米英軍「と」から「ともに」へ 2003年12月8日

パンフレトの3週間、ウィーク・エンドは鳥取、大阪、東京(3回)、京都で7つの講演をこなしたが、先週末の立命館大学での講演は特に力を込めた。第50回「不戦のつどい」。「わだつみ像」が立命館大学に定礎されてから、毎年12月8日前後に「不戦のつどい」を教職員、学生、院生、生協が実行委員会を作って継続してきた、立命館の伝統ある催しである。その記念すべき50回目の講演を依頼された。
  チケットを見ると、欄外に次のように書いてある。チケット「50th不戦のつどい――京大滝川事件70年、学徒出陣60年、『わだつみ像』建立50年記念」。京都大学の滝川教授がその学説ゆえに大学を追われた1933年、日本は国際聨盟を脱退した。内における学問の自由と大学の自治の圧殺が、外における単独行動主義の突出とが同時だったことは興味深い。その10年後、立命館を含む全国の大学から20万人の学生が戦場に送られ、その多くが帰らなかった。日本戦没学生記念会(わだつみ会)による戦没学生手記『きけ、わだつみの声』出版を契機に制作されたのが「わだつみ像」である。「未来を信じ 未来に生きる そこに青年の生命がある その尊い未来と生命を聖戦の美名のもとに奪い去さられた 青年学徒のなげきと怒りともだえを象徴するのがこの像である なげけるか いかれるか はた もだせるか きけ はてしなき わだつみの声」。1953年に広小路校舎に建てられた像の台石裏にはこう書かれていた。かくて、2003年はさまざまな歴史の節目にあたる。今日は12月8日である。

  62年前、1941年12月8日朝7時の臨時ニュースで、国民は対米開戦を知る。大本営陸軍報道部長・大平秀雄大佐は、やや甲高い声でこう読み上げた。「大本営陸海軍部、〔昭和16年〕12月8日午前6時30分。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり」。真珠湾攻撃の第一報である。この日は月曜日だった。第1 次攻撃隊の攻撃発起は8日午前3時25分。ハワイ時間の7日(日曜日)午前7時55分だった。休日・安息日の朝だからこそ、奇襲になる。独ソ戦争(1941年6月22日) も朝鮮戦争(1950年6月25日) も、はたまた「ベルリンの壁」(1961年8月13日) も日曜日だった。「12月8日」という形で日本時間で理解していると、「日曜日の奇襲」の仕掛けがわからない。
  ちなみに、本日12月8日は、62年前と同じ月曜日である。一見意味がないように思えるが、実は意味がない。12月8日が月曜日だった年は、この62年間で8回だけ。直近は1997年12月8日だった。どうでもいい「トリビア」の世界ではある。とにもかくにも、62年前の12月8日(月曜日)の出来事により、1931年に始まった日中戦争がアジア・太平洋全域に広がっていった。この戦争により、日本国民だけで310万、アジア・太平洋諸国をカウントすれば2000万以上の尊い命が失われた。
  この戦争の反省の上に、一般的に武力行使・威嚇を禁止した国連憲章(2条4項)と、ヒロシマ・ナガサキ体験を加味して、より徹底した平和主義を掲げる日本国憲法が制定された。この半世紀の間、日本は一度も他国と戦争を行っておらず、また「日本軍」が他国で人を殺すこともなかった。「日本軍人」が戦死するケースはなかった。朝鮮戦争当時、海上保安庁の掃海艇部隊の一隻が触雷して、1人の「戦死者」を出したのが例外といえる。もっとも、在日米軍基地を使って、多くの航空機や艦船が戦闘地域に向かい、他国の市民を殺してきた事実は看過できない。

  さて、小泉内閣は9日にも閣議を開いて、自衛隊イラク派兵の基本計画を決定する見込みである。来年の遅くない時期に、次のような陸幕(陸上幕僚監部)からの第一報が、名寄駐屯地や第2師団隷下の各部隊に流される日がくるのだろうか。
 「陸幕広報班、平成16年○月8日午前6時30分。第3普連基幹イラク派遣増強大隊は本8日未明、イラク南西部において、米英軍とともに戦闘状態に入れり」。今回は、米英軍「と」戦うのではなく、米英軍と「ともに」戦うのである。決して戦争はしないと憲法で誓った国が、「戦闘状態に入れり」という日が近づいている。
  イラク派遣部隊の編成は、北海道名寄市の陸上自衛隊第3普通科連隊が基幹となることが一部で報道されている。第3 普通科連隊長で名寄駐屯地司令の一陸佐が派遣隊長に任命されるようだ。3普連は、第2師団の3個ある普通科連隊のうちの一つ。冷戦時代、対ソ北方防衛の最北端を担任していた。イラク派遣部隊が第3普連を基幹とした増強大隊の編成をとる場合、第2後方支援連隊(旭川市)などの師団隷下の各部隊のみならず、北部方面隊の各部隊からも要員や装備を抽出することになるのだろう。『北海道新聞』の地方版3日付には、こうある。「…関係者によると、『司令が指揮官となる以上、名寄から相当数が行くのが当然』といい、第二師団からの派遣隊員の約半数を、第三普通科連隊が占めるのではないか、とみる。同駐屯地ではすでに、本人や家族の意向も踏まえて選抜が行われ、派遣候補となった隊員は現在、旭川などで射撃などの対テロ教育訓練や語学教育などを受けている…」。
  なお、1992年にカンボジアに派遣された「カンボジア派遣施設大隊」は、京都・大久保駐屯地の第2施設団を基幹としていた。ザイールに派遣された部隊も第2後方支援連隊が基幹である。端的にいえば、普通科は歩兵である。歩兵、砲兵、戦車(普特機)の連携で戦闘行動を展開する。海外派兵とは、「武力行使の目的をもって、武装した部隊を、他国の領土、領海、領空に派遣する行為」であるから、普通科連隊を軸とした派遣は、この定義からしても「派兵」といわざるを得ないだろう。装備面でも、すでに110ミリ個人携帯対戦車弾の携行がほぼ決まっているといわれる(『読売新聞』12月7日)。武器使用の要件はきわめて複雑で、わかりにくい(イラク特措法17条)。陸自が作成した「自爆テロに対する部隊行動基準」(ROE=交戦規則)によれば、①現地語などで制止を呼びかける、②武器を使う可能性を明示、③武器を構えて威嚇、上空に向けて警告射撃などの段階を経て、危害射撃ができるようにされたという。だが、「自爆テロ」という捨て身の戦法で相手が自衛隊に向かってくる状況を考えてみよう。そこまで憎悪と憎しみの対象となるところになぜ派遣するのか。イラク人とその車がすべて「自爆テロ」に見えてくるような状況では、双方に犠牲者が出るのは不可避だろう。ほとんど報道されていないが、恐怖にかられた米兵が住民に向かって発砲するケースが多数起きている。イラクに派遣された自衛隊は、針ねずみのように全周防御態勢をとって、「自らを衛る隊」に徹するしかない。まだ遅くはない。「米英軍とともに戦闘状態に入れり」ということにならないように、一人たりともイラクに送ってはならない。

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