ふたつの第9条(その2)  2006年7月31日

回に引き続き、もう一つの「第9条」の話である。事柄の性質上、硬くて読みにくい文章になることをご了承いただきたい。

  さて、刑法9条は「刑の種類」の一つとして、死刑を定める。これを受けて、刑法11条は「死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する」と規定する。日本においては、死刑は絞首刑以外の方法では認められない。死刑執行の命令は、法務大臣が行う(刑事訴訟法475条1項)。この命令は死刑判決の確定後、6カ月以内に行われる(同2項)。命令が出れば、5日以内に執行される(同476条)。死刑確定者が心神喪失状態にある場合や妊娠している場合は、法務大臣の命令により執行を停止する(同479条1項、2項)。精神疾患が回復した後、あるいは出産後に死刑を執行するには、法務大臣の新たな命令を必要とする(同479条3項)。なお、死刑執行後に無罪とわかった場合、3000万円以内で補償金が出る(刑事補償法4条3項)。要するに、国家が国民を誤って処刑した場合、規定の補償金は3000万円ということである(損失額が証明された場合は、その額に3000万円を加算した範囲内)。このことは、一般にはほとんど知られていない。

  死刑の執行方法に関連して、「刑事施設ニ於ケル刑事被告人ノ収容等ニ関スル法律」(1908年監獄法を改正した2005年法律第50号)72条にこうある。「死刑ヲ執行スルトキハ絞首ノ後死相を検シ仍ホ五分時ヲ経ルニ非サレハ絞縄を解クコトヲ得ス」。絞首刑執行後は、医務部医官が検死を行い、死亡を確認した後、「5分間」は吊るしておかなければならない。蘇生の可能性を排除する「とどめの5分」ということだろう。国民が選んだ代表による国会において制定された法律の冷めた文章によって、「5分」という時間が決められている。目の前でキリキリと回転する死刑囚を見ながら、早く降ろしてあげたいと思う刑務官が駆け寄り、4分50秒で縄を解けば違法になる。2005年に「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律」が制定され、1908年制定の監獄法が97年ぶりに大きく変わり、受刑者の待遇は改善された。だが、死刑確定者についてはこの法律ではなく、片仮名まじり文のままの前記「刑事施設ニ於ケル刑事被告人ノ収容等ニ関スル法律」による。2005年の監獄法改正の際、旧監獄法72条はそのまま残った。「とどめの5分」も、2005年以降も維持されたわけである。受刑者の処遇改善については大きく動いたが、死刑については現状維持ということだろう。
  なお、さらに先月6月8日、上記「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律」が、題名改め「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」(2006年法律第58号)へと改正され、「死刑の執行」の部分がこの法律の中に収められた(施行は1年以内)。それに伴い、上記「刑事施設ニ於ケル刑事被告人ノ収容等ニ関スル法律」が廃止となる。施行後の新法179条では「死刑を執行するときは、絞首された者の死亡を確認してから五分を経過した後に絞縄を解くものとする」と仮名遣い等が変わるが、実質的な変更はない。


   個々の感情や想いではなく、人の命を奪う生命刑を、いつまでも国の制度として維持し続けるのか否か。これがいま、問われている。ただ、憲法の観点からは、死刑の存置か廃止かという論点とは別に、死刑は合憲か違憲かという論点がある。今回は、ここに少しこだわってみよう。


  憲法36条は、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と定めている。例外を認めない「絶対に」という強烈な否定表現は、103カ条ある日本国憲法の条文なかで、ここ一カ所だけである。では、死刑は残虐な刑罰にあたるのか。これがなかなかむずかしいのである。
  学説のなかで明確な「死刑違憲論」をとる論者は多くはない。教科書を開いても、正面から死刑は憲法違反という叙述に出会うことはあまりない。「憲法第9条」については自衛隊合憲論は通説ではないが、「刑法第9条」は合憲論が通説である。58年前の最高裁大法廷判決(1948年3月12日)が必ず引用され、個々に疑問が述べられることがあるが、その枠組みそのものが否定されることはあまりない。判決のポイントはこうである


(1) 憲法13条は「生命に対する国民の権利の最大の尊重」を定めているが、同時に「公共の福祉」に反する場合には、「生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至〔ないし〕剥奪されることを当然予想している」。

(2) 憲法31条には、「国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によつて、これを奪う刑罰を科せられることが、明かに定められている。すなわち、憲法は…刑罰としての死刑の存置を予定し、これを是認したものと解すべきである」。

(3) 「死刑の威嚇力によつて一般予防をなし、死刑の執行によつて特殊な社会悪の根元を絶ち、これをもつて社会を防衛せんとしたものであり、また個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ、結局社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性を承認したものと解される」。だから、「刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに同条〔憲法三六条〕にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない」。

(4) ただ、「その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有する場合」は「残虐な刑罰と」となる。将来、「火あぶり・はりつけ・さらし首・釜ゆでの刑ごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第36条に違反するものというべきである」


  憲法解釈上、死刑の合憲性については、憲法13条、31条、36条の相互関連が重要である。最高裁の論理運びは、13条で「公共の福祉」による生命権の剥奪が予想されていると簡単に断定している。だが、今日の「公共の福祉」をめぐる学説の到達点からすれば、このような素朴な文理解釈はとれないだろう。13条後段の「生命」の権利の最大尊重と「公共の福祉」は、前段の「個人の尊重」の具体的展開として位置づけられるから、「必要最小限の制限」しか出てこない。13条後段の「公共の福祉」についても、「個人の尊重」原則を基本に置いた理解が求められる。判決は、「全体に対する人道観」を「個体〔個人〕に対する人道観」に優位させるという「逆転の発想」が見られる。なお、「公共の福祉」の内容を具体的に突き詰め、「個人」の「生命」の「最大の尊重」をしたうえで、死刑判決が「必要最小限」となるレアケースが果たしてどれほどあり得るのだろうか、という疑問も成り立ち得よう。

  次に判決は、31条に「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命…を奪はれ…ない」とあることから、その単純な反対解釈によって、法律の定める手続さえ踏めば、生命を奪う刑罰を科すことができるのは「明らか」という。だが、31条の文意は、死刑が積極的に禁止されていないことが推定されるだけで(消極的合憲論)、そこから死刑が「明らかに」導き出されるほど強い規定の仕方をしていない。13条の「個人の尊重」は、凶悪犯罪を行った「個人」に対しても及ぶから、31条に対する13条の限定効果も見なければならない。判決の31条解釈はあまりにもシンプルと言わざるを得ない。

  その上で判決は、36条の「残虐性」の判定に移る。死刑の犯罪抑止効果ないし威嚇力(死刑になることを恐れて、人が殺人などの重大犯罪を行うのを躊躇させる働き)と、凶悪犯罪の根を絶ち、社会防衛に貢献しているとの認識から、死刑は「直ちに残虐な刑罰とはいえない」と断定する。そして、死刑の執行方法等の問題に飛ぶ。「火あぶり」「はりつけ」といったショッキングな事例を列挙し、こうした執行方法を定める法律が将来制定されれば、これこそ「残虐な刑罰」であるとする。けっこうインパクトの強い文章である。
  だが、判決は「死刑そのもの」が残虐な刑罰かどうかの明確な説明を実はしていない。「火あぶり」などは残虐であるとするが、「絞首刑」がなぜ残虐ではないのかについて直接の言及がないのである。後に古畑鑑定などで、死後の残虐感が少ないこと(死体の状況)や、理想的に行われれば苦痛が少ないこと(精神的苦痛の除く)の二点が、絞首刑が残虐ではない理由として挙げられている。だが、元死刑囚の世話係の話(合田士郎『そして、死刑は執行された』恒友出版)などからすると、絞首刑の遺体に残虐感が少ないとするには疑問がある。苦痛が少ないという「鑑定」についても、実際に鑑定者がやってみたわけでもないのに、と思う。要するに、最高裁判決は、死刑が「残虐な刑罰」にあたるのか否かの本質的論点ついて十分な説明もしないまま、執行方法の残虐性の問題に論点をスライドさせ、そこに挙げられた事例(火あぶり等)の生々しさに依拠しつつ、現行死刑制度は「直ちに残虐とはいえない」という印象的結論を導いたわけである。


  最高裁判決が「死刑そのもの」ではなく、死刑の執行方法を問題にできるのも、判決の論理的関係づけが、「13条、31条→36条」というルートを辿っていることと無関係ではないだろう。これに対して、「36条→13条、31条」というルートから死刑をめぐる解釈論に新たな光をあてようと試みるのが、根森健「最高裁と死刑の憲法解釈」(『現代憲法の諸相:高柳信一先生古稀記念論文集』専修大学出版局)である。この論文は、1948年最高裁判決と通説を批判的に検証しながら、「死刑が憲法上許されるか否か」という論点では、36条解釈から31条の解釈を枠づけるべきであると主張する。36条にいう「残虐な刑罰」とは、「不必要な苦痛を与える刑罰」ではなく、生命を剥奪するという「個人の人間として生きることの尊重という意味での人道上の見地から見て厳しい、ないし不当な刑罰」ということになる。この論者の立場からすれば、36条は、「個人の人間として生きることの尊重」に関わる限り、「必要な精神的、肉体的苦痛を内容とする刑罰といえども許さない」という趣旨だとする。こうして、36条によって意味を充填された31条によって、死刑は法律の適正な内容を構成しえないので違憲ということになる。なお、この論者の思考回路は、13条によって支えられた36条が31条を枠づけているという構成をとるわけで、その意味では「13条+36条→31条」という流れになるように思われる。

  学説上、憲法31条の規定の仕方(「生命…を奪わはれ…ない」)から、死刑について違憲とまでは言えないとする通説(「消極的合憲論」)の立場に立った上で、死刑の廃止を主張するという者も少なくない。死刑の合違憲性の議論と、死刑の存廃の議論とは一応区別されるが、しかし、根森氏のように、憲法解釈のあり方として、あえて積極的な違憲説をとって、死刑廃止の論拠を強化していくという問題意識も理解できる。憲法13条の「個人の尊重」の決定的重要性と、36条の「絶対的禁止」の要請から31条にしばりをかけていくアプローチの必要性を感ずる。


  なお、1948年判決で島裁判官の「補充意見」(他に3人の裁判官が同調)が、「憲法は、その制定当時の国民感情を反映して右〔31条〕の規定を設けたにとどまり、死刑を永久に是認したものとは考えられない」と述べ、「…死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代に達したならば、死刑もまた残虐な刑罰として国民感情により否定されるに違いない」「かかる場合には、憲法第31条の解釈もおのずから制限されて、死刑は残虐な刑罰として憲法に違反するものとして、排除されることもあろう」と指摘していたことを想起したい。もちろん、島裁判官は「しかし、今日はまだこのような時期に達したものということができない」と結論づけてはいるが。また、井上裁判官の「補充意見」も、憲法が「死刑の存置を命じて居るものでないことは勿論だから、若し死刑を必要としない、若しくは国民全体の感情が死刑を忍び得ないと云う様な時が来れば国会は進んで死刑の条文を廃止するであろうし又条文は残って居ても事実上裁判官が死刑を選択しないであろう」と述べていた。


  ここでも言われている「国民感情」というのは、その後の死刑関連の判例でも言及されている。日本政府が国連で死刑廃止条約に反対したのも、国民世論が死刑を支持しているということが大きい。だが、「国民感情」の変化を待っていては、日本は永久に死刑を廃止できないだろう。死刑を廃止したほとんどの国で、国民感情、国民世論は死刑を肯定している。1981年にギロチンを廃止したフランスも、廃止の時点で国民の7割は死刑を支持していた。ミッテラン政権のバタンテール法相は、「民主主義は世論に追従することではなく、市民の意見を尊重することである」と述べて、あえて世論の多数に抗して死刑を廃止する決断を行った(ロベール・バタンテール『そして、死刑は廃止された』作品社、参照)。立法にあたる者は、「国民感情」を安易に持ち出して逃げるのではなく、国民に積極的な問題提起を行い、長期的視野に立った決断することが求められる。

  次回は、死刑についての「国民感情」に揺れる司法の状況について、先月の山口県光市の母子殺害事件最高裁判決などを素材に考えてみよう。 (この項続く)

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