「第九のふるさと」訪問  2001年6月11日

年の憲法記念日は徳島市で講演した。ドイツに滞在した91年と99年、それに全国憲法研究会の事務方をやった96年を除き、5月3日は「日本のどこか」で講演してきた。ボン滞在中の昨年1月に徳島から講演依頼が来たが、その時すでに札幌(4/28)と広島(5/3)の連続講演を引き受けていたため、お断りしていた(Aさん、ごめんなさい)。だから、今年になって再度依頼が来た時は、瞬時に「快諾」(これは相手が使う言葉だが)した。四国のなかで徳島だけはまだ訪れる機会がなかったことも動機の一つだ。主催団体の元気な女性たちのおかげで、講演前後の時間を使い、充実した徳島観光をすることができた。この場を借りてお礼申し上げます。

  市内の「阿波おどり会館」も見学。阿波踊りライブの最後の場面で、生まれて初めて阿波踊りを踊らされてしまった(笑)。単純な動きの踊りとばかり思っていたが、「花鳥風月」の微妙な踊り分けがあって、実に奥深い世界があることを知った(Oさんありがとう)。

  講演の翌日は、主催者の一人が吉野川河口堰問題の中心メンバーということもあり、吉野川のポイント地点を案内してもらった(Nさん、感謝します)。この問題の背景をいろいろと学ぶことができた。

  午後は鳴門市に向かい、ドイツと日本に関わる重要な場所を訪れた。これは私にとって貴重な体験だった。4月末の沖縄講演の帰途、中城村(なかぐすくそん)の中城城跡公園を訪れたが、そこの忠魂碑に「日独役戦死者」とあった。1914年に始まった第一次世界大戦で、日本はドイツに宣戦布告。中国の山東半島のドイツ租借地・青島(チンタオ)を3万の軍で包囲したのだ。ドイツ軍は降伏。4700人のドイツ兵捕虜が日本各地の捕虜収容所に送られた。鳴門の板東収容所には約1000人のドイツ兵が、約3年間収容された。所長の松江大佐は白虎隊で有名な会津藩の出身。「武士の情け」から捕虜への寛大な扱いに徹した。副官の高木大尉はドイツ語が堪能だった。捕虜たちは自由に所外に出ることができた。所内の池ではヨット遊び、テニスコートやホッケー場など、スポーツ施設も充実していた。1919年には競歩大会(21キロ)が行われ、沿道で住民が声援をおくっている。特筆すべきことは、捕虜の多くが召集兵だったため、職人や技術者、インテリが多く、牧畜、製菓、西洋野菜栽培、建築などの技術や音楽、美術を地域の人々に教えたことだ。地元市議T氏(小説や作詩もする芸術家)の案内で、市内各地に残るドイツ捕虜の足跡を見てまわった。ドイツ式の立派な牛舎やドイツ橋などのほか、ドイツパンやソーセージの技術も受け継がれている。ドイツ館には、収容所内につくられたオーケストラの楽譜や楽器、コンサート・ポスターが展示されている。楽器職人もいて、コントラバスまで手製で作ってしまった。ポスターは見事なカラー印刷だ。コンサートは年間34回に及んだ。曲目は、ベートーヴェンの交響曲だけでも1番,4番,5番,6番,9番。特に第9番ニ短調「合唱付」は、1918年6月1日に全曲演奏され、これは日本における初演となった。捕虜は男性だけなので、音楽家の一人が男声に編曲した。市民にもエンゲル・オーケストラとして親しまれ、エンゲル音楽教室には地域の人々も通って音楽を習った。地域の人々は捕虜のことを「ドイツさん」と呼んだ。戦争がきっかけだったが、彼らが滞在した3年間はまさに日独文化交流そのものになった。戦争が終わり捕虜が帰国することになると、1919年10月10日から4日間、徳島の新富座で、捕虜によるお別れ演芸会が開かれた。これと連動して、和洋大音楽会が開かれ、捕虜オーケストラは日本の曲も演奏して市民の喝采を浴びたという。ドイツに帰国後、捕虜たちのなかで、日本や日本文化を紹介する書物の出版が相次いだ。以来、鳴門市とドイツとの交流が続いている。鳴門市はニーダーザクセン州リューネブルク市の姉妹都市だ。ドイツ館の建物はリューネブルク市庁舎をモデルにしている。毎年6月の第一日曜には、鳴門で「第九」のコンサートも開かれている(1998年には小沢征爾氏も指揮)。なお、詳しくは、Hie gut Deutschland alleweg どこにいようと、そこがドイツだ 板東俘虜収容所入門』鳴門市ドイツ館発行)参照。この言葉は、収容所内に残されたドイツ兵捕虜の落書きからとったものである。

  いま、ドイツ館の入口の近くに、賀川豊彦鳴門記念館が建設中である。ドイツ人捕虜が建設した牧舎(旧富田製薬畜産部)がモデルだ。キリスト教の伝道者として、また社会政策(救貧から防貧へ)や農民運動、生活協同組合設立に深く関わり、グローバルな平和運動に生涯をかけた賀川豊彦の思想と行動を記念するのには絶好のロケーションだと思った。ボンで知り合い、研修のため日本で滞在していたドイツ人司法修習生にこのことを話すと、彼は大きな関心を示し、九州方面の旅行の帰りに鳴門に立ち寄りたいと私に話した(先月メールが届き、時間切れで帰国したそうだが、今度来日したら鳴門に直行するという)。私も、渦潮見学も入れて、今度は仕事抜きで鳴門を訪れることにしよう。