芦部信喜先生のこと 1999/8/30 ※本稿はドイツからの直言です。


月12日、憲法学者・芦部信喜先生(東大名誉教授)が亡くなった。すぐ翌日、朝日新聞ホームページの訃報欄で知った。思えば、20年前の同じ6月に恩師の有倉遼吉先生が、10年前の6月には私の父が亡くなっている。

  芦部先生は筆まめで知られた。私も20代半ばの大学院生時代、論文抜刷などをお送りすると、すぐに先生から礼状が届き、恐縮したものだ。
   初めて先生と直接お話しする機会を得たのは、1983年10月の全国憲法研究会の秋季学会(京都)の時だった。私は30歳。札幌学院大に赴任直後で、しかも初の学会報告。ホテルで、緊張して報告準備をしていて、気分転換にロビーに降りると、そこに先生がおられた。「君も同じホテルですか」と、そこに座ってしばらくお話させて頂いたのが、今でも鮮明に思い出される。私は西ドイツ政党法制の問題を報告することになっており、そのなかで、議論の重点が今後、政党に対する国庫補助の問題になるだろうこと、国庫補助がなされた場合、ドイツでは政党収入の半分までを限界とし、それを超えた場合、政党は国家機関化するという議論があることなどを指摘すると、先生は、「そういう議論は日本ではあまりなされていないが、今後重要になるでしょう」という指摘を頂いた(私の報告は、『法律時報』1984年2月号掲載)。

   その4年後の1987年。出版したばかりの拙著『戦争とたたかう:一憲法学者のルソン島戦場体験』(日本評論社、絶版)をお送りしたときは、便箋何枚にも渡る長文の礼状を頂いた。「若い人が、私たちの世代の戦争体験を継承することは大変大切です」という趣旨のことが書かれていた。そこには、先生の平和や9条に対する熱い思いがつづられており、深い感動を覚えた。手紙は東京の自宅に大切に保管してある。

  とくに印象に残っているのは、日本公法学会(97年10月、東大安田講堂) の際の、憲法施行50周年記念講演である(『公法研究』に全文収録)。そこで先生は、憲法訴訟論の歴史を振り返りながら、自己の学問と日本国憲法の50年を総括された。
   とくに二つの言葉が私の印象に残っている。
   一つは、宮沢憲法学の位置づけを語るなかで、「法の科学」の問題を強調したことだ。芦部先生というと、憲法解釈中心の人と思われがちだが、初期の作品には「法の科学」を自覚した業績も少なくない。その意味で、「法の科学」の問題を、あの時点であえて取り上げた先生の意図は何だったのか。そこには、あとに続く者への重要な「宿題」が含まれているように感じた。
   もう一つは、憲法裁判の具体的な話をするなかで、「勝てる理論」という言葉を使ったことだ。誰のための憲法訴訟論か。官許の学問ではなく、市民の人権をどうやったら裁判所を通じて実現できるか。あえて正面からそれを語ることなく、実質的に貫こうとする先生の姿勢が伺える。理念と現実に対する深い洞察が常にその背後にある。
   講演中も、体調が万全ではなさそうで、どことなく辛そうな感じだった。講演終了後、出口付近におられた芦部先生のもとに近づき、「すばらしい講演でした」と話かけると、「どうも」といって微笑まれたが、顔色が大変悪かった。その時、私は、この講演に託した先生の決意を感じた。先生の「人と学問」から学び続けたいと思う。

  とくに、憲法改正のムード的議論が広まりつつあるいま、憲法制定権力や憲法改正について原理的考察を加えた初期の作品は、熟読に値する。ご冥福をお祈りしたい。

〔今回の「直言」は、ご逝去の翌々日に書いた長文の個人的メモを圧縮したものである。予定稿としてプールしてあったが、日本のお盆が終わったこの時期に公表する〕

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