「世に単によい政府なし」(植木枝盛)   2000年12月25日

93年7月。集中講義で1週間、高知に滞在したことがある。夜間2コマの授業だったので、昼間は車で室戸岬から足摺岬、四万十川上流など、高知県内を動きまわった。高知市内の自由民権会館も見学。そこに、高知が生んだ自由民権の思想家・植木枝盛の「東洋大日本国国憲案」(1881年)が展示してあった。

  私が注目したのは、大日本帝国憲法と日本国憲法と植木の国憲案の比較対照表だった。前2者の比較ならば講義でもやる。だが、植木案との3者比較は初めて見た。そして、植木案にあって、日本国憲法にない条文を見つけ た。第45条「日本ノ人民ハ何等ノ罪アリト雖モ生命ヲ奪ハサルヘシ」。死刑廃止条項である。日本国憲法31条(「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」)に比して、一歩も二歩も進んでいる。31条は死刑を積極的に根拠づける条文ではないが、しかし、死刑を正面から否定している わけでもない。植木案は死刑廃止条約に先行すること108年。死刑廃止の条文化を行っていた意味は大きい。

  21世紀にも引き継ぐべき古典は色々あると思うが、私は『植木枝盛選集』(家永三郎編、岩波文庫)を挙げたい。政治家としては歴史に残るものはないが、彼の思想上の業績には、時代を超えた先駆的識見が多々含まれている。近代西欧思想の摂取に際して、明治中期以降のような日本的歪曲を受けないため、論理的に徹底しているとの評価もある(家永)。事実、国憲案を見ると、抵抗権や革命権、徹底した地方自治、各種の人権規定など、近代憲法のエッセンスがみずみずしい形で展開されている。ただ、皇帝(天皇)の権限をかなり広範に認めており(とくに議会の議を経ない徴兵〔79条〕などは問題)、完全な共和制を採用するまでには至らなかった。ここから、植木は共和制を否定しているとの評価もある(米原謙『植木枝盛』中公新書)。また、常備軍や皇帝の「兵馬ノ大権」(統帥権)も認めている。ただ、その一方で、「無上政法論」(1880年)には、 「万国共議政府」設立と軍備縮小など、カント『永遠平和のために』につながる着想も見 られる。

  要するに、植木の思想(国憲案)には、革命権などラディカルな思想と、立憲君主制憲法の「穏和」な思想とが併存しており、憲法史的な「雑居性」が確認できよう。近代立憲主義の「生煮え」的摂取が、皇帝(天皇)についての「現実主義」的規定にも関わらず、かえって新鮮で、強烈なインパクトを持続させた所以かもしれない。日本国憲法制定過程で、占領軍民政局のスタッフが重視した憲法研究会案。その起草にあたった鈴木安蔵が植木枝盛研究者であったことから、植木の思想は「まわり道をたどって」日本国憲法のなかに反映していると評される(家永)。

  なお、『植木枝盛選集』の巻頭文「世に良政府なる者なきの説」(1877年)は、短いが印象深い文章である。要旨はこうだ。よい政府というものはない。人民がよい政府にできるだけだ。人民が政府を信じれば、政府はこれに乗ずるし、信ずることが厚ければ、ますますこれに付け込み、また、よい政府などといってこれを信任し、これを疑うことなく監督を怠れば、必ず大いに付け込んで、よくないことをやるだろう。だから、世に単によい政府なし、と。そして、次の文で終わる。「ただし世人、もし余が言を以て余り激烈と思えば、左様思え、余輩はすなわちかくの如き人には唯一の望みあり、あえて抵抗せざれども、疑の一字を胸間に存し、全く政府を信ずることなきのみ」。政府に正面から抵抗できなくても、政府を監視・チェックする姿勢を持続することの大切さを説いたものだ。早晩、今のハチャメチャ内閣に代わって新しい政権が生まれるだろう。どのような政権が生まれようとも、市民は決してこれを信頼してはならない。そして植木枝盛の言葉を噛みしめるべきだろう。「世に単によい政府なし」と。

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