新潟日報2006年5月3日 社説

憲法記念日を迎えて 重み増す主権者の意思 

  憲法記念日を迎えた。いまの憲法はきょうで施行から五十九年になり、十一月三日には公布から六十年の節目を刻む。日本の慣習に従えば還暦である。さまざまな評価はあろうが、六十年の長きにわたって羅針盤の役割を担ってきたことに深い感慨を覚える。

  かつては「押し付け憲法」とやゆされた。いまは「現実にそぐわない古着」との声が聞こえる。半世紀前の保守合同以来、第一党の座にある自民党は一貫して政綱や綱領に憲法改正を掲げてきた。


  ☆基底にある戦争への反省

  このような状況下で、今日まで一言一句の改正もなかったのは驚くべきことである。なぜだろうか。

  原爆が投下された広島、長崎をはじめ全国の主要都市が灰じんに帰し、三百万人を超える国民が犠牲となった先の大戦への痛切な反省が基底にあるからではないか。近代的憲法の存在理由は、国家の暴走を抑止することにある。

  だからといって、改正を含めた憲法論議を避けたり、タブー視したりする態度は取るべきではない。憲法の神聖化はひいきの引き倒しであり、冒涜(ぼうとく)にもつながる。

  憲法典を墨守するのではなく、大事なのは日常生活の中に生かし磨き上げることである。そのためには手を入れることがあってよい。

  憲法が暮らしの中であまり語られてこなかったのは、国民がつくり上げた感覚に乏しく、深い関心を寄せてこなかった側面があることは否めない。

  憲法は国の基本法であり、条文にあるからといって直ちに実生活に反映されるわけではない。憲法の規定を実践に移すには個々の法律の裏打ちを要する。

  二五条がうたう「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」も、具体的な指標と施策がなければ絵に描いたモチでしかない。国にそれを迫っていくのは、主権者たる国民の責務である。

  昨年、自民党が新憲法草案を発表するなど、政党レベルでは改憲を志向する動きが出てきた。自民党草案の眼目が、戦力不保持と交戦権の否定を定めた九条二項の改正にあるのは間違いない。

  世界有数の戦力を持つ自衛隊が存在し、イラクにまで派遣されている。憲法と現実との乖離(かいり)を象徴する事態であり、憲法を生かす努力を怠ってきたツケといえなくもない。

  憲法が現実離れしているのか、現実が憲法を無視しているのか。歴史認識を踏まえて徹底的に論議すべきだ。

  この点をあいまいにしてはアジアの信頼はもちろん、世界の信用も得られまい。憲法の平和条項は世界への公約であることも忘れてはならない。


  ☆順守義務は国にこそある

  憲法原則の確認も重要な作業だ。現行憲法一一条以下の基本的人権についてである。「憲法は権利ばかりを強調して義務を軽視している」「公の概念が足りない」などとする意見がある。

  自民党草案では「自由と権利には責任と義務が伴う」「(国民の権利は)公益と公の秩序に反しない限り最大限尊重される」とうたっている。

  一見もっともらしいが、近代立憲主義とは相いれない。憲法は国民を縛るものではなく、国家の専横から国民を守る道具だとするのが現代の常識である。

  国民の自由や権利が侵害される時代と戦争は切り離せない関係にある。歴史はそう教えている。一一条から四〇条まで権利規定が細かく書いてあるのは、戦時体制下の日本が、国民の権利を奪ってきたことへの反省の証しである。

  九九条では天皇や閣僚、国会議員などに憲法の尊重擁護を義務づけているが、「国民」の文字はない。憲法は国民が守るものではなく、国民が国に守らせるものだという原理に根差しているからだ。

  この観点からすると、政権政党が打ち出す改憲案が「国に寛大で主権者に厳しい」色彩を帯びるのは無理もない。

  憲法を論ずる際に必要なのは、国の役割とは何かを問うことである。言葉を換えれば、国家の行動をどこまで容認するかということだろう。

  民主的憲法は主権者の意思が体現されたものにほかならない。私たち国民一人一人が憲法のありように責任を負っているのだ。五十九回目の記念日は、そのことに思いをいたす日としたい。

  憲法改正の手続き法である国民投票法案が今国会に提出されようとしている。国民の間に憲法論議を根付かせるのが先決だ。料理が決まれば器はおのずと限られてくる。法案化を急ぐ理由はない。

  憲法論議を政党任せにしていては禍根を残す。国民の側から積極的に声を上げていくべき時である。還暦を迎えた憲法をどのような形で再生させるのか。私たち主権者の意思が問われている。