「レマゲン鉄橋」の星条旗 1999/6/7 ※本稿はドイツからの直言です。


からライン川に抜ける近道は、イスラエル大使館前から警察により完全に封鎖されていたが、5月21日午前、2カ月ぶりに完全開放された。相変わらずパトカーは3台いるが、警官はアイスクリームを食べている。この日は、徒歩と自転車と車で3 回も通ってやった。18日にイスラエルの選挙で強硬派ネタニヤフ首相が破れ、和平推進派のバラク氏が首相に選ばれたことが影響しているのだろうか。少し南にあるトルコ大使館周辺は、クルド人対策のため常時、厳重な警戒下にある。私の散歩コースが再び封鎖されないよう、中東情勢が緊迫しないことを望む。
  ライン川沿いの道は古城がたくさんあり、ドライブに最適だ。夕方から家族で出かけ、食事をして戻るだけでも毎回発見がある。休日には、オートバイや自転車も多い。向こうから黒ずくめで、ひげもじゃ、サングラスの男が運転するサイドカー付きが来るので、ひょいと見ると、何とシェパードが行儀よく座っている。ひげの男と鎮座する犬の絶妙な組み合わせに、思わずのけ反ったことも。
  家から上流へ15キロ程走ると、レーマーゲン(Remagen) という町に着く。米映画「レマゲン鉄橋」で知られる。この橋は、鉄道による軍隊の大量輸送を目的として、1918年に完成した軍事用鉄橋である(ルーデンドルフ鉄橋という)。1945年3月。ライン川にかかるこの軍事的要衝をめぐって、米独両軍が激しい戦闘を展開。双方に多数の戦死者を出した。米英軍はノルマンジーに上陸後、各地で独軍と戦闘を展開。このライン西岸で拘束されている間にも、ソ連軍は機甲部隊の無停止攻撃で一路ベルリンを目指していた。鉄橋は3月17日に破壊された。米英軍はライン川の各所で浮橋を使った渡河作戦を展開。だが、時すでに遅く、ソ連軍はベルリンに到達。戦後の東西分断の線も決まった。「レマゲン鉄橋」の戦闘は、第二次大戦の一局面にすぎない。だが、もし、上陸後、米英軍がもっと早くベルリンに向かっていたら、ヨーロッパの戦後地図はもう少し違ったものになり、ドイツ分断もなかったとも言われている。スピルバーク監督作品「プライベート・ライアン」で描かれなかった大状況の先に、「レマゲン鉄橋」がある。
  現在、残った塔の片側が平和博物館になっている。上部には星条旗がはためき、館内の天井からも大きな星条旗が下がっている。写真や砲弾の破片などが展示されている。入口には、第二次世界大戦の死者数を示すパネルが掲げられ、「5000万から5500万人が犠牲になった」とある。内訳が書いてあって、ドイツ:軍人325万人、民間人325万人、ソ連:軍人1360万人、民間人700万人、アメリカ:軍人22万9000人と来て、民間人のところは空欄になっている。アメリカは本土が戦場や爆撃の対象にならなかった唯一の国だということがよく分かる。以下アルファベット順でベルギー、ブルガリアなどヨーロッパ諸国が続くが、日本や中国がない。よく見ると、一番下に「東アジア」として、軍人760万、民間人600 万と一括されている。ヨーロッパ中心の発想だ。塔の壁には、戦闘に参加した米軍部隊名を冠したモニュメントがいくつもはめ込まれている。独軍の鉄橋守備隊は近隣の村々からかき集められた「志願兵」や10代の若者が多かったが、その死者たちの碑はそこにはない。