「悪質リフォーム」にご用心―安倍式改憲は、この国の屋台骨を壊す  2007年7月30日

議院選挙の結果が出た。与党が大敗した。とりわけ地方の1人区で自民党は閣僚経験者を含め多数の現職が落選した。四国4県で自民党は議席ゼロ。これが今回の選挙を象徴している。地方の怒りは途方もなく大きく、深かったようだ。しかし、いま(7月29日午後10時45分)、テレビ中継をみると、安倍首相は政権続投を表明した。1989年7月の参院選に匹敵する大敗北にもかかわらず、「これからも総理大臣として責任を果たしていく」と笑みをたたえながら語っている。この軽さ、明るさはなんだろう。なお、この選挙の意義についてはすでに前回書いたので、今回は「改憲」を家のリフォームと対比させた原稿をUPする。「構造改革」に始まり、「郵政民営化」では参議院の機能までも壊してしまった最初の「リフォーム屋(小泉政権)」の流れをくむ安倍政権。そこに住む人間の住み心地を考えないリフォームは論外であり、また構造上、触ってはならない柱もあるだろう。

  大学はいま、学期末で大変多忙である。一昔前なら、7月に入ればすぐに原稿書きに集中できたが、この3年ほどの間にセメスター制やら何やらと、ここでも立て続けに「改革」が行われた結果、試験採点などの仕事は倍以上になった。夏の間も、なにやかやと忙しく、貴重な時間が減っている。これを全国の大学で総計すれば、失われた時間数は膨大であるし、この国の学問や文化の発展にとって、かなりマイナスではないだろうか。
   今回と次回に予定している原稿は、ストック原稿ではあるが、安倍内閣を前提にした議論の「在庫一掃」という意味もある。以下は6月末の時点で脱稿した(転載原稿を含む)である。

  先月(2007年5月)、建設関係の労働組合の機関誌から、「改憲」問題について原稿を依頼された。読者層は建設現場で働く人々が多いと思うと、どういう切り口にするか、書き出す前に結構考えた。そこで思いついたのが、家のリフォームとの対比である。長年住み慣れた家でも、古くなってガタがきたところや、実際に住みにくくなったので改善が必要になったということは当然ある。近所に新しい家が増えてきたので、少しは見栄えをよくしたいということもあろう。さまざまな理由で家のリフォームは行われている。なかには、訪問販売のようにリフォームを誘う業者もいる。これはあまり気分がよくない。
   書斎で原稿書きをしていると、玄関のチャイムが鳴る。インターフォンで応対すると、「家のリフォームのことで…」ときた。「いえ、けっこうです」と切ろうとすると、「ちょっと外に出てきてくれませんか。お宅の外壁のですね、右側の…」なんて始める。普通ならここで思わず外に出てしまうのだろう。私は決して出ないが、客を玄関の外に引っ張り出すための「誘い文句」はなかなか巧妙である。

  昨今、ワイドショーの類では、「悪質リフォーム屋」にひっかかった家の惨状をよく取り上げている。ちなみに、この種のテーマは何故か、昼の時間帯が多いように思う。地震や白蟻など、さまざまな理由をあげて、天井から床下まで、執拗に「リフォーム」をさせる。そして、膨大な費用を請求する。なかには、悪質リフォームの結果、家全体のバランスが崩れて傾いてしまい、住めなくなったというひどい例もある。
   家のリフォームは悪いことではない。「リフォーム」というのは、「改革」「改善」「改正」である。憲法のリフォームも、96条という「リフォーム条項」がある以上、憲法自身が予定していることである。ただ、さほど悪くないのに、「地震対策で床下を補強しましょう」「白蟻対策も必要です」とかいって、よく説明もせずに高い工事を繰り返して、高額の料金を請求する悪質リフォーム屋と同様、いま、憲法についても、そうした「誘い」を一国の首相がやっている。

  6月23日、安倍首相は、「3年後に憲法改正を発議する」と、初めて発議期限を明確にした。これは、おかしい。「発議」を行うのはあくまでも国会であって、首相ではない。この人の場合、「ちょっと危ないな」と思うのは、「憲法改正は私の任期中に」とか、「祖父も父もできなかったことを私が」みたいに、首相の個人的な想いが強すぎることである。今後の首相には、思い入れや思い込みの異様に強い人は不適格という教訓になろう。
   以下、建設関係の方々に向けて書いた原稿を転載する。過去の「直言」で読んだような記述に出会うと思うが、ご了承いただきたい。

(2007年7月29日稿)

 

安倍式改憲は、この国の屋台骨を壊す

 ◆ 家づくりの「暗黙知」

  32歳のとき、北海道に家を建てた。住宅ローンも組んだが、広島の大学に移るため、わずか4年で売却した。でも、人生のなかで、この経験は決して無駄にはならなかった。「北の家」には、あらゆるところに「耐雪」という観点が貫かれていることも知った。例えば、設計段階で、私が塀の話を持ち出すと、「雪が落ちるべさ」と笑われた。屋根の角度も形も素材も、窓の位置も大きさも、すべて冬を基準にして考える。「対雪」と「耐雪」の大切さは、新居で初めての冬を過ごしてみて実感した。私の主張を無理に採用したところは、雪が積もると結果がはっきり出てしまった。一軒の家を建てるということが、どんなに大変なことか、思い知ったわけである。その地域の特性や条件を考慮し、先に家を建てた人々のさまざまな知恵や経験に耳を傾け、しかも雪国にとっては言わずもがなのこと、つまり「暗黙知」に謙虚に従う。そういう姿勢が欠かせない、と。

  今年〔2007年〕3月の能登半島地震のとき、震源地に近い輪島市では、「重い墓石が跳ねるほどの揺れ」が襲ったにもかかわらず、全壊した住宅が意外に少なかった。強い海風(「あえの風」という)と雪に備えた太い柱や梁、そして少ない窓。こういう伝統工法が地震に耐えたのである。一階を店舗や車庫に使ったため、壁が少なくなった家屋の場合には、完全につぶれたところが多かった。金沢工業大学の木造建築専門家が現地調査を踏まえて語る内容は、実に示唆的である(『朝日新聞』2007年3月27日付)。

 ◆ 「構造改革」と「憲法改革」

  昨年、この国では、建築への信頼が大きく失われた。マンションやホテルの構造計算書が偽装され、それを確認検査機関が「見逃し」、震度5程度で倒壊するおそれのある建物が全国各地につくられた。経費削減と迅速・効率性が最優先され、この国の仕組みは多方面にわたり、大きく変えられてきた。「構造改革」である。「改革」という言葉の響きこそいいが、その実は、米国による「押しつけconstitution」以外のなにものでもない。

  「構造改革」の出自は、日米構造協議(1998年)にさかのぼる。あれから米国は、毎年のように「年次改革要望書」を出して、大規模店舗規制から、医療、生保、教育(「株式会社立大学」も!)、法曹養成など、多くの分野で規制緩和・民間開放を要求してきた。その一つが、検査確認業務の規制緩和である。それに伴い、98年に建築基準法の大規模改正が行われ、役所の建築主事が担当する確認検査業務が、民間の会社でもできるようになった。この検査業務の「官から民へ」の結果、ゼネコンや住宅建設会社には「お抱え」の確認検査機関も生まれた。耐震偽装問題の背後には、米国の要求で行われた安易な規制緩和・民間開放の問題があったのである。

  どのような制度や仕組みにも柱や梁の部分がある。それを変えるには、その制度や仕組み全体への影響を考慮し、総合的な検討の上に行われなければならない。建築の分野でも、長年にわたって行われてきた仕組みに不都合が生ずれば、その改善が必要になるのは当然だろう。だが、検査確認業務という公共性の高い分野を、ただ時間がかかりすぎるとか、非効率だとかいう理由だけで(かりに、お役所仕事の弊害に起因することがあったとしても)、安易に民間開放してよかったのだろうか。建築基準法改正の際、もっと慎重な検証が必要だったように思う。安易な規制緩和のツケが、10年もしないうちに出てきたともいえる。そして、「年次計画要望書」に沿った、偏った「構造改革」は、ついに国の屋台骨である「憲法」の「改革」に行き着いたわけである。         

 ◆ 憲法を変えるということ

  憲法というものは、国家権力のありようを制限し拘束する「柱」や「梁」の役割を果たしている。このような憲法の基本的な組み立て方を「立憲主義」という。ある憲法が、長年にわたって実効性を保って運用されてきた場合、その仕組みに変更を加えるときには、なぜ変える必要があるのかについて、また、他に手段がないのかについても十分な理由づけと根拠が必要である。だが、憲法という国の最高法規を改めるという議論について、いま、形容しがたい「薄っぺらさ」が広まっている。加えて、安倍晋三首相の言葉には、「のっぺりとした軽さ」すら漂う。

  今年4月24日の自民党「新憲法制定推進の集い」において、安倍首相が憲法改正の理由として挙げたのは、①現行憲法は占領下でGHQ(連合国軍最高司令部)の素人により起草された、②長い年月がたち、時代にあわない、③新憲法の制定こそ、新しい時代を切り開く精神につながる、という3点だった(『朝日新聞』4月25日付の要約)。この3点のどれ一つとっても、「だから、いま、憲法を改める必要があるのだ」ということを根拠づける積極的理由に乏しい。

  まず、①についていえば、ドイツ基本法(1949年憲法)も占領下で制定された。米英仏3カ国占領軍司令官による基本法原案に対する露骨な介入もあったが、これを「押しつけ基本法」というドイツ人はいない。占領下で作られたものは変えるべきだといえば、「ナチスに戻すのか」といわれるのがオチである。加えて、GHQの民生局で憲法制定に関わった人々は決して「素人」ではない。弁護士資格をもつリベラルな人たちもいた。②の「時代(現実)にあわない」という言い方は、まったくのミスリードである。憲法というのは理念を掲げる側面があるから、その時代の「現実」(とりわけ現実主義)と衝突することはままある。憲法違反の問題が生ずる度に、現実に合わせて憲法規範を変えていたら、立憲主義は根底から揺らぐだろう。③の「新憲法制定で、新しい時代を切り開く」という物言いは、安倍首相の好みのようである。私は、3年前、朝日新聞社の雑誌『論座』(2004年3月号)で、安倍晋三自民党幹事長(当時)の「9条改憲論の研究」について論評する機会を与えられた。そこで私は、安倍氏の議論を、「あまりに情緒的な改憲論議」と批判した。首相になってからも、この基本線は変わることはなく、国会の内外で、「『われわれの手で新しい憲法をつくっていこう』という精神こそが、新しい時代を切り開いていく」と叫んで、情緒的、感情的な改憲論を繰り返している。

  ことほど左様に、「美しい国」(安倍晋三首相)とか「希望の国」(御手洗富士夫経団連会長)とか、憲法を変える側には、浮ついた議論が目立つ。「美しい家」にしますから、と悪質リフォーム業者に囁かれても、これにうっかりのってはいけないように、「とにかく憲法を変えてみよう」という議論には要注意である。ところが、安倍首相は、憲法改正を、参院選挙の焦点、「国政の最重要課題」に持ち上げてしまった。そして、5月14日、改憲のための手続法(憲法改正国民投票法)も成立した。

  外側からはかっこいい「リフォーム」にみえても、屋台骨となる柱を取り払い、窓を必要以上に大きくしていけば、耐震構造上重大な欠陥のある、いつ倒れてもおかしくない家になってしまうだろう。

 ◆ レジーム・チェンジの意味

  安倍内閣が、いままでの内閣と区別される際立った特徴は、「戦後レジームからの脱却」を正面に据え、「レジーム・チェンジ」(体制転換)を初めて公然と表明した点だろう。いかなる「レジーム」から脱却して、いかなる「レジーム」に転換するのか。安倍首相によって否定的に評価されるのは、「戦後レジーム」、すなわち、占領と占領政策、戦後改革によって生まれた体制である。日本国憲法体制は、戦後改革の理念と到達点を確認したものだから、「戦後レジーム」そのものである。結局、「脱却」すべき対象は、戦後価値、民主主義、平和主義、立憲主義ないし個人の尊厳、総じて日本国憲法の価値にならざるを得ない。もし、ドイツ人に、「戦後ボン基本法体制からの脱却」といったら、ボン体制が否定したナチズム(国民社会主義)かスターリニズム(国家社会主義)への逆走と理解されるだろう。

  このご時世に「民族」と「美学」を過度に押し出し(「美しい国」)、議会における圧倒的多数をベースに、「問答無用」の政治手法全開の安倍内閣が説く「レジーム・チェンジ」の方向と内容は、かなり怪しげなものである。

  とりわけ、集団的自衛権行使を現行憲法下で可能とする「解釈」を私的な諮問機関を通じて打ち出そうとしている。かろうじて内閣法制局が抵抗しているが、この手法は、「解釈改憲」の極限状態としての「憲法廃除」の状態をつくり出そうという戦略なのか。これは、一見すると、明文改憲の路線と矛盾しそうだが、彼の発想のなかでは、「新憲法」制定までの暫定措置という理解なのだろう。

  そういえば、「米日同盟-2020年のアジアを正しく方向づけるために」(アーミテージ・レポートⅡ)は、日本が「憲法問題を解決」(9条2項削除)すれば、「米国は、我々が共有する安全保障上の利益が損なわれる場所で交戦する自由をもった同盟パートナーを歓迎する」と書いている。これは、日米安保体制の「グローバル安保体制」への転換であり、日本が「専守防衛」から完全に離陸して、全地球規模で転戦する緊急展開部隊を運用する国になることを意味する(拙稿「自衛隊はどう変質しつつあるのか」『世界』2007年4月号参照)。「構造改革」の総仕上げは近い。

  「新憲法の制定」を公然と掲げ、「レジーム・チェンジ」を目指す安倍内閣は、日本国憲法のもとで、60年かけてこの国が築いてきた大切な「柱」や「梁」を外していく「リフォーム屋」の役回りを果たしつつある。  

(東京土建一般労働組合『建設労働のひろば』2007年7月号「論壇」から転載)

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