安倍晋三氏の改憲論を批判する(『論座』転載) 2004年3月15日

月に新年度(新学期)が始まるから、3月はどこも「おしつまった」気分に満ちている。年末もそうである。そういう気分に似て、憲法に関するマスコミの議論にも、妙なあわただしさが感じられる。「憲法は国際貢献の障害になる」という俗説が横行し、世論調査でも、「だから改憲」という人々が増えている。表現の仕方や切り口に違いこそあれ、「時代が変わったのだから、現実に合わない憲法は見なおすべきだ」というトーンでは、マスコミは混声合唱というより、むしろ斉唱に近くなってきたのではないか。それを繰り返し聞かされ、読まされている視聴者・読者のなかには、「改憲気分」がかなり醸成されてきているように思われる。憲法9条は、米国への軍事協力を全面展開したい人々にとっては、一貫して邪魔な存在であった。これは確かである。しかし、国際協力を促進していく上では、憲法9条は何ら障害にならないどころか、むしろ、日本がなすべき国際協力の方向と内容を積極的に特徴づけてきたといえる。改憲により、軍事カードを「普通に」使える国になった日本について、アジア諸国の眼差しは決してあたたかくはないだろう。
 では、なぜ、いま、憲法を変えなければならないのか。改憲反対の主張を、過度な理想主義として揶揄する傾向は、大新聞の社説にもあふれている。私は、参議院憲法調査会で意見陳述をしたが、その際、憲法調査会が「日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行う」(国会法102条6)のならば、「安易な規範変更ではなく、違憲の憲法現実を違憲でない方向に近づける地道な調査も必要だろう」と調査のあり方について述べておいた。今回は、改憲に熱心な安倍晋三氏(自民党幹事長)の議論について、朝日新聞社の『論座』編集部から論評するよう依頼された。年度末の多忙にまぎれて新稿をおこす余裕がないため、『論座』3月号に掲載された拙稿を、編集部の許可を得て、ここに転載することにしたい。なお、そこには、直言でかつて指摘した論点や叙述がダブっている部分がある。あらかじめお断りしておきたい。

理念なき改憲論より高次の現実主義を−−「9条改憲論の研究」私はこう読んだ

 本誌2月号は「9条改憲論の研究」という特集を組んでいる。編集部からの依頼は、この特集について論評せよというものである。諸論稿を一読してまず気づくことは、現在の改憲問題をめぐる議論の政治的文脈をどのように認識するのかという点と、憲法そのものの機能や役割をどのように評価するのかという点について、各論者の理解にかなりの隔たりがあることである。そこで、とくに発言の影響力も大きいと思われる安倍晋三氏の議論を中心に、右の2 点に絞って論評を加えるとともに、9条改憲をめぐる筆者の見解についても若干述べておきたいと思う。

◆説得力を欠く安倍改憲論

  まず、政治的文脈の評価についてである。この点、安倍氏は、改憲が必要な理由として、時代にそぐわない条文や、新しい価値観が生まれているなかで見直しが必要な条文があることを指摘するとともに、集団的自衛権を行使できるようにすることで、日米関係は対等になるとの見通しを語っている。
  安倍氏の議論は、全体として、改憲の必要性を何となく提示してはいるが、しかし、安倍氏自身がいかなる国家ヴィジョンを抱いているのか、そしてそれと現状がどのように相違し、その克服のために本当に改憲という選択肢しかありえないのかなど、目指すべき国家像から改憲の必要性に至るまで、説得力のある根拠は何ら提示されていない。確かに、安倍氏は、集団的自衛権を行使できるようにし、それによって日米の対等な関係を目指すとするなど、それが改憲目的であるかのように受け取られる発言をしている。しかし、集団的自衛権を行使するというなら、その前提としての国家像の提示が必要であるし、対等な日米関係についても、いかなる意味において対等なのか、また何のための日米関係なのかを語らずして、改憲を論ずることはできないはずである。結局のところ、安倍氏の議論においては、抽象的・観念的な理由から改憲の必要性ばかりが強調されているという印象であった。
  近時の改憲論議の焦点については、本誌2月号の愛敬浩二論文が、戦後の改憲論の特徴を歴史的に振り返りつつ、「現在の改憲の目的の核心は、九条改定によって、自衛隊を正真正銘の軍隊と認め、さらには集団的自衛権の行使を容認して、海外での軍事行動を可能にする点にある」と端的に表現している。この点は、アフガニスタン戦争からイラク戦争へと連なるブッシュ政権の単独行動主義的な「力による支配」を受忍するのか、それとも国連憲章を軸とする国際的な「法の支配」や多国間主義といった国際協調主義の今日的発展形態を追求していくのか、という大きな岐路に私たちが立っていることを意味している。「国益」という融通無碍なマジック・ワードによって集団的自衛権行使が目論まれているが、その道の行く先を慎重に見極める冷静さが、国民に求められている。
  なお、安倍氏は集団的自衛権の行使が日米の対等な関係につながると述べているが、これも全く根拠のない主張である。「9.11」以降のアメリカの動向、とくにイラク戦争に際しての米英同盟の実態などが典型的であるが、アメリカは一貫して同盟国に対してさえも軍事的イニシアティブは認めていない。他国の指揮下に米軍は入らないとするのは米軍の伝統であるが、日本が外交政策でアメリカに対して「ノー」と答えたことがないのも日本外交の伝統であろう。そしてこの対応の責は、決して日本国憲法に帰されるべき問題ではない。この点は、レバノン大使を辞した天木直人氏も、本誌2月号の論稿で強調するところである。この点に関する安倍氏の議論は、国民に幻想と誤解を与えかねない。

◆安易な改憲は権力を暴走させる

  次に、憲法そのものの機能・役割についての評価である。この点、もっとも重要なのは、権力抑制原理としての憲法の意義についての認識である。安倍氏は、集団的自衛権は国家としての当然の権利であり、改憲によって政策選択肢の幅を広げたいという趣旨のことを述べている。あわせて、安倍氏は、集団的自衛権の行使の適否などについては、民意によるチェックがあるのであり、日本の民主主義はそれを果たすのに十分に成熟しているという考えも示している。
  そもそも憲法に与えられた機能・役割の第一義的なものは、権力担当者に対して政策選択肢の幅を限定させることである。この考え方は一般に立憲主義と呼ばれるが、主権者である国民が、時々の権力担当者の暴走を阻むために敢えて障害として設けたものであり、その意味で、立憲主義とは、歴史的に培われてきた人類の英知の一つなのである。安倍氏の議論は、その障害物のハードルをできるかぎり低くして、権力のフリーハンドの範囲を広げたいという趣旨であるが、自らを含む時々の権力担当者の暴走という危険性への自覚はあまりに希薄である。その立憲主義理解について、大きな疑問が残るところである。この疑問は、安倍氏が自衛権を「自然権」であると主張していることからも深まるばかりである。国家は個人とは異なり、「生まれながら」にして自衛権を持つわけではない。自衛権は、その国の憲法によって明示的に根拠を与えられて存在し、かつ行使しうるものである。国連憲章51条も、各国が憲法によってそのような扱いをしていることを確認したにとどまる。安倍氏のような考え方は、権力担当者の間には少なくないのであろうが、しかし国民の側からは警戒が必要である。先にも触れた立憲主義にも関わるが、国家権力を担う権力担当者は、自明のものとしてあらゆる政策を実施する権限を有するのではない。国民主権のもとでは、憲法によって明示的に授権された権限を、その授権された範囲内で行使できるにすぎないのである。そして、日本国憲法は、「政府の行為によつて再び戦争の起ることのないやうにすること」を国民の決意として宣言し、交戦権の行使を明確に否定している。こうした決意は、先の大戦での侵略への反省と、原爆投下や沖縄戦、各地での空襲などの被害といった国民的体験を基礎としているが、自衛隊のイラク派遣が現実のものとなり、再び日本が戦争犠牲者を生み出しかねない今日、この交戦権否認の意義は改めて強調されてよいだろう。安倍氏は、北朝鮮の脅威など、「外敵」を見出すことで、擬似的な国民的一体感を演出する主張を一貫して展開しているが、主権者である国民としては、なお権力担当者と主権者との間の埋められない距離に敏感でなければならないだろう。安倍氏の9条改憲の主張は、憲法によって規制を受ける権力担当者の側からする、安易な規制緩和論にしか聞こえない。
  なお、安倍氏は、選挙によって反映された民意によるチェックによって、政府の政策実施の当不当は決せられるとも考えているようである。この理解は、事後的に選挙によって与党が再選されれば、それで政府の政策は追認されたとするものである。民意の反映については、今日採用されている小選挙区制度といった選挙制度の特性などもあわせて考慮されなければならないが、何より、選挙の際に事前に公約として提示されるのが国民に対する責任政治の原則であることは看過されるべきではない。また、近時の小泉政権の憲法軽視ぶりは、イラク派遣の際の記者会見での前文「つまみ喰い」引用でも明らかであるが、世論調査で反対が賛成を上回るなかで自衛隊派遣を強行するなど、この政権が民意の尊重をどのように考え、民主主義をそもそもどう理解しているのかは、すでにかなり明確にされているように思われる。

◆あまりに情緒的な改憲論議

  さて、近年の憲法論議を見ていて感ずることがある。それは、議論の仕方に関わる。憲法そのものよりも、憲法を変えること自体に妙な力みがあり、なぜ変えるのかという理由が後からついてくるような議論が少なくないことである。こういう議論の仕方を、筆者は、「憲法改正オブセッション(強迫観念)」と呼ぶ。そこには、半世紀以上にわたり「この国のかたち」を形成してきた日本国憲法を、どのように変えていくのかについての哲学がない。現実政治の矛盾を強引に憲法に押しつける、消極的理由づけに満ちている。
  改憲の時期や、「憲法改正国民投票法」制定を急ぐ議論にも、結論先取り的な思考が窺える。自民党結党50年を機会に改憲しようという改正時期の逆算など、国の将来に関わる問題を、特定政党の党派的事情や思い入れで左右するのは不純である。こうした怪しげな議論には乗らないというのが、主権者国民にとっては、当面の賢い選択である。
  「半世紀以上たつのだから、とにかく変えてみよう」といったおおらかな主張から、改正頻度の表面的な比較に基づき、「日本国憲法は一度も改正されない世界最古の憲法だ」とする没歴史的な主張まで、「憲法とは何か」という根本問題に取り組む知的誠実さの感じられない議論が多すぎるように思う。安倍氏も特集論文で、「『われわれの手で新しい憲法をつくっていこう』という精神こそが、新しい時代を切り開いていく」とか「溌剌とした気分を醸成していくため」とか述べているが、国の基本を定める法を変えるという議論にしては、あまりに情緒的である。
  戦後半世紀にわたって、日本が米国の戦争に直接コミットすることを妨げてきた憲法9条。その歴史的役割は大きい。自衛隊イラク派遣は、「復興支援」という名目ではあるが、客観的には、米国とそれに追随する諸国(「有志連合」)による、国際法違反のイラク戦争と、その結果としての占領に加担する行為である。「第二次世界大戦以来最大の外国出動」(独紙)が行われるという状況下で、憲法9条を変えよという議論の効果は明らかだろう。この歴史的な局面において、国家の軍事機能に対する厳格な禁止規範を、いわば規制緩和していく道をとるのか否かが、いま鋭く問われているのである。
 ところで、論壇やメディアでは、憲法の原理・原則に忠実であろうとして議論を組み立てる者に対して、「現実無視の夢想家」といって揶揄したり、「憲法をタブー視している」とか「無益な神学論争」といったレッテル貼りが横行している。憲法規範と憲法現実の乖離は誰しも否定できない事実である。問題は、規範と現実の矛盾や乖離をどのように認識し、かつどのようにしてそれを解決していくかという方法論である。
  昨年7 月16日、参議院憲法調査会に参考人招致された筆者は、冒頭に、憲法調査会が「日本国憲法について広範かつ総合的に調査を行う」(国会法102 条の6)というのならば、安易な規範変更ではなく、違憲の憲法現実を違憲でない方向に近づける地道な調査も必要だろう、と苦言を呈しておいた。「理念か、それとも現実か」という二項対立ではなく、規範(理念)に反する現実を規範(理念)の方向に徐々に近づけていく努力もまた、現実を踏まえた冷静な思考選択である。規範・理念をより重視する立場を戯画化した上で叩くという手法は、フェアではないだろう。「タブー視」という言葉についても、表現の自由が保障されたこの国で、憲法を宗教的禁忌の対象にする人など実際に存在するのだろうか。とどのつまり、憲法規範や原理にこだわることを、現実無視の宗教のように描くためのレトリックではないだろうか。

◆規範と現実の矛盾をどう解決するか

  憲法は一国のあり方を定めた最高規範であるが、それに反する現実が生まれ、長期にわたって存在することはありうることである。その場合、規範と現実の矛盾をどのように解決していくかについて、複数の選択肢が存在しうる。裁判所が憲法違反の法律を違憲・無効とするのは一番わかりやすい解決の仕方であり、憲法の規範力回復への近道である(ただ、日本の裁判所〔特に最高裁〕がそうした役割をきちんと果たしているかについては心もとないが)。他方、現実の方にそろえて規範を変更するという解決法もある。憲法改正である。さらに進めれば、新憲法の制定ということもありうる。
  日本国憲法は、「戦争と平和」という事柄に関しては、一切の戦争、武力行使・威嚇を否定し、そのための手段(戦力)を保持しないという徹底した平和主義の方向を選択した。ヒロシマ・ナガサキの体験を踏まえた歴史的決断である。だから、憲法9条と自衛隊の矛盾的併存状態というのは確かに「異様」ではあるが、それは憲法をとりまく政治状況の変化のなかで生まれた、歴史的妥協の産物にほかならない。逆に、憲法9条の規範が存在し続けるがゆえに、自衛隊のあり方にも間接的に影響を及ぼし、「軍隊ではない」という変則的な存在形態により、この半世紀の間、米国が行った戦争に直接参戦しないですんだという事実も否定できないだろう。
  思えば、半世紀前の1953年11月19日、来日中のニクソン副大統領(後の大統領)は、「日本の非武装化は米国の誤りだった」と明言した。朝鮮戦争に日本を参戦させられず(海上保安庁の掃海部隊を除き)、日本再軍備の障害となった憲法9条の「押しつけ」を、米国の権力担当者が「後悔」するというのは、まさに歴史的皮肉といえよう。
 そうした「普通でない」状態を改憲によって「すっきり解決」し、「普通に」武力行使を実施できるようにしたい。そうした考え方は、野党のなかにも有力に存在する。民主党は「有事」三法に賛成したが、それを促進した前原誠司衆院議員の発想はその典型といえる。それゆえに「日本のネオコン(新保守主義)」と呼ばれるが、ご自身は「大変心外」と反論している(『諸君』2003年9 月号)。
  前原氏は、憲法改正を、「実態的なニーズ」に基づき、「帰納的」に論じていくべきだとする。その点で、憲法9条だけでなく、98条2 項も「ゆるんだゴムバンド」だという。憲法98条2 項は、国際法規の誠実遵守を定めるが、前原氏にかかると、「遵守」というのは強すぎ、「尊重」という形に緩和すべきだ、ということになる。「国際法規の尊重」ならば柔軟にいける、というのが本音らしい。「イラク戦争」では、米国は国連憲章を守らなかった。小泉政権もまた、国連憲章違反の米国の行動を「理解し、支持します」と、どの国よりも先駆けて表明した。「遵守」を「尊重」に変えれば、98条2 項は単なる「ゴムひも」と化すだろう。ゴムバンドの方は緩んでいても「締める」機能はかろうじて残っているが、ゴムひもはそのままならばダラリと垂れ下がる「ただのひも」にすぎない。前原氏は「現実のニーズ」を縛ることをしない憲法を構想しているようだが、これでは憲法は、「のびきったゴムひも」になってしまう。前原氏は「安全保障基本法」の制定によってその弱点をカバーしようというのだが、「基本法」といっても法的な効力は一般の法律と同じである。これでは「歯止めが利かない制度上の欠陥」(前原氏)を重ねる結果になるだけではないのか。「現実のニーズ」の中身の検証なしに、「現実」に無批判に寄り添い、「憲法のゴムひも化」に貢献することになりかねない。最大野党の安全保障エキスパートには、もう少し「規範」から「現実」を統制・チェックしていくという緊張感を期待したいものである。

◆9条に基づく「高次の現実主義」を

 戦後50年における知識人の役割について考察した論説のなかで加藤節氏はいう。「『歴史の渦』への適応をリアリズムの名の下に正当化し、原理への執着をドクマティズムとして切り捨てる傾向がますます強まっているように思われる。……特定の価値に敢えて与し続ける思想のモラルの解体が異論の不在を生むことによって思想の翼賛体制化に結びつくとすれば、われわれは、現在、その危険性の極めて高い時代に生きているといわなければならない」(『政治と知識人』岩波書店)と。
 いま、小泉政権のもとで、自衛隊の「普通の軍隊化」の方向は加速度的に進んでいる。そうした現実に軽やかに迎合して、憲法を現実にあわせて変更することを主張する「現実主義者」も増えている。この状況が続けば、加藤氏のいう「思想の翼賛体制化」はさらに進むだろう。ガリレオ的心境で、「それでも、憲法の方に現実を合わせるべきだ」といいたい。日本国憲法の理念に基づき現実を変えていくことは、途方もないエネルギーと知恵と勇気を必要とする。だが、憲法の理念の方向に自衛隊を近づけ、軍隊ではない方向に転換するという展望は決して絵空事ではない(筆者自身の「自衛隊解編構想」は、本誌2 月号特集の豊秀一論文でも紹介されている)。冷戦後、常備軍とそれを支える軍需産業は存立の危機に瀕した。だが、地域紛争の「激化」や「9.11」によって息を吹き返し、いま新たな軍拡時代に入ったかに見える。しかし、これは、軍縮・平和の方向への歴史的逆流と見るべきであって、決して長続きはしないだろう。テロ対策や地域紛争の解決法についても、世界は、憲法9条の示す方向に確実に向かっていくだろう。憲法9条に基づいて、したたかに、しなやかに、軍事化の現実を変えていく「高次の現実主義」(ハイアー・リアリズム)が求められている所以である(拙著『同時代への直言』高文研も参照)。

◆石橋湛山のリアリティ

  いま、この国の転換点に立って、石橋湛山の言葉に耳を傾けてみたい(『石橋湛山評論集』岩波文庫)。彼は、ある時は、日本外交を批判してこういう。「日本の現在および将来の運命を決する第一義はどこにあるか。徹底した目安がついておらないのである。…ここにおいてか彼らはやむをえず、その時々の日和を見、その時々の他人の眼色を窺って、行動するほかに道はないのである」と。ブッシュ政権の単独行動主義にひたすら寄り添い、国際協調主義を損なう小泉政権の対外政策こそ、典型的な「日和を見」「他人の眼色」をうかがうものではないだろうか。
  米ソ冷戦時代、湛山は、中国やソ連との対話を求めて努力しつつ、軍事力強化の道に警鐘を鳴らした。「国連はまるで無能無力のように悪口をいうものがいるが、私はそうは思わない」として、将来の国連警察軍の創設による集団安全保障の発展をにらみつつ、政府は、国連強化の方向に努力すべきであると力説した。そして湛山はいう。「わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす。したがって、そういう考え方をもった政治家に政治を託するわけにはいかない」と。
 そして湛山はいう。「全人類に率先して先見の明を示した日本人の熱情と誠意を、今こそ厳粛に、そして高らかに地球の上に呼びかけるべきであろう。…憲法を冷静に読み返す時、私は日本がそのような悪路を踏んで行くことに忍び難いものを感じる」。これが、自由民主党第2代総裁、元内閣総理大臣石橋湛山の言葉である。
(『論座』(朝日新聞社)2004年3月号184-191頁所収)

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