卒業生をおくる言葉 1999/3/22


日、日本を離れる。ドイツの住居に引っ越し荷物が無事搬入され、向こうの書斎で仕事が再開されるまで、「直言」の更新はお休みだ。何だか、大気圏内に突入後、宇宙飛行士たちとの交信が始まるまでハラハラさせた映画『アポロ13』のラストシーンみたい(なわけないか)。「交信」を「更新」にかけたわけでもないが。できるだけ早く第1回の「ドイツからの直言」を始めたいと思う。日本での「直言」の最後に、一昨日完成したゼミ論文集の巻頭言を紹介しておきたい。この一文は、このページを読んでくれているすべての学生たち、卒業生、そして「心は今も学生」という方々への「おくる言葉」でもある。

  「学生の真理探究の態度は多情でなくてはなりません。無節操でなくてはなりません」。吉野作造が「学生に対する希望」という講演のなかで述べた言葉である。あえて「多情」「無節操」という挑発的な物言いをした吉野の気持ちがわかるような気がする。枠にとらわれるな。学問に貪欲であれ。学生たちに対して、真理探究への「勢い」を求めたのだと思う。この論集に期待した私の気持ちも、吉野のそれに通ずる。

   論文を書くということのすばらしさ、奥深さ、そして怖さは、物書きのはしくれとして、私も日々体験している。論文一本を書くのに費やすエネルギーは膨大である。料理に例えれば、食材をそろえ、加工・調理し、盛りつける。この3つの段階で、料理人の腕が問われる。資料・文献の収集、関係者(機関)への取材。プロットを立てて、論理的に文章を構成していく。自己満足的な文章になっていないか、飛躍はないかなどを検証する。一行一行が勝負。ダラダラと量をかせぐのは容易だが、特定の枚数におさめるのは至難の業だ。「人に読んでもらう」という意味では、「盛りつけ」も大切である。とはいえ、これらを完全に達成するのは、実にむずかしい。100枚の論文と4枚の小論とどちらがむずかしいかと問われれば、私は「どちらも」と答える。最近、『朝日新聞』の「一語一会」という800 字エッセーを依頼されたが、これを書くのにまる3日をかけた。諸君がまとまった量の論文を書いたのは初体験だろう。緊張感も相当なものだったに違いない。限られた時間内で、自分の言いたいことを論理的に、かつ誰にでもわかる普遍的な言語で表現することがどんなに大変か。そして、どんなにすばらしいことか。この体験を大切にしてほしい。この論集には、ゼミを通じて表現された、学生時代の「自分」が凝縮されていると考えよう。

  ゼミナールの原語は苗床(セミナーリウム)である。栄養をいっぱい含んだ土壌と、水分、肥料(有機肥料がいい)、太陽の光。そうした条件を備えた苗床があっても、そこに蒔かれる種子が死んでいたらどうにもならない。すばらしい種子は豊かな苗床をつくり、その苗床が新しい種子を育てる。一人ひとりが、ゼミのなかで果たした役割に違いこそあれ、2年間のゼミ生活を通じて、私は全員のプラス面、そしてマイナス面(今後の課題を含む)をじっくり観察してきた。そして自信をもって断言する。諸君は、一人ひとりが個性豊かな種子としてわが「苗床」で育ち、そしてこれから社会(いや、国際社会)に多くの「果実」をもたらしてくれるだろうことを。諸君は、早大における私のゼミの第一期生となる。一人ひとりが、私の宝である。この論集はその宝が残していく軌跡である。諸君が、今後の人生のさまざまな局面で困難に直面したとき、この論集をそっと開いてみよう。広島や沖縄などの「現場」や日々のゼミの風景、仲間の顔とともに、学生時代の「自分」が蘇ってきて、元気をくれるはずである。この論集は、諸君ら一人ひとりの青春の記念碑でもある。卒業、おめでとう。

 

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