日弁連主催の集会で語ったこと 2003年6月2日

スコミで「有事法制」について批判的なコメントをすると、「国民保護法制に反対するあなたは非国民ですね」というメールや、「北朝鮮に亡命せよ」といった手紙が届く。ネット上の私への罵詈雑言もかなりのものだ。だが、日本の憲法政治にとって、いまの時期は非常に重要な転換点になると思うので、言うべきことをきちんと言い残しておく。これは時代に対する責任だと思う。いろいろと不快な圧力はあるけれど、今後とも発言は続けていくつもりである。

  ところで、「有事」関連3法案は民主党の賛成で衆議院を通過。6月9日の週には参議院で可決・成立するという観測が流れている。そうしたなか、日本弁護士連合会、東京弁護士会、東京第一弁護士会、東京第二弁護士会主催の集会で、この問題について話す機会があった。わずか30分ではあったが、力を込めて話したつもりである。この集会では、作家の下重暁子さんと本林徹・日弁連会長も大変説得力あるお話をされた。私は、この集会が、弁護士会主催であることの意味を冒頭に強調した。弁護士法8条によれば、弁護士会に備えられた弁護士名簿に登録されないと弁護士の仕事ができない。つまり、弁護士会は強制加入団体なのである。その弁護士会が、思想・信条の違いを越えてこの法案に反対している意味はきわめて大きい。弁護士法1条には、「弁護士は、基本的人権を擁護し」とある。あらゆる職業のなかで、法律によって、基本的人権の擁護をその使命とされているものは他にない。そういう意味で、私はこの集会で話をすることを大変名誉であると述べた。
 以下は、講演の後半部分を再構成したものを『週刊金曜日』が掲載したものである。まとめ、タイトル(目次も)、小見出しも編集部のものである。特に、表紙タイトルが「“有事法案成立”後にすべきこと」というややフライングぎみなものになっているが、これに私は一切関わっていない。
 なお、私が編集委員として関与している『法律時報』(日本評論社)の最新号(6月号)の特集は、「北東アジアにおける立憲主義と平和主義−−「法による平和」への課題」である。季衛東(神戸大)、徐勝(立命館大)、豊下楢彦(関西学院大)、水島の4人による座談会「北東アジアの立憲主義と平和主義−−転換への視点」のほか、9本の論文からなる。季衛東「『アジア的価値』と人権保障」、李正姫「駐韓米軍地位協定の現況と問題点」などは特に興味深い。私も、「地域的集団安全保障と日本国憲法」という論文を寄せている。法律専門誌が北東アジアという特定地域の問題を特集でとりあげるのは初めてだろう。多くの方々に読んでいただきたいと思う。

北東アジアに新しい安全保障の枠組みを

国連憲章は、不戦条約(1928年) の「戦争違法化」を一歩すすめて、武力行使・武力威嚇をも原則的に禁じている。例外は国連による軍事的強制措置と自衛権行使(それも限定的な)の場合だけだ。しかし米国は、イラクに対して国連決議という「錦の御旗」なしで、剥き出しの暴力を行なった。私たちは、この侵略戦争の責任、つまり開戦責任を今後も追及しなくてはいけない。さらにイラク侵略では、劣化ウラン弾やクラスター爆弾を含め国際人道法違反の疑いが濃厚な手段が使われた。このことも追及すべきである。

●米軍司令官を告訴

 5月14日、米軍のイラク侵略で殺された遺族のうち、17人のイラク人と2人のヨルダン人が、ベルギー・ブリュッセル当局に、イラク攻撃を指揮した米中央軍のフランクス司令官を告訴した。ベルギーには、国境を越えて戦争犯罪を追及する厳しい法律があるからだ。起訴されれば、国際勾留状が出される。米国では急きょ、アッカーマン下院議員が、ベルギー法に関連するいかなる協力をも米国司法に禁ずる法案を提出した。この法案には、大統領が米国市民(この場合はフランクス大将)をベルギーによる身柄拘束から守るために必要なあらゆる措置を義務づけられ、そこでは武力行使が排除されていない。ドイツの新聞によると、ベルギーでこの法案は「ベルギー侵攻法」と皮肉られているという。フランクス大将を守るためにブリュッセル空爆も辞さず、というわけだ。国際刑事裁判所(ICC)から一方的に離脱した米国。いま、米国の自己中心的な独善・独走はとどまるところを知らない。なお、その後、ベルギー政府は米国に配慮して、事案を米国当局に送致する決定を行った。今年4月の法律改正で、閣議にはかり、事案を当事国当局に送致することになったからだ。
 ところで、今の米国の政権は、ネオコン(新保守主義)と呼ばれるきわめて特殊な集団が牛耳っている。だから、今の政策がおかしいからといって、米国すべてを敵視してはいけない。日本で言えば、石破茂(防衛庁長官)と安倍晋三(内閣官房副長官)だけで、日本の全政治家の考えだとみてはいけないのと同じだ。
米英のイラク侵略がはじまった3月20日、小泉純一郎首相はすぐさま「米国の攻撃を理解し、支持する」と言った。しかも、アラビア海には自衛隊のイージス艦が行っている。つまり、日本は参戦国家だと世界中にわかりやすく示した。  ネオコン(米国のウルトラ保守主義者)が牛耳っている今の米国に追随するのは危険だ。私はブッシュ大統領の再選はないと見ている。いずれ、ニクソン大統領(当時)と同じように国内問題で足をすくわれて失脚することもあり得る。だから、ブッシュ政権にすり寄りすぎたことを、小泉首相は必ず後悔するはずだ。日本は、ブッシュの先制攻撃のやり方に対して、一歩距離を取る必要がある。少なくとも「有事法制」を早く通してはいけない。もっと審議をし、どういう事態が日本にとって「有事」なのかを慎重に検証することが重要だ。
 いまの「有事法制」は、アジアのどこかの国に対し先制攻撃をしたい米国に協力するための法的整備だ。「今度はイラクよりも距離が近いから攻撃された国の反応も激しく、返り血を浴びる恐れがある。だから「国民保護法制」と称して国民にも土地の使用や物資の協力をいただきましょう。業務従事命令でいろんな業種の方にも協力してもらいましょう。民放にも指定公共機関としてご協力いただきます。しかも、5月23日に小泉首相が訪米するので、持参するお土産が欲しい」。これが日本政府の本音だろう。
 こんな目的のためになぜ、野党第一党の民主党が協力するのか。菅直人民主党代表は、与党との修正協議で、基本的人権の尊重が武力攻撃事態法案に明記されたと、胸を張った。しかし、明記されて安心できると考えるのはあまりにも楽観的すぎる。なぜか。破壊活動防止法にも、盗聴法(通信傍受法)にも、軽犯罪防止法にも基本的人権を尊重するという趣旨の規定が入っている。濫用する側にとって、こうした条文は、基本的人権を守らせる法的拘束力にはならない。  なによりも憲法に基本的人権の尊重が書いてある。武力攻撃事態法案という違憲性の強いものに基本的人権の尊重が書いてあるから人権が守られると考えるのは、楽観的すぎるどころか、人権侵害を美化することにつながる。やはり「有事法制」は参議院で廃案すべきだ。

●「出羽守」が導く結論

では、「有事法制」がなければ非常事態のときに私たちの暮らしを守ることはできないのか。「どこの国にもあるから有事法制が必要だ」と主張する人が多い。「英国ではこうなっている」「米国では常識だ」というだけで、なんとなく論じた気になっている人たちだ。こういう人を「出羽守」という。「〜では」の一言で、その国の憲法や法制度が生まれた事情や抱えている課題への眼差しが失われてしまう。
 『世界の「有事法制」を診る』(水島朝穂編著、法律文化社)で世界9 カ国の「有事法制」を比較したが、多くの国で既存の緊急事態法制見直しの動きがある。韓国でも、独裁政権によって緊急事態法が濫用されたため、これを部分的に廃止しようとしている。またどこの国にも、悩ましい濫用の体験が満ちている。どこの国にもあるから日本に必要かといえば、そうではない。
 濫用によって一番影響がでるのは、「国民保護法制」の分野だ。「国民保護法制の整備が先送りだからけしからん」という地方自治体の首長がいるが、「国民保護」という言葉に騙されてはいけない。国民が守られると思ったら大間違いだ。
 いまことさら「国民」という言葉を使うことに政府の狙いが見える。地方自治法では、首長は住民の安全を守るのが本旨だから、「住民保護」「市民保護」というべきだ。住民の中には外国人もいるからだ。
 つまり、「国民保護法制」とは明らかに日本国民が鎧を着て、日本国民だけを守ろうとする体制をこれからつくるということだ。しかも「国民保護法制」とは言葉の綾で、国民を保護するための法制ではなく、国民を武力攻撃事態に強制的に協力させる法制だ。だから、私たちは「国家からの自由」にもっとこだわる必要がある。
 最近、ストーカーやドメスティックバイオレンスなどから身を守るために法律を作り、国家権力によって安全を保護してもらおうという考えが出てきた。問題によっては必要な場面もある。しかし、憲法12条が「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」としているように、国家によって自由や権利が与えられていると考えるのは大間違いだ。
 確かに、テロリストの危険がいろいろなところにあるのは否定しない。麻薬を売っている妖しげな船や、ミサイルをちらつかせる恫喝外交をする国もある。しかし、その国に対して軍事的な対応をとるのが正しいのか、米国が先制攻撃するのに日本が参加するのが適当かが問われている。
 コテコテの「有事法制」を成立させ、米国のネオコンに協力すると、中国や韓国とのチャンネルが狭くなる。これは得策ではない。武力を使って向き合うのではなく、その国が暴発しないような関係をどうつくるかが外交だ。
 つまり、北東アジアにおける安全保障システムの新しい立ち上げが必要になる。それは北東アジアでの地域的集団安全保障で、これこそが「有事法制」に対する対案となる。
 日本国憲法前文には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。憲法が想定する安全保障の方式は、「世界連邦または世界国家の構想を目標とし、いまだそれに至らない間は、非武装中立の関係をあらゆる国家、すなわち具体的には、米・ソ両陣営のすべての国々に対しても、維持するということ」(佐藤功『日本国憲法概説(全訂新版)』学陽書房、1976年)にある。だから、一方の陣営に決定的に参加し、他の陣営の側からの攻撃に対して自国を防衛する以外には、日本の安全保障の途はないという方式(日米安保体制)は、「憲法の理想とし予想した安全保障の形態とは完全に異なる」(同)。これは、冷戦後の現在にも妥当する。
 地域的な集団安全保障としては、欧州と米国・カナダなど55カ国が参加しているOSCE(欧州安保協力機構)がある。前身のCSCE(全欧安保協力会議)時代には、「ベルリンの壁」崩壊に始まる東西対立の解消(冷戦の終結)に果たした役割はきわめて大きく、OSCEとなってからはユーゴ紛争などに対し、非軍事的活動(使節団、監視団の派遣等々)を軸に積極的にコミットし、貴重な成果をあげている。
 これと同じような体制をアジアにどうつくるか。絵空事だという人もいるが、それは違う。アジア全体では94年7 月、ASEAN地域フォーラム(ARF)が発足した(北朝鮮も2000年に参加)。ARFは、アジア太平洋地域における地域的安全保障協力機関(22カ国+EUなど)で、この地域における唯一の政府間フォーラムといっていい。毎年夏に行なわれ、閣僚会合を中心とする一連の会議の連続体それ自体を指し、常設の事務局を持たない。自由な意見交換を重視し、コンセンサスによる会議運営を原則とする。非公式な話し合いを大事にして、公式の手続きや制度化をできるだけとらないところに特徴がある。 これは沖縄の「テーゲー主義」にも通底する、緩やかでアバウトな協力関係といえる。信頼醸成の促進と予防外交の展開、紛争解決へのアプローチの充実というプロセスを設定して活動している。歩みは緩やかだが、着実に前進している。
 日本はここでもっと力を尽くし、中国や韓国とのチャンネルをもっと使って、北朝鮮の暴走を阻止する。それがいま求められている。

●「自己チュー」ではなく

平和を創る力とは何か。私たちのまわりにはいろんな危険がある。でも犯罪もそうだが、私たちの周辺に問題がなかった時代はない。そして、人類は、さまざまな戦争体験を通じて、戦争や武力を使わないで危険を除去する知恵を創りあげてきた。
 だが最近、私たちはあまりにも狭い情報だけで対応を判断しようとしている。たとえば、白装束の集団がいるという情報だけで、その人たちを排除しろという意見が出ている。だけど、あの人たちは一〇年ぐらい同じことを続けている。好きでもないし、共感できないし、嫌だと思っても、罪を犯していない人たちを警察力で排除するのは間違っている。 同じように、国際社会が米国の軍事力を使って危険を未然に排除しようと考えはじめたとき、私たちの内側にある危険な因子が顔をもたげてくる。それは「私たちの豊かさを守りたい」から「私たちだけの豊かさを守ればいい」と考える「新自己チュー」(新自己中心主義)だ。それは、自己中心主義と自己中毒(過激なナルシシズム)の合体といえる。 日本でもナショナリズムとナルシシズムの合体版が勃興してきた。「日本こそナンバー1」と扇動する政治家と一緒に、武力を行使する国になったとき、一人ひとりの中から「新自己チュー」が生まれてくる。
 お互いを尊重しあいながら、自己実現していく社会が本当の市民社会だが、いつのまにか他人を傷つけても自分が良ければよいという社会になりつつある。北朝鮮や白装束集団など、あらゆる問題でそろそろ日本の市民の中にそのような気配が感じられる。
 それが「有事法制」に賛成する世論の背後に見えてきた。「新自己チュー」によってつくられる社会、そういう社会がささえる「フツーの国家」、それは端的に言うと一人ひとりの市民が「帝国主義的市民」(渡辺洋三東大名誉教授の言葉)になった瞬間だと思う。私たちは、一人ひとりが「帝国主義的市民」のあり方を拒否し、あくまでも人々と共存しあいながら自己を実現することを願う市民でありたい。

まとめ/編集部・伊田浩之

※5月20日、日弁連などが東京・千代田公会堂で開いた集会での講演に加筆・修正
                  (『週刊金曜日』2003年5 月30日〔461 号〕)

 

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