ベルリンの学校の「壁」  2006年4月3日

学期である。桜の花も満開の昨日、法学部の入学式に出席した。黒いガウンにフサ付きの帽子という出で立ちは、2年に1度くらいの頻度でまわってくる「校務」である。大隈講堂の壇上から、学部長らの話に聞き入る新入生の顔を眺めていると、つい1週間前に卒業生を送り出したのも束の間、「いよいよ新学期が始まった」という身の引き締まる思いがした。桜の花は、人生にメリハリをつける場面に、やさしく彩りを添えてくれる。
  ところで、日本でも学校現場の「荒れ」の問題が指摘されて久しいが、ドイツではさらに深刻のようである。

  先週、ベルリンのリュトリ本科課程校(Hauptschule) が「事件現場」となった。
  ベルリン市(州)のノイケルン区にあるこの本科課程校(日本の公立中学に近い)における校内暴力、対教師暴力が一気に注目を浴びたのである。きっかけは、その学校の教師が、校内暴力の実情と、この学校の解体を訴える手紙を出したことによる。教師の訴えを受けた州文部省の対応は鈍く、先週になって、ようやく大臣に報告があがるという状況だったらしい。メルケル連邦首相も州文部大臣の怠慢を厳しく非難するなど、ベルリンの一公立中学は全国的な注目を浴びるに至った。

  この件では、4月2日付のWelt am Sonntag紙が詳しい。ドイツで日曜に発行される新聞は少なく、この保守系新聞と、Berliner Morgenpost紙(大量の不動産広告や車の広告で分厚い)以外にないので、7年前にボンで在外研究をしていた時は、日曜の昼下がり、ライン河畔のベンチに座って、よくこの2紙を読んだものである。両紙ともに、アクセル・シュプリンガー社系の新聞なので、リベラルな立場の人々はあまり読まない。日本の新聞に例えれば、『読売』『産経』というところか。シュプリンガー系の大衆紙Bildを含め、この事件の扱いは大きかった。

  これら新聞の報道によると、2005年、ベルリン市(州)だけで、200人の教師が暴力の犠牲になったという。とりわけ本科課程校(義務教育の公立中学)が際立っているという。生徒5人に1人が暴力行為の犠牲者になっているという調査もある。暴力実行者は移民の子どもたちが不釣り合いに多いとされている。移民の子どもたちの65%が本科課程校へ行く。ベルリンのこの学校の生徒の83.2%が、移民の子どもたちである。両親がほとんどドイツ語を話さず、子どもたちもドイツ語を理解しない子が少なくない。
  煽情的な大衆紙は、「テロ学校」とか「テロ生徒たち」といったセンセーショナルな見出しをつけて報じたという。他紙もおおむね同様の論調で、移民問題、あるいは外国人問題の「代理戦争」という様相を呈してきた。

  いまベルリンの州政府は、rot-rot政権(左派連立政権)のため、中央の連邦政府(保守のキリスト教民主・社会同盟〔CDU/CSU〕 と社民党〔SPD〕の大連立政権)とのねじれも生じており、微妙な政治的力学が教育分野の事件の扱いに投影していることは否めない。ただ、ドイツ全体で、移民の子どもたちが通う学校の問題はさまざまな問題をはらんでいることは確かなようで、やはりどこの国でも、外国人の増大により、学校現場に「しわ寄せ」がきているようである。

  超保守のバイエルン州首相シュトイバー(CSU)は、移民と統合について考え直すことを要求し、こう続ける。「ドイツに統合されない者は、わが国を去り、故郷に戻らなくてはならない」と。他方、連邦議会議員団副団長(CDU/CSU)は、「より多くの教師と、より小さなクラスが必要だ」と指摘。「我々は、爆弾が破裂するのを待っていてはならない」と警告している(Welt am Sonntag vom 2.4.2006)。より大きな問題が背後に控えており、「氷山の一角」という認識である。政府の移民政策、統合政策にも関係してくるという認識である。
  
いずこでも、「小さな政府」の政策は、公立学校の教師の数を減らし、学校の統廃合を進めていく傾きにあるから、「より多くの教師」と「より小さなクラス」という政策は、「小さな政府」とは直ちに整合しない。むしろ、学校教育の質よりも、移民の子どもたちへの教育内容面で、近年、「指導文化」(Leitkultur)という形で、ドイツ語教育の強化だけでなく、それに伴い、ドイツ文化を外国人の子どもたちに教育する政策がいろいろと提起されているのだろう。この事件は、政治的に評価が対立する「指導文化」問題を再び、争点として押し出す結果になったように思う。

  なお、この学校では、先週の金曜日(3月31日)以来、6人の警察官が常駐するなかで授業が行われているという。「警察保護下の授業」という見出しは、アメリカではかなり「普遍的」問題であるが、ドイツでも、深刻な問題になりつつあることを示している。
  
問題の背後には、単に移民政策とか、外国人統合政策の失敗といった問題のほかに、実は、ドイツの学校制度の問題もあるように思う。

  ドイツでは小学校(Grundschule) を卒業すると、子どもたちは三つの選択肢の前に立たされる。まず、大学に進学する人は、「ギムナジウム」(Gymnasium) に入ることが必須となる。大学に行かずに、就職する生徒は、その前に専門的知識をつけるため、実業学校(Realschule)に行く。前者が普通科の中・高校、後者が工業中・高校、商業中・高校というところか。そのいずれでもないのが、義務教育の本課程の学校である。これが今回の学校である。日本の公立中学校に近い。これを卒業しても「中卒」という扱いである。本科課程校の生徒の圧倒的多数が、貧しい外国人の子どもたちというのが現実である。

  移民政策、あるいは外国人の「統合」の問題と、学校内暴力の問題は、すぐには解けない広がりと奥行きのある問題である。左派系のdie taz紙は、4月2日付の一面署名入り解説記事で、リュトリ校事件では、教育の問題が押しやられていると批判している。連邦議会の左派党の移民問題担当者も、「リュトリ校の状況は、ドイツの教育システムの欠陥を反映している」と指摘している。die taz紙の前記解説記事は、「本科課程校は解体されねばならない」として、問題が次の実業学校や総合学校(90年代にいくつかの州で行われている本科課程と実業課程の統合クラス)に単純に移らないためにも、直ちに、三つに分離された教育システム全体が廃止されねばならないという。国際比較でも、ドイツの教育システムに問題があることが明確になっており、この三つの仕組みの改革が求められるというのである。教師・両親・行政のそれぞれにも課題がある。最終的には、若者たちに、自分たちが〔社会によって〕求められており、養成され、チャンスを与えられるのだという感情を持てるようにしなければならないという。

  今年に入って、西欧の新聞や雑誌に載った予言者ムハンマドの風刺画が物議をかもした。ハンチントンの「文明の衝突」を安易に使った、「異教」排斥、異文化排除の傾きは問題だろう。先週の事件以降、ドイツの大衆紙は、今度は「対教師暴力」というきわめて具体的な形で、ベルリンの本科課程校の荒れの問題を、イスラム系の子どもたちとの衝突として描こうとしている。他方、移民の暴力=本科課程校という「スティグマ化」を警告する冷静な眼差しも存在する。

  ムハンマドの風刺画問題が一段落したと思ったら、先週から、学校現場での「テロ学校」、イスラム系「テロ生徒」という感情的な「衝突」が生じたわけである。最も一般的な定義では、「価値観を異にする集団同士が政治的共同体内部で分裂し衝突するような状況」を「文化戦争」というが、この問題では、2月末に出版された志田陽子『文化戦争と憲法理論』(法律文化社)が参考になる。この本は、社会学の世界で以前から議論されてきた該テーマを、憲法理論の領域にとりこみ、再構成しながら、憲法理論自体の豊富化をはかろうとする意欲作である。ここで詳しく紹介する余裕はないが、いま、社会のさまざまなところで生じる(あるいは今後生じうる)「文化戦争」なるものとどう向き合うか、という重いテーマに鋭く切り込んでいる。弁護士や、「権利の保護」(司法書士法1条)のためにがんばっている司法書士の皆さん、少数派の人権に関心のある方、さまざまな価値が共存しうる社会を願うすべての人々に、難解だが腰を据えて読んでほしい本である。実際、この本の視点は、ベルリンの学校現場の問題を考える際にも、さまざまな示唆を与えてくれる。今後、外国人や移民に対してとられる「指導文化」政策などの憲法的検証の際にも、理論的示唆を与えてくれそうである。機会があれば、コメントしていきたいと思う。

  煽情的な大衆紙により、イスラム系の子どもたちの多い学校に「テロ学校」といったレッテルが貼られたが、こうした「スティグマ」のもたらす負の効果ははかりしれず、「文化戦争」への発展に「貢献」するだけだろう。対教師暴力や、学校の「荒れ」の原因は複雑である。実は、夢も希望も奪うような格差社会の問題、民族的、宗教的原因だけでなく、教育制度や仕組みに内在する原因も検討される必要がある。学校現場の問題を、極端な事例を使って「文化戦争」に発展させるべきではないだろう。学校現場の「荒れ」の原因の冷静な検証が求められる所以である。
   なお、ベルリンの公立中学の問題について言えば、似非「文化戦争」を演出して、政治的に利用する動きもないではない。荒廃する学校現場の改善のためには、すべての当事者の真剣な努力が求められているように思う。ベルリンの問題は、日本でも決して他人事ではないのである。