原潜事故から見えるもの 2001年3月5日

急直言を出した3日後に、急ぎ書き下ろした原稿である。重複する部分もあるが、「なだしお」事件との比較もあるので、『法と民主主義』2001年2-3月合併号の巻頭時評「誰のための安全保障か」より転載する。

 「手スリにしっかり掴まって下さい」 案内の隊員が大声で叫ぶ。想像以上の急角度に、私も足を踏ん張って耐える。潜水艦のシミュレーター(潜航操縦訓練装置)での急速浮上体験の風景である。

 3年前の夏、広島県の高校の先生方の研究会で講演した際、翌日の「見学ツアー」に誘われた。呉市とその周辺にある旧海軍や自衛隊の施設を見てまわる企画。そのなかに潜水艦教育訓練隊(潜訓隊)が含まれていた。「自衛隊は違憲」という講演を聴いた後だろうと何だろうと、自衛隊にとって高校教員は大事なお客様。司令じきじきの挨拶。副長の二佐が案内してくれる。大変な歓迎ぶりだ。

 潜訓隊の建物の地下には、水上航行訓練装置がある。「世界中でここにしかない」というしろものだ。コンピュータを使い、360度のスクリーンには漁船やタンカーの姿が。本物と同じ艦橋に教官と訓練生が立ち、操艦訓練をしていた。潜水艦は水中での活動が主だが、海自では、民間船舶との衝突を避けるため、水上航行訓練を重視しており、他国の海軍には見られない装置、と隊員は胸をはる。

「なだしお」事件(1988年)の影響はさまざまなところに見られた。

 この事件では、海上衝突予防法の衝突回避義務の所在が争点となった。海難審判庁は「なだしお」と第一富士丸の双方に同等の過失があるとしたが、東京高裁は94年2月、この見解を退け、「なだしお」の不当な運航に主要な原因があると断定した。相手船を右手に見る側(「なだしお」)に衝突回避義務が生ずるが、艦長は速度を落とさず、第一富士丸の面前を通過しようとして事故を招いた、と高裁判決は認定したのだ(確定)。漁船(「民」)に対する「軍」の優越感が、強引な航行の背後にはある。

 ところで、自衛隊以上に、米軍の傲慢で、アグレッシヴな姿勢は際立っている。それは、沖縄に少しでも滞在すれば、たちどころに体感できる。今回の事故は、在沖米軍の数々の犯罪行為の延長線上にある。95年の少女暴行事件の際、「金で女性を買えばよい」と言ってのけ、辞任に追い込まれた司令官(海軍提督)が、今回の「原潜ツアー」の仕掛け人というのも象徴的な話である。

 「波が高いから」などとガラにもないやわなことを言って、溺者救助を命令しなかった米原潜艦長。事件発生直後に、先回りして米軍弁護論を展開した日本外務省の政務官(別名、米国務省第51出張所事務補佐代理)(注)。事故の報告が入ってもゴルフをやめなかった男(私は憲法70条、内閣法9条を潜脱した内閣総辞職とこの男の首相就任を認めていない)。

助けを求める高校生たちの声は、日米の「国家の論理」にかき消されてしまった。そして、渡米した家族もはっきりと認識した。「誰のための安全保障か」を。米軍も日米安保条約も、日本の市民を守ることを目的としてはいないのである。

(注)2月13日(日本時間)、ホノルルで記者会見した桜田義孝外務政務官は、「船長が、潜水艦による捜索活動に不満を抱いていると聞いているが」という記者の質問に対して、「救助活動が適切に行われたと私自身認識している。これは落ち度がなかったと認識されている」と答えた。前段の質問にこの政務官は、「日米同盟関係が過去50年間友好に推移しており、今回は不幸な事故だが、この困難を乗り越えて日米関係を強固にしていくことで、アジア、さらには世界のために貢献すべきだ」と述べている。原潜事故が起きたわずか3日後、捜索活動への不満が出ており、責任問題、補償問題などがこれからという重要な場面でこの発言である。

 ロサンゼルス級攻撃型原潜の「グリーンヴィル」(SSN-772) 。96年就役のこのシリーズでは新鋭艦である。ソ連原潜という最大のターゲットを失い、途上国への威嚇(巡航ミサイルを叩き込む)の道具と化している。その一方で、テーマ・パークの観光船さながら、「鯨ジャンプ」を売り物に、民間人の体験ツアーを続けてきた。リストラを回避するための過剰サービスである。今回、「えひめ丸」の位置を承知の上で、故意に近くに急浮上して、「見せ場」を作ろうとしたのではないか、との疑惑も指摘されている。だとすれば、「訓練の際の不慮の事故」いう言い逃れは通用しない。

 たとえて言えば、冷戦後にリストラ対象となった戦車部隊で、市民向けの体験ツアーを実施中、隊長が民間人に戦車を操縦させて暴走させ、一般道に飛び出し、通りかかったスクールバスを押しつぶしたケースに近い。隊長の責任は当然としても、戦車を使ったPRを日常的に行わせていた上層部の責任も重大である。

 

この事故は、アジア・太平洋地域の「死活的利益」を守るという日米間の国家的約束(「日米安保共同宣言」)の本質をあぶりだした。他国を武力で脅す「軍事力による平和」を追求し続ける限り、こうした「民」の犠牲はなくならない。私たちはもっと怒るべきだと思う。徹底した真相究明と責任の追及、被害者の救済と同時に、「原潜も軍隊もいらない」という声を強めていかねばならない。

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