「家の前での戦争」 1999/4/6 ※本稿はドイツからの直言です。


の住むバート・ゴーデスベルクは、ボン市に4つある区の一つで、人口6万7000人。北緯50度44分、東経7度5分。かつて住んだ札幌(北緯43度)よりもずっと北にあるが、この頃は日中20度にもなり、暖かい。ライン川に沿って29キロの美しい散歩道、ラインプロムナードが続く。私たちは徒歩や自転車でまわるが、ドイツ人はローラーブレード〔スケート〕が結構多い。長身の男女10人くらいの集団が猛スピードで迫ってくると、さすが道をあけてしまうが、歩行者を上手によけて走っていく。マナーはいい。5人家族が向こうから滑走してくる。最後尾を見ると、何と母親が乳母車を押している。乳母車が私の横を猛スピードですり抜けていくとき、その中に赤ちゃんが眠っているのがチラッと見えた。口をあけて見送った。
  ここはドイツ社会民主党(SPD) の歴史を知る者には、歴史的な意味をもつ場所だ。「バート・ゴーデスベルク綱領」。1959年にこの地で開かれた党大会で、SPD は現実路線に転換。NATOや連邦軍を認め、政権参加への道に踏み出した。あれから40年。そのSPD と「緑の党」の連立政権のもとで、ドイツが「ヨーロッパの戦争」に参加することになるとは。
  先週3月28日夜の第一放送(ARD) のトークショー(女性キャスター・クリスティアンセンの看板番組)のタイトルは「私たちの家の玄関前の戦争」。ちなみに、この言葉を最初に使ったのは、24日付大衆紙Expressだが、今回の戦争に対するドイツ人の感覚を的確にあらわしている。討論参加者はシャーピング国防相(SPD) 、政府のボスニア担当官、バイエルン内務相(CSU) 、ARD コソボ特派員、民主社会主義党(PDS) のギジ議員団長、NATO副司令官も務めたシュミュックレ退役陸軍大将。シャーピングは93年当時、連邦軍のNATO域外派兵に反対し、連邦憲法裁判所に違憲訴訟を起こしたSPD 党首で、70年代はSPD 青年部(Jusos) 議長として、反戦デモの先頭に立った人物。その彼が空爆の必要性と正当性を顔を紅潮させて力説している。シュミュックレ元大将は空爆に懐疑的で、政府のこれまでのユーゴ政策の失敗を批判する。ギジは、NATOの空爆が国際法違反の侵略戦争であり、かつ基本法26条違反(侵略戦争遂行・準備行為)であると激しく非難。ドイツとセルビアに「憎しみの世代」が再び生み出されたことを憂える。ARD 特派員はコソボの惨状をリアルに報告。いま外交交渉をやめれば悲惨な結果を生むと説く。ボスニア担当官とバイエルン内相は、殺戮を阻止するためにはあらゆることをなすべきだと強調する。国連安保理決議なしの、しかも戦闘行動(Kampfeinsatz)への参加。ドイツが戦後とってきた安全保障枠組を大きく踏み出すものだ。討論では、「人道的支援」が何度も強調された。だが、いわゆる「人道的介入」は、現在の主権国家の枠組からすれば内政干渉となり得るから、「介入」の形態や基準などをめぐり様々な議論がある。人権を守るためには平和が破られてもやむを得ないという物言いには、慎重な姿勢が必要だ(次回参照)。番組の終わりに、前線にいる連邦軍兵士の母親が「わが息子」について発言。カメラは彼女をアップで映す。戦闘で人が死ぬことを、半世紀以上も体験してこなかったドイツ社会の動揺は大きい。なお、この番組の視聴率は27.8%だった。

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