雑談(5) 人間における「間」の意義  2000年9月18日

国直後の4月、授業のため教室に向かったときのこと。両手いっぱいに資料を抱え、前の学生に続いて教室に入ろうとしたところ、その学生は勢いよくドアから手を放した。危うく顔をぶつけるところだった。呆然となった。ドイツ(ヨーロッパ)では、ドアを手で支えて少し待ち、続いて入ろうとする人に引き継ぐ行為がごく自然に行なわれている。重い荷物を持った人が来ると、しばらくドアを開けて待つ。ニッコリ微笑み、目礼を交わす。こんな所作に慣れていたため、帰国後、日本人の「ドアマナー」の悪さを痛感した。先日、東京駅で入口の扉をおさえたら、そのままググッと入って来た「紳士」がいた。フンッという顔をしてどんどん歩いていく姿を、ドアに手を添えたまま呆然と見送った。ドアを自分で開けたことのないのは天皇くらいだと思っていたが、大手町にはこういう輩がいるのだろう。もちろん、ドアマナーを身につけている人は日本にもたくさんいる。だが、前述の学生のようなタイプが多いように思う。桝谷邦彦『ドイツの魂――21世紀の頑固と丈夫』(講談社)によると、日本の出入口はもともと障子や襖のような引き戸で、ドアをおさえる習慣が身に付かなかったところに、自動ドアが普及した結果、こういうことになったようだ。なるほどと思いながらも、何だかさみしい。自分の後に続く人がいないかどうかチラッと見て、ほんの一瞬ドアを手でおさえておく。ごくわずかな「間」。ささやかな余裕といってもいい。社会にとって、この数秒の意味は存外大きいと私は思う。

   「人間」というのは、「人」の「間」と書く。人と人との間にある空間を意識すること。人間関係がうまくいくかどうかは、結局、この間隔(距離のとり方)に依存しているのではないか。自分の権利をしっかりと自覚しながら、相手の権利との間の「間隔」に配慮すること。それができて初めて、人権感覚も身につく。だが、実際はそうなっていない。例えば、このところ問題化しているストーカー。これは、実は人間の本質に関わる問題を含んでいるように思う。異性(もしくは同性)に恋の気持ちを伝えたい。だが、その方法が分からない。昔から、ラブレターを下駄箱に入れておくとか、校門のところで待ち伏せするとか、淡い恋の物語のはじまりは、実に素朴だった。ひょんなきっかけで、二人の間に恋愛感情が芽生える。二人の間隔を縮める手段が手紙であり、「待ち伏せ」という行為だったわけだ。毎日のように手紙が彼(彼女)から届く。毎日、偶然を装って下校の途中で彼(彼女)に声をかける。昔なら微笑ましい、淡い恋のはじまりだったことが、今やストーカーという一言で片づけられそうな勢いだ。自分の感情の一方的放出が、相手をどれだけ傷つけているかが理解できない。いわば「自己チュー」である。これは自分のことしか考えないという自己中心型(通常の「自己チュー」)もあるが、さらに悪化すると、自分自身に盲目になって他者排除に向かう自己中毒型(私のいう「新自己チュー」)に至る。排他的ナルシズムの極致である。そうならないためには、人と人との「間」を大切にすることだ。だが、長時間労働や通勤地獄など、人間から「間」が奪うものが多すぎる。携帯電話も「間」を奪う道具だ。私はその一方的放棄をすでに宣言し、周囲にもこれに続く人があらわれた。携帯は便利だが、使い方次第で、分単位で相手を拘束し、相手に拘束される超過密関係を生み出す。相手が留守電にしていたり、話中だったりするとたちまち不安になる。「おい、何で出ねぇんだよぉ。別の男でもできたのかよぉ」。新宿駅近くを歩いている時、背後で大声がしたので振り向くと、金髪男が携帯に向かって怒鳴っている。目は座っていた。「間」が持てない、「間」抜けな男がまた一人、相手を傷つける「新自己チュー」になろうとしていた。携帯をもっているあなた。「間」を大切にしましょう。「間」の取り方を誤ると「間違う」ことになるから。

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