番外編(5・終)イタリアの交通事情 2000/3/20 ※本稿はドイツからの直言です。

年間付き合ってくれた家族に、「最後はどこでも好きな所へ行く」と宣言した。彼らが選んだのはベルリンとイタリアだった。ボンからはかなり無理なコースだが、約束は約束。仕事を停止して出発した(という事情で、ご迷惑をおかけした編集者の方々にお詫びします)。
  ベルリン、ポツダム、フィレンツェ、ローマ、ピサをまわる8日間の旅。全行程4110キロ。途中、私の希望でバイエルンのヘレンキームゼー(基本法草案起草の場所)に寄る。フィレンツェやローマでは、車をビデオ監視付駐車場のあるホテルに置いて、徒歩とタクシーでまわった。見るべきものが多く、エジプトと並んで「すごい」の一言に尽きる。最終日は「ピサの斜塔」近くのホテルを朝6時に出て、その日夜にボンにたどり着いた(1日で1100キロ) 。
  ドイツは9カ国と国境を接しているが、日本と共に三国同盟を組んだイタリアとの国境はない。ドイツからイタリアに入るには、スイスからのルート(E-35)とオーストリアからのルート(E-45,60) が一般的だ。ベルリン経由なので、行きは後者、帰りは前者を通った。これが結構大変だった。
  アルプス越えトンネルは狭くて暗い。対面通行の所もある。片側2車線でも、走行車線は大型トラックがびっしり詰まっており、仕方なく追越し車線を行く。すると後方からイタリア車が急接近してきて、バッシングで圧迫する。おまけにクラクションまで鳴らしてくる。カーブする狭いトンネル内なので、100キロが限度。これ以上出せば、左側の壁か、走行車線のトラックの列に接触してしまう。長いトンネルを、イタリア車の閃光とクラクションの嵐を浴びながら走った。やっとのことでトンネルを抜け、トラックの列の間にすべり込むと、イタリア車10台ほどが猛スピードで疾走していった。静かになった追越し車線に戻ると、残ったのはドイツ車ばかり。私の後方からはスポーツタイプがノロノロついてくる。ドイツのアウトバーンなら200キロは出しているだろうその車は、イタリア車に圧倒されて妙におとなしい。
  市内の交通もすごい。道路交通法など無きに等しい。ウインカーを出す車は稀。大きな道路に横から進入するとき、まずグワッと体半分入れてから止まる。ドイツでは考えられない。私の進む方向に何台も入って隙を伺い、少しスピートを落とすや、後続の何台かもドッと出てくる。規則よりも勘で動く。アバウトだが、身のこなしは軽やか。一流のF1レーサーが生まれるのも、こういう土壌があるからだろうと納得した。市内では、ミニバイクの大集団が車の前後左右を走り回る。フィレンツェのタクシー運転者は彼らをモスキート(蚊)と呼んだが、私には虻(アブ)の大群に見えた。
  アウトバーンはよく整備されているが、標識は他国と微妙に異なる。とくにガソリンスタンドのそれ。ドイツなどではスタンドの絵に数字が書いてあり、何キロ先で給油できるかを適宜教えてくれる。あと1500メートルという標識の下には、58キロという数字が付加され、「ここで給油しないと、58キロ先までないけど大丈夫?」という情報になっている。たまたまローマ付近でガソリンが残り少なくなったとき、標識を見ると「46キロ先」とある。「これならもつな」と走っていると、78キロの標識。ギョッとなって次を見ると、何と102キロ。「やばい、ガス欠か」と不安にかられていると、「あと500メートル」の標識。見事に入りそこねた。よくよく見ると、横に石油会社のマークが必ず付いている。つまり、当該メーカーのスタンドは何キロ先にあるという意味だった。「あたし、シェルのスーパーしかだめなのーッ」というブランド嗜好にこたえるためというわけでもあるまいが、ドイツ式になれたドライバーは混乱する。アウトバーン上の標識は、安全な走行を確保するという公共的性格をもつ。だが、イタリアでは、私企業の広告の役割も与えている。アウトバーン上の「公」と「私」。ここにもお国柄が出ていて面白い。
  帰宅して車を見ると、左前輪のホイールが傷だらけ。タイヤ空気口のキャップの先が焼け切れている。トンネルの壁で擦ったらしい。人生でおそらく最後の大旅行を終わり、残りの仕事を片づけつつ、引越し準備に入っている。