「オルブライトの戦争」 1999/6/14 ※本稿はドイツからの直言です。


宅の一本先の通りを、私は「政治家通り」と呼ぶ。数キロ行くごとに名前が変わり、先の方ではL. Erhard通り、F. J. Strauss通りとなり、F. EbertW. BrandtK. Adenauer大通りにつながる。すべて歴代首相と大物政治家の名前だ。途中に連邦議会や首相官邸がある。実際、白バイとパトカーに先導された高級車の車列がしばしば通る。そのたびに通行規制があるが、住民もドライバーも慣れたもの。警官の数で通過する人物の「重要度」が分かる。

  EU議会選挙を控えた6月7日午後。各党の選挙ポスターの写真を撮っておこうと、自転車でこの通りをゆっくり走った。だが、いつもと雰囲気が違う。警官の数が異様に多い。小さな通りにまで細かく配置されている。ポスターを見つけて自転車を降りる度に、ガサッと木陰から警官が出てくる。これでは立派な挙動不審者になってしまう。近くに来たヒゲの警官に事情を説明しながら、今日は誰が通るのかと聞くと、「オルブライト米国務長官です」という。それで合点がいった。

  家の近くから眺望できるライン川対岸の標高331mの山頂にあるPetersberg城。この政府迎賓館で、このところ頻繁にG8閣僚会議や事務レヴェル会議が開かれている。通信社のHPで確認すると、この日もG8緊急外相会議(高村外相は欠席)があり、夕方からオルブライトとロシア外相が米大使公邸で会談予定とあった。公邸は私の家の2キロ先にある。その夜遅く、ヘリコプターが上空を通過した。滅多にないことだ。搭乗人物が誰で、どこへ行ったのか。確認をとるすべはない。

  その64時間30分後の10日午後3時半。NATOの空爆の停止が宣言された。直ちに国連安保理は、コソボへの国際部隊(5万人規模)の展開と、暫定統治機構の設置を定めた決議を採択した。78日間の空爆は一体が何だったのか。本当に他に手段がなかったのか。その総括は始まったばかりだ。

  週刊誌Der Spiegel の編集責任者R.Augsteinは5月31日号で、この戦争を「オルブライト米国務長官の戦争」と位置づける。コソボ問題での彼女の強硬な姿勢の背後に、プラハに生まれ、11歳のときにナチスによる追放と迫害を体験したことが影響しているという。また、空爆のような方法はバルカンのような紛争の解決には役立たない。それでも実施した戦略的意味は、NATOを、50年続いた防衛同盟として維持することはもはやできないことを、ヨーロッパに明確にすることにあった。インドネシア、スーダン、アンゴラなどで、コソボよりも多くの殺戮や強姦が行われており、アフリカだけで600万を超える難民がいる。このコラムでAugsteinは、アメリカが軍事介入するときの狙いを鋭く突く。オルブライトの個人的事情も含め、この空爆を「人道的戦争」と簡単に正当化できない「裏の事情」については、今後もっと明らかにされるべきだろう。

  冷戦の象徴NATOは、冷戦終結により存在理由を問われ続けてきたが、この戦争で、宣伝広告費を使うことなく、全世界にその存在をアピールできた(NATO加盟国の軍隊も軍需産業も同様)。アメリカもまた、ヨーロッパの社民系政権に戦争をやらせることで、「同盟忠誠」を確かなものにした。このあたりが、国防総省よりも国務省の方が戦争に積極的だったと言われるゆえんだろう。「戦争は別の手段による〔国際・国内〕政治の継続」(クラウゼヴィッツ)という言葉はしっかり生きている。ミロシェビッチの責任とともに、国際法違反の空爆という手段をあえて選択した側の責任も問われるべきだろう。
  なお、ブリュッセルのNATO本部前の通りが「オルブライト通り」に改名されるという話は、今のところ聞かない。

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