皇太子と結核検査 2000年10月30日

10月4日付『朝日新聞』(東京本社)の第二社会面に小さな記事が載った。見出しは「宮内庁東宮職幹部が結核感染、皇太子夫妻あす検査」。東宮御所に勤務する宮内庁の幹部職員が、感染の可能性がある「活動性結核」と診断された。皇太子夫妻も5日、レントゲンなどの検査を受ける。そんな記事だった。翌々日の続報によれば、検査結果は異常なしだったという。
   1500万人以上が海外に旅行する現在、さまざまな感染症が国内に入ってくるし、抵抗力の衰えた日本人の体に、昔の感染症が「再興」することだってあり得る。だから、『週刊新潮』10月19日号のように、「宮内庁の失態」と声高に糾弾するのはいかがなものか。「お掘りの向こうの人々」といえども、感染症の危険と無縁ではないということを、この事件は教えてくれた。そう考えればよい。誰もが感染症の知識を持ち、その予防に注意する。感染症の患者となった人々に対する偏見を捨てる。誰でも病気になり得るという前提に立って、感染症に対処することが大事だと思う。


   この点で、昨年4月1日に施行された「感染症予防・医療法」が注目される。この法律により、伝染病予防法、性病予防法、エイズ予防法の三法が廃止された。旧伝染病予防法は1897年の法律で、患者の強制収容、交通遮断・隔離、業務従事の禁止、患者・死体の移動制限、家宅等の立入りなど、おどろおどろしい規定が並ぶ。「社会防衛」を突出させ、患者=危険な存在という発想が濃厚だった。11年前に制定されたエイズ予防法にも同様の発想が残る。例えば、「感染者の遵守事項」(6条)には、「人にエイズの病原体を感染させるおそれが著しい行為をしてはならない」という一文があった。患者に対する偏見を生む規定である。この法律も廃止された。
   なお、らい予防法は4年前にようやく廃止されたが、患者の強制隔離を基本に据え、医学的知見を無視する人権侵害規定を多く含む法律だった。これが、ごく最近まで存続し得たこと自体、問題だろう。

  そういう背景を踏まえて、昨年施行された「感染症予防・医療法」には、法律には珍しく、長い前文がある。「人類は、これまで、疾病、とりわけ感染症により、多大の苦難を経験してきた」で始まる前文は、医学の発達と衛生水準向上により多くの感染症が克服されてきたが、近年、国際交流の進展などにより、感染症が新しい形で脅威になっている事実に言及する。そして、日本において、ハンセン病〔らい病〕やエイズの患者に対する差別や偏見が存在した事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことを強調する。その上で、「感染症の患者等の人権を尊重しつつ、これらの者に対する良質かつ適切な医療の提供を確保し、感染症に迅速かつ適確に対応する」ため、「これまでの感染症の予防に関する施策を抜本的に見直し、感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する総合的な施策の推進を図るため、この法律を制定する」としている。
   旧伝染病予防法などとは発想が違う。ハンセン病患者やエイズ患者への差別と偏見。それに対する反省の上に、この法律は制定されている。長い前文をつけたのも、この姿勢を明確にするためだった。感染症とどう向き合うか。同法は、患者の人権を基礎に置くことを強調する。大事な視点である。感染症の予防の総合的推進を基本にしながら、感染症に関する情報の収集と公開を定める。感染症の疑いのある人に対する健康診断、就業制限、入院の規定もあるが、伝染病予防法のような「社会防衛」的見地のものと異なり、本人に対する配慮がギリギリ追求されている。伝染病予防法やエイズ予防法が廃止され、「感染症予防・医療法」がそれにとって代わったことを知る人は多くはないだろう。この機会にこの条文を読むことをお薦めする。
   なお、この法律は、小型六法の類では、『三省堂新六法2001』にのみ収録されている。井田良氏(慶大教授)の解説も有益である。

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