメントするに値しない。一方、後者は原書タイトル(Je pense donc je me trompe)そのまま。ジャン=ピエール・ランタン(丸岡高弘訳)というフランスの科学ジャーナリストの作品である。科学の進歩は、人間が間違いをおかすおかげだということを、皮肉とユーモアを交えて教えてくれる。ランタンは、科学の分野の権威者たちを次々にやり玉に挙げ、切っていく。ただ誤りをあげつらうというのではない。彼は、誤謬から「元気の出る樹液、活性的で刺激的な原理」を引き出せるといい、こう結ぶ。「種の進化や自然淘汰もそのようにして行われたのである。われわれは遺伝子が何十億回となく突然変異したその産物なのだが、突然変異とは生体のネットワークの中の伝達の誤りに他ならない。そして、その誤りが生物学的多様性を生みだしたのである。…誤謬がどんな創造的な役割を果たしているか、これ以上に最適な例はない。だから誇りをもって大声で叫ぶことにしよう。『われわれはみな誤謬である!』と」。ランタンのいう「誤謬学」はユーモアにあふれている。ユーモアは、精神や思考の健康を維持するためのスパイスであり、学問や科学が権威主義やドクマティズムに陥らないための漢方薬といえる。
   そう言えば、樋口陽一先生(憲法学者)から頂戴した私家版論集のタイトルは、Ludo ergo sum(「われ遊ぶ、故にわれあり」)。「われ思う、故にわれあり」(Cogito ergo sum) というデカルトの言葉を意識しながら、個人の自由の価値にこだわる姿勢を独特のユーモアで表現したものだ。いかにも樋口先生らしい。世紀末の1999年は怪しげな事件が続発し、感情的議論に世論が引きづられるような事態も起こりうる。そうした状況に対し、いかに一人ひとりが理性を失わず、冷静に対処することができるかが問われてくる。その意味で、今年はとくに、「ユーモアを忘れない」というよりも、もっと自然に、「遊び心を大切に」ということに留意したいと思う。それでは、今年もどうぞよろしくお願いします。

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