学生たちはヒロシマ・ナガサキをどうとらえたか 早大水島ゼミの経験
                       水島朝穂(早稲田大学法学部教授)

一 鎌田先生との「出会いの最大瞬間風速」
 次の文章は、この三月に卒業した四期生の『水島ゼミナール論文集』に寄せた巻頭言である。やむにやまれぬ気持ちで一気に書いたこの文章の引用から始めたいと思う。

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手元に一通の手紙がある。長崎平和研究所の鎌田定夫所長からの原稿依頼である。定型書式A4の余白には、読みにくい、小さな文字でびっしり書き込みがある。それは原稿用紙一枚と小さな紙片へと続き、ホチキスで留めてある。正式の原稿依頼状にしては、異例のラフさである。早大教員組合書記長として団体交渉を前に超多忙だった私は、内容もよく読まずに、依頼を断ることに決めた。手紙を机の横の既決箱に投げ込み、仕事を続けた。しかし、か細い字でびっしり書かれた手紙のことが妙に気になり、事務局への断りのメールを出すつもりが、「三月末まで締め切りをのばして頂けるならば、お引き受けします」と発作的に書き換えた。手紙をよく読んだ上での結論ではない。何となくである。封筒を開けてから承諾メールを送信するまで、わずか数分の出来事だった。そして、ゼミのメーリングリストに、鎌田先生に取材した平和班のメンバーが、感想や意見を寄せてほしいというメールを流した。
 翌朝、『朝日新聞』〔二月二七日付東京本社発行〕を開いて愕然となった。社会面マンガ下に、鎌田先生ご逝去を知らせる記事が。学生たちにメールを送った時間に、鎌田先生は亡くなっていたのである。
昨年九月三日から六日まで、水島ゼミ長崎合宿が行われた。その際、平和班は鎌田先生や長崎平和研究所の先生方に取材をした。長崎総合科学大学の前原助教授は、「大学生の長崎報告から学んだこと」という文章を『長崎平和研究所通信』二〇号(一月二八日)に寄せた。これは、水島ゼミ「長崎報告」の平和班報告に対する感想をつづったものである。九月四日にゼミ基地班が自衛隊基地に取材で入ったが、米軍基地の異様な緊張とセキュリティの厳しさを体験した。その一週間後に「米国同時テロ」が起きた。合宿日程が一週間遅かったら、基地調査は不可能だったろう。
私たちは、出会いと別れの連鎖なかに生きている。あのタイミングで鎌田先生と出会った学生諸君にとって、その体験は一生忘れられないものになるだろう。
今回、ゼミ論文集の巻頭言という場を借りて、鎌田先生の手紙の一部を紹介することにしたい。個人的な依頼の部分はカットして、ゼミに関わりのある部分に限って引用する。鎌田先生が亡くなる直前に、病院のベッドの上で、最後の力をふりしぼって書かれた手紙である。これを受け取ったとき、なぜもっとじっくり読まなかったのか。なぜすぐに返事を書かなかったのか。悔やまれてならない。皆さんも、鎌田先生の手紙に込められた気持ちを受けとめてほしいと思う。

 水島先生。お変わりありませんか。先般は大田寛さんらのゼミ報告集ありがとうございました。長崎総合科学大学の前原清隆さんに頼んで、あの報告集の紹介と感想を、『長崎平和研究所通信』No.20 に書いてもらいました。通信が先生やゼミの方に届けられているか分かりませんが、万一届いていなければ、大至急送るようにします。私が最近病状が悪化し、三週間前から長崎大学の付属病院に入院しているため、万事連絡が遅れます。一昨年七月、肝臓ガンや黄疸で入院し、コバルト照射で、どうにかガンの拡大を阻止してきたのですが、その後遺症がひどくなり、昨年は貧血で再入院。今回は血管がボロボロになり、瘤が血行を阻んで、うったい状態になり、三度目の入院です。腹水がたまって絶えず鈍痛におそわれ、完全に食欲がなくなったので、半月ほど点滴を受けました。さいわい二月上旬ころより事態は好転し、食事もとれるようになりました。二月一八日に血管造影で精査し、患部を見定めた上で、動脈瘤の措置に移ります。三五年のC 型肝炎、一〇余年の肝硬変症で、肝不全に陥るおそれもあり、成否は五分五分とか。この編集企画は入院1 週間目に作り、妻にワープロ清書してもらいました。二〇名の執筆者のひとりひとりに依頼状を書くので、少々時間がかかります。さて、水島先生へのお願いですが、二つあります。
(1)「広島、長崎で学生たちは何を学んだか」というタイトルは仮のものです。分かりやすく、本質をついた表現に直してください。
これまで数年間、水島ゼミが取り組んできた実践を要約、紹介しながら、特に広島、長崎での「平和研究班」の実践・教訓をまとめてほしいのです。読者は一般市民から大学の研究者にいたる不特定の人々です。この「平和教育・平和文化」欄は多分多くの読者から注目されるはずです。
報告のページ数が少なく申し訳ありませんが、広島・長崎での調査学習状況を示す写真を二、三枚つけていただけると助かります。
学生さんに執筆してもらうことも意義がありますが、今回は学習の助言者、指導者としての教師の役割を重視しています。そういうわけで、ぜひ水島先生ご執筆お願い致します。昨年は、長崎訪問直後、例の九・一一テロと報復の戦争が起こり、学生たちも否応なしにこれに巻き込まれてしまったはずです。八月八日、長崎を訪れた立命館大学アメリカンソサェティ、南太平洋群島大学の合同ゼミも同様でした(私も講演しました)。そのレポートは○○○さん〔手紙では実名〕に頼みました。【略】
 そういう次第なので、ぜひぜひお引き受けくださるようお願いします。長崎平和研究所及び長崎の証言の会関係の資料を同封します。
(2) 【略】
 以上二点、ぜひぜひご協力くださいますよう、お願いします。 鎌田定夫

 人はさまざまな出会いのなかで、いまがある。ゼミ論を書くために諸君が選んだテーマもまた、これからの人生のなかでいろいろな意味をもってくるだろう。長い年月が経過したあとに、再び出会うこともあるかもしれない。その時、自分の「未熟な」論文のことを思い出そう。そして、この巻頭言で紹介した鎌田先生のことも。合掌。
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原稿依頼の手紙の引用とその紹介が、依頼枚数の四割にもなるというのは異例だろう。だが、依頼文に添えられた書き込みは、私のゼミ学生をはじめ、若い世代に平和の価値を伝えたいという鎌田先生の真摯な姿を伝える記録として意味があるのではないか。そう考え、長文ながらあえて引用した次第である。

二 水島ゼミ「平和の現場」取材の旅
 私は、一九九六年四月、広島大学総合科学部から早大法学部に着任した。翌九七年から、三・四年専門演習(憲法ゼミ)を担当するようになる。テーマは「日本国憲法の動態的研究」。運営方針は、次の通りである。
 「ゼミナールの原語は『セミナーリウム』(苗床)である。種を蒔き、それに水や有機肥料をやり、太陽の光をたっぷり与えて、『問題意識』の果実を育てていく。ゼミは『学問の道場』である。取材能力、文献検索能力、論理的構成力、文章表現能力、プレゼンテーション能力などの錬磨の場である。さらに、ゼミ運営を通じて、教員と学生、学生相互、さらには取材を通じて出会う様々な分野の人々との、まさに『コミュニケーションの道場』である。アポの取り方、相手の意見の聞き方、自分の考えの伝え方、取材後のアフターケアなど。まさに『人間関係の道場』でもある。ゼミを有効に活用できるかどうかは、ひとえに参加者の姿勢にかかっている」(『法学演習講義要綱』水島ゼミ案内より)。
 私のゼミは年二回の合宿を行う。夏合宿は、三泊から四泊の取材旅行となる。学生自身がテーマを選び、場所を決め、取材対象を選定する。モットーは「まず現場」である。
 九七年の広島合宿では、まず大久野島(毒ガス島)に宿泊。島内をくまなく巡り、旧軍の毒ガス工場関係者に取材した。広島市内に滞在。大牟田稔氏(広島平和文化センター理事長、当時)らに平和都市ヒロシマの意義について話を聞いた。「もう一つのヒロシマ」を探るべく、岩国基地周辺も調査し、自治体関係者やピースリンク関係者にも取材した。なお、その後学生たちは「広島有志合宿」を二年連続で行って、大牟田氏からの聞き取りを継続している。氏は昨年一〇月一五日に亡くなったが、生前に頂戴した手紙のなかで、訪問した学生たちの名前を正確に覚えておられたのには感激した。
 九八年は沖縄合宿。「住民投票班」は、名護市の岸本市長や海上ヘリ基地反対協の関係者に取材した。「基地班」は米海兵隊関係者や基地訴訟の弁護団などに取材し、アメラジアンスクールなどを訪れた。「戦跡班」は、南部戦跡を中心に、アイヌ兵士の問題など、沖縄戦のさまざまな様相にこだわり、関係者から話を聞いた。「経済振興班」は、沖縄の経済界や行政関係者に取材した。琉球大学高良ゼミとの合同ゼミも実施。基地と経済振興の問題をめぐって議論をたたかわせた(『沖縄タイムス』九八年九月一一日付に紹介)。 九九年は指導教員が在外研究(ドイツ)のため、阪神・淡路大震災の現場を訪れ、「震災と法」の問題を考える関西合宿を、学生単独で実施している。二〇〇〇年は二度目の沖縄合宿。そして二〇〇一年が今回の長崎合宿である。
 平和班、基地班、原発班、公共事業・災害班、国際化班の五班に分かれて、長崎県内(一部は佐賀、福岡)各地を取材した。その様子は、私のホームページ(「直言」二〇〇一年九月二四日付)とゼミのホームページ、『毎日新聞』九月五日付佐世保版参照のこと。 さて、学生たちはヒロシマ・ナガサキをどうとらえたかの紹介に移る。私自身はその場にいなかったので、学生たちが書いた報告書やゼミ論がもとになる。なお、広島の大牟田、長崎の鎌田の両氏と学生たちが出会う場には、私はあえて同席していない。テーマや人との出会い、それは「自ら前に出る」から会える。そこでの出会いが新たな発見と、次の出会いを生む。そうしたポリシーから、私はすべてを学生たちにまかせている。

三 学生たちはヒロシマ・ナガサキをどうとらえたか
 ゼミ合宿報告書の平和班の章には、永井隆記念博物館での久松シソノ氏や中島万里神父からの聞き取り、長崎原爆被災者協議会副会長谷口稜譁氏、鎌田定夫所長らからの聞き取りなどを共通素材として、平和班の学生たちのさまざまな意見が載っている。
 ある学生は、「戦争体験のない我々の世代が、平和のために肩肘はらずにできること、すべきことは何か」という問いの立て方自体を問いながら、「体験がないのに分かるわけがない。わかったフリをするのは『偽善』だ」と、自分の意識のなかに潜む本音と向き合う。この質問に対する鎌田先生の回答はこうだ。「人間が人間として扱われない悲惨さは、例えば学校現場においていじめられた経験とか、その人なりの人間疎外の経験と重ね合わせれば理解できるのではないか」。だが、彼は納得せず、鎌田先生に問えなかった問を発する。「自分には人間疎外の経験はないのですが」と。かりに自己の疎外体験と想像力を駆使して「理解」できたとしても、それが直ちに行動につながるわけではない。ある種の「後ろめたさ」に解消したい衝動にかられもする。だが、そこから急ぎ結論を出すことは、常に現状肯定に向かいやすいので危険だ。では、どうするか。彼の問いは続く。
 別の学生は、雲仙の旧大野木場小学校と長崎原爆資料館とを対比させながら、「資料館見学に嫌気がさしている中高生」にも効果的な、展示物配置とその表現法を「提案」する。ある学生は、永井隆博士の言説をめぐる論争を分析しながら、他の学生は、聞き取り結果を踏まえて、「個人の思いを支えるための論理的な言葉」の精錬の必要性を説く。もう一人の学生は、「伝える人」と「受け取る人」の間の巨大な温度差にたじろぎながら、「惨劇を伝える」だけの教育では不十分であり、それは「惨劇を生かす」教育と結びつけられる必要があると書いている。その学生は、「人とのつながり、土地とのつながり」を守るという一歩間違えば国粋主義との紙一重のところから平和の論理を築けば、平和を求める巨大な力になると説く。彼によれば、その際の条件は「武力の完全放棄」である。武力を少しでも持つと、「力で守る」という発想に行き着く。武力放棄の上に、「ヒロシマ・ナガサキ」を「広島・長崎」にゆっくり戻して、「つながり」を重視していく。彼の言葉で表現すれば、「つながりから始まる平和」である。
 ゼミ長を務めた大田寛君。彼は広島出身であり、一貫して「ヒロシマ」からの眼差しをキープしている。彼が卒業にあたって書いたゼミ論文「新世紀、ヒロシマ・ナガサキと平
和 恒久平和実現へのアプローチ」。渾身の八五枚である。
 大田は、恒久平和実現に向けた提案をさまざま行っている。ここでは、彼がヒロシマ・ナガサキをどうとらえているかに絞って紹介しよう。
 大田は、「ヒロシマのメッセージが直接的過ぎて、受けての共感をえられないという反省」が広島にあることを指摘。長崎も同様の苦悩を抱えているとして、次のようにいう。 「ナガサキには、原爆問題に関してヒロシマのようなストレートな印象は見られない。多様な文化を知るナガサキは自己を相対化・客観化させた視点=『複眼』をもつ故の、他国の事情に配慮した結果のスタンスであると言える。また国際交流都市としての特性を活かし、核の問題に対するグローバルなネットワーク形成の重要なハブの役割を担い得る。…強烈なインパクトをもった核の実像・核廃絶のメッセージを伝えるヒロシマ。ヒロシマのメッセージを実効的なものとし得る柔軟性・ネットワークを有するナガサキ。この両都市がそれぞれの意義・役割を踏まえた上でコラボレイト〔提携〕することで、核廃絶に向けたアクションはより強固なものとなる」と。
 では、被爆体験をどう伝えていくか。大田は、次の二点を強調する。
 第一に、間接的な証言の重要性である。「その身を以って核の地獄を『体験』した者の口から直接発せられる言葉は、他に代替し得るレヴェルのものではない」。しかし、被爆者が減少するのなか、「被爆の『体験』をもたぬ人々が証言の語り手としての役割を担わねばならない」。こうした「人から人へ」の伝承は特別な意義をもつため、試行錯誤しながらでも取り組まねばならない、と。
 第二に、「人から人へ」の伝承とは別に、「静かなる証言」により構成される資料館の存在が重要という。大田は、広島平和記念資料館の展示構成を分析しつつ、それと比較しながら、長崎原爆資料館についてこう書いている。
 「立地条件・施設規模は広島に劣るが、しかし内容に関しては全く遜色ないどころか、『伝える者』の姿勢としては勝る印象を受けた。広島のように、被爆までの歴史→被爆→その後の世界という単純な構成ではなく、まず入場直後に観る者を強烈に引き込む取り組みが見て取れた。実際私個人の印象としては、長崎原爆資料館でえた衝撃は広島のそれよりもはるかに強烈であった。被爆という言わば非現実的な『体験』を、自分自身へと引き付けて観ることができたのだ。『人から人へ』の伝承ではない資料館にとって、このような心理的距離の打破は非常に重要な課題ではなかろうか」。
 広島出身の大田は、結論的にこう述べている。
 「…これは戦後の『平和教育』にも共通する問題とも言えるが、『体験』の伝承という行為は、決して一方的であってはならない。『伝える者』と『受け継ぐ者』との双方の意思が働いて初めて、『体験』は受け手の心に、精神に染み入るのだ。資料館に関しても、資料の展示は徹底して観る者を意識せねばならない。もちろん『伝える事実』に主観が入り込み、恣意的にねじ曲げられるようなことがあってはならない。しかしその『伝え方』に関しては、『伝える者』は様々に手法を凝らし、真に『受け継ぐ者』に伝わるように努める責務がある」と。

四 小括 「体験」継承の課題
 与えられた紙数も尽き、指導教員としての意見や評価を書くスペースがなくなってしまった。依頼の趣旨に応えられたか自信はないが、学生たちの議論のなかから読み取って頂ければ幸いである。一言だけ感想を述べておけば、私のゼミ学生たちは、「現場」を重視するがゆえに、「体験」の絶対化や化石化に対して距離をとることを日頃から身につけている。若い世代は、決まりきった切り口や枠の押しつけを生理的に嫌う傾向がある。「体験」を次世代に継承していく仕方や手法について、若い世代の感性や感覚に依拠した取り組みが求められる所以である。その際、「個人としての被爆者」という視点が大切だろう。私は、岡村俊一氏(つかこうへい『広島に原爆を落とす日』演出・プロデュース)と対談したときも、この視点にこだわった(『世界』〔岩波書店〕二〇〇一年九月号特集「ヒロシマ・ナガサキ『空洞化』をどう超えるか」参照)。若い世代の理性は、個人としてのあり方に関わる人間的共感には敏感である。二〇歳前後の「旬の若者」を観察してきて思うことは、結論先取り的ではない、人間的共感を生むような「体験の継承」をいかにして行っていくかである。こんな自明なことの自明な確認をもって筆を措く。本稿が生まれるきっかけを作ってくださった鎌田先生に感謝するとともに、ご冥福をお祈りしたい。
※筆者のホームページ(http://www.asaho.com/ )、学生が運営しているホームページ(http://www.mizushima-s.pos.to/)