語尾あげと政治的抑揚  2001年2月19日

つては「半クェスチョン」(半クエ)だったが、いまは「語尾あげ」と言うそうだ。昨年12月、これがテレビ朝日「ニュース・ステーション」の特集テーマになった。面白かったのは、「語尾あげ」の実験。普通の言葉を「語尾あげ」したものを被験者に繰り返し聞かせていると、ストレスがかなり上昇する。通常の会話のなかで、そのつど不自然な同意を求められるので、無意識のうちにストレスが高まるわけだ。例えば、当人しか知らない出来事に「語尾あげ」を使うと、こうなる。「昨日、初めて?、地下鉄大江戸線?、に乗って、築地市場駅?で降りて、市場に近いお寿司屋さん?で、久しぶりに特上?を食べたの。彼と」。「で、美味しかったのかい」と質問するのもいやになるほど、相手は話の間中、無意識のうちに何度もうなずかされている。この種の「語尾あげ」を仲間うちで使うのは勝手である。なぜなら、相手も「語尾あげ」で話していることが多く、お互いが完全同調モードになっており、「語尾上げ」は話の「ノリ」ないしリズムの問題にすぎないからだ。だが、オフィシャルな場面では、これを使ってはならない。面接試験の際に「語尾あげ」を使ったら、私は間違いなくマイナス点を付ける。「ニュース・ステーション」に出てきた女子学生たちは、「語尾あげ」を嫌う男性たちに対して、「何でこれがいけないの」とのたもうた。自分の言葉づかいが仲間うちのものであることに気づいていない。男性たちは悲しそうな顔をしたが、彼女らは笑いとばしていた。これを「厚顔無知」ないし「傲慢無知」という。自分の言葉については、その内容だけでなく、発音・抑揚も含めて、自覚と責任をもつべきだろう。

  そこで思い出したのだが、政治の世界にも、独特の抑揚の問題がある。「要求」「前提」「方針」などは前にアクセントを置くことが多い。極めつけは「国会」。70年代はじめ頃だったと思うが、共産党幹部が国会を「黒海」と発音するようになった。これは不破哲三氏の独特の言い方に起因する。不破氏が使うと、いつの間にか幹部や議員たちにも伝染し、声のトーンまで似てくるから不思議だ。「明瞭であります」も不破氏の癖。「明確であります」や「明らかです」よりも頻度が高い。それと「当然であります」。いずれも「で」にアクセントがある。ちっとも「明瞭」ではなく、「当然」でもないことが、「で」にアクセントを置くことで、より断定的に響き、そこでの説明責任が断ち切られる。同党は昨年11月に党大会を開いて、「自衛隊活用」論に転進した。それまでの方針との整合性が鋭く問われても、たいした説明もなしに「活用」は「当然であります」とされた。なぜ、もっと誠実に対応できないのか。雪印やそごうの問題、警察不祥事などに共通していることは、企業エリートやキャリア官僚たちが、末端の社員や公務員、あるいは普通の市民といかに感覚がずれているか、ということだった。共産党の高級幹部たちにも、これと重なるところがある。ところで、私は昨年4月から12月までの9カ月間に全国各地で30回講演をした。主催団体により、雰囲気だけでなく、言葉づかいも微妙に異なる。私が違和感を感じたのは、ある会場で司会者が、「発言の際は、組織名と名前を最初に言って下さい」とやったとき。組合などの「動員」のせいだろう。私は質問に答える前に言った。「市民に開かれた集会である以上、名前だけでいいのではないですか」と。言葉づかいもそうだ。「平和憲法を守る」という集会で、司会や発言者の使う言葉に「勇ましい言葉」が存外多い。組合や政治の用語は軍事用語から派生したものが少なくない。平和を求めるなら、言葉づかいや単語を見直すことも大切ではないか。「頭のなかの軍縮」である。前世紀型の、政党に系列化された運動ではなく、市民が自主的に担う運動の発展が求められるなか、誰でも違和感なく共有できる言葉づかいや抑揚、単語などを選びとることは、決して小さな問題ではないと思うのだが。これってぇ、無理ぃ?

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