京都新聞2006年5月3日 社説

憲法はいま  「国のかたち」を論議したい

 きょう三日は憲法記念日。今年は公布から六十年になる。だが、「還暦」を静かに迎える状況にはない。改憲を指向するさまざまな動きが活発になってきたからだ。
  昨秋の自民党「新憲法草案」や民主党「憲法提言」の発表に次いで、公明党も今秋には「加憲」案を明らかにする。各党の論議の進展に歩調を合わせて、憲法改正の手続きを定める国民投票法案の国会提出へ向けた動きも急だ。
  改憲をめぐる政治状況の高まりは、戦後三回目といわれる。ただ今回の「うねり」はこれまでに比べて最も大きい。
  昨年九月の総選挙で、自民党は公明党と合わせて衆院で改憲案を発議できる三分の二以上の議席を獲得した。参院議席は単独過半数に満たないとはいえ、民主党が加われば発議は可能だ。
  国民投票法案が仮に成立すれば、改憲に向けた環境は整うことになる。「国と郷土を愛する態度」を教育目標とする教育基本法改正案が今国会に提出されたのも、こうした国会の政治力学を背景にした動きと軌を一にするものだろう。
  課題や矛盾を多く抱える憲法について、国民を巻き込んだ幅広い論議がいま必要なのはもちろんだ。だが、ムード先行の改憲論議を冷静に受けとめ、われわれにとって憲法とは何か、急いで改正する必要があるのかなど、一人一人がじっくりと考えることが大切だ。

国民に判断材料示せ

  憲法は、社会のあり方や、国のかたちを定める最高の法規範だ。国民が何を理想とし、何を求めて生きようとするのかを描き出す。
  その改正をめぐる論議は、時代の価値観を反映するだけでなく、未来への展望も示すものでなければならない。
  だが、自民党が昨秋の結党五十周年に際してまとめた「新憲法草案」からは、半世紀以上にわたって戦後の国のかたちをつくってきた憲法を、どう変えていくのかの理念が弱いようにみえる。
  焦点の九条については、自民党案が「自衛軍」の保持を、民主党案が「制約された自衛権」をそれぞれ明記し、ともに改正への方向性を打ち出した。
  だが、集団的自衛権については具体性を欠く。自民党案は具体的にどこで、どう行使するのか鮮明でなく、民主党も今回は意見集約を見送った。
  今後、公明党なども含め、各党で九条と集団的自衛権について徹底的に討論し、国民に判断材料を提供するべきだ。
  先月下旬、共同通信社で開催された各党憲法討論会で船田元・自民党憲法調査会長は「憲法制定から六十年たち、環境も大きく変化した。あちこちほころびの出た洋服を繕って着られるようにしたい」と、憲法古着論を唱えた。
  だが、間違えても、古着を脱いでヨロイをまとうようなことがあってはならない。

国会論議を軽んじた

  二〇〇三年十二月、小泉純一郎首相は、憲法前文の「いづれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」を引用し、イラクへの自衛隊派遣の正当性を強調した。平和主義をうたう前文の趣旨を都合のいいように解釈し、利用した。
  小泉政権の五年は、憲法を軽んじ、ないがしろにしかねない場面がしばしばあった。これまでの政府が、憲法と政策のつじつま合わせに腐心してきたのを、いとも簡単に無視することがあった。
  自衛隊のイラク派遣がそうだ。対米協力を最優先させ、内乱状態のイラクに派遣することが憲法に抵触するかどうかといった国会論議をほとんど省略した。
  撤収をめぐっても、国会で十分に説明しようともしない。今からでもイラクでの活動を検証することだ。そうすることで、日本にふさわしい国際貢献のあり方が見えてこよう。
  靖国神社参拝の強行も同様だ。違憲判決が出ても「理解に苦しむ」と一蹴(いっしゅう)するだけだ。小泉政権五年と憲法の関係を総括することが、あるべき外交の姿を取り戻すのにつながるのではないか。
  政治には、現実の政策を憲法の理想に近づける責務があろう。憲法と現実の乖離(かいり)を改憲の理由にする前に、政治の貧困を正すのが先決だ。

各党は説明を尽くせ

  憲法は、国家が国民に義務を守らせるための規範ではない。国家が権力を乱用しないよう枠をはめるものだという基本を、いま一度かみしめたい。
  「政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之(これ)ニ従ハザルコトヲ得」「政府官吏圧政ヲ為(な)ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得」
  自由民権運動家の植木枝盛が一八八一年に発表した「東洋大日本国国憲案」(岩波文庫、家永三郎氏編「植木枝盛選集」)の条文の一つだ。
  水島朝穂・早稲田大教授(憲法学)によると、日本が近代国家のかたちを模索していた明治初期、自由民権運動の側から提案されたさまざまな憲法草案には、すでに政府の暴走に対するチェックの必要性が強く自覚されていたという。
  そうした視点から、国民に義務ばかりを押しつける改憲論かどうか、見きわめることも大切だろう。
  国民が自由に憲法論議するためには、各党とも説明責任を尽くし、情報を提供することが前提だ。結論を急がず、じっくり時間をかけて論議しなければならないことも当然だ。
  そうして初めて、国民が主体的にかかわる真に熱い憲法論議がわき起こるのではないか。