裁判員制度が始まるけれど(1)  2007年11月19日

年生の導入演習(1年ゼミ)の一環として、毎年6月に「霞が関・永田町フィールドワーク」を実施している。東京地裁での裁判傍聴から始まり、法務省赤レンガ庁舎、憲政記念館を経由して、最後に参議院別館8階にある裁判官弾劾裁判所の見学で終わる。生まれて初めて本物の裁判を傍聴する1年生が多く、手錠と腰ひもで法廷に出てくる被告人と出会うときは、みんな顔がこわばっていた。裁判官弾劾裁判所では、滅多に使わないという立派な法廷で話を聞きながら、これが「裁判官の独立」を保障する上で大切な制度であることを学ぶ。私も引率しながら、毎回それぞれの場所で、一般来場者向けのパンフレットをもらう。学生たちも熱心に読んでいる。

  ところが、2年前、法務省のパンフレットをめくっていて、一瞬「目が点」になった。裁判員制度を紹介するパンフのなかに「裁判員クイズ」というのがあったのだが、そこに、「現住建造物放火罪とは、次の三つのうちどれか」という設問があり、その選択肢のなかに、「人の顔の前でおならをすること」というのがあった。「放火」を「放屁」にかけたのだろうが、あまりにも市民を馬鹿にした設問だった。税金を使って出す役所の広報パンフとは思えない。タウン・ミーティングなどで「やらせ」質問が相次いだ頃のことである。翌年の1年生を連れていったときには、このパンフはもうなかった。省内でも批判が出て、改訂されたのだろうか。

  さて、その裁判員制度の発足が近づいてきた。直言でも、この制度の問題点については2回連続で書くことにしたい。第1回目は、裁判員制度を論ずる前提として、陪審制度について描いた映画と、それをみた1年生の感想を紹介することで、「人が人を裁く」ということに市民が参加することの意味や難しさを考えてみたい。

  私は毎年、1年ゼミの学生たちに、5月の連休前に、ヘンリー・フォンダ主演の米映画「12人の怒れる男」(1957年)〔正式には「十二人の怒れる男」だが、「12人…」と表記する〕をみせている。この映画は、陪審制のもつ危なさと可能性を見事に描いた名作である。「普通の人々」が裁判に参加することで、素人であるがゆえの常識や直観力、違った職業や年齢などに基づくそれぞれの観察力が、「24の瞳」となって法廷を注視し、事実認定に寄与することがある。そうした期待の上に出来上がった制度が陪審制である。入学したばかりの1年生は、まだ専門的な法律の勉強をしていない段階なので、いわば「普通の人々」と同じ目線ということで、早い時期にこの作品をみせることにしている。

  早大に着任してから11年間、ドイツ在外研究の時を除き、10回にわたってこのビデオをみせて、感想を書かせてきたが、今回初めて、三谷幸喜脚本「12人の優しい日本人」(1991年) と比較した感想文が出てきた。私のビデオライブラリーにはもちろん両方ともあるが、授業で2本みせるのは難しい。その意味で、学生が、ビデオ屋で借りて両方を比較するようにいったが、この感想文はそれをすぐに実践した学生によって書かれたものである。
   法学部に入学したての初々しい感覚と感性は、この二つの作品をどうとらえたか。以下、本人の同意を得て紹介する。なお、そこには、両作品の「ネタばれ」的な面が出ているが、あえて修正しないで公表することにしたい。

 

水島先生

2007年5月5日

  4月26日、テレビで朝のニュースを見ていたところ、中華料理店の経営者を射殺した上、東京メトロ半蔵門線渋谷駅で駅員を銃撃し重傷を負わせたなどとして、強盗殺人の罪で死刑判決を受けた熊谷被告について報道されていました。一人の人間を殺害しただけではなかなか死刑判決が下されないなかで、この判決は異例であるとのことでした。銃撃が原因で足の自由を失った被害者の駅員は、「自分が苦しい思いをしているときに、のうのうと生きている熊谷被告が憎い」と言っており、そういったことも考慮においての判決だったのではないかと、コメンテーターは語っていました。またこの判決は、これから裁判員制度が開始され「判例よりも私情が意味を持ってくる」という新たな傾向のいわば幕開けなのではないか、といった感想も述べていました。一人の人間の判決に一般市民の私情が絡んでくる…。怖いと思いました。
   この場合、 被害者の気持ちを汲んだ温情ある判決 だと思う反面、それで人の罪は正しく裁けたのか疑問の残るところでもありました。感情をもった生きものである人が、人の罪を正しく裁くとはどういうことなのか、深く難しい疑問にぶつかりました。
   遅くなってしまいましたが、この間の授業で見た「12人の怒れる男」の感想をメールで送らせて頂きます。お読み頂ければ幸いです。

●映画「12人の怒れる男」と「12人の優しい日本人」を観ての感想●

 1.「12人の怒れる男」の感想

  舞台はスラム街、父親殺しの罪に問われている少年の有罪、無罪を、一般市民から選ばれた12人の陪審員が決めなければならないという映画です。一般の市民が陪審員になり人を裁くとき、もっとも懸念される「私情による判決」の恐ろしさがよく描かれていたと思います。
   最初、陪審員たちの議論は冷静さを欠き、「あの少年ならやっても当然だろう。父親を殺したろくでもない奴は、電気椅子にかけられて当然。早く終わらせて帰ろう」という私情で有罪と決め付けた極めて軽率なものでした。やる気のない陪審員たちの態度は、明らかに人ひとりの命がかかっているという自覚がなく、私は陪審員制度の恐ろしさを感じました。
   この中で、ひとり無罪を主張し立ち上がったのは建築技師でした。あくまでも彼は「事件の証拠が果たして確かなものなのかどうか」ということに焦点を当てていました。「疑わしきは罰せず」ということを一番理解し、またそれを他の陪審員に冷静な態度で示しています。本映画では、私情に頼らない“reasonable doubt”という視点から、有罪、無罪を決めるという手本を、建築技師が終始一貫示してくれたと思いました。

 2.「12人の優しい日本人」の感想

  この映画は、「12人の怒れる男」を元にして作られた日本版です。「12人の怒れる男」ほどのシリアスさはなく、コメディの要素を多く含めた作品ですが、「仮に日本人が陪審員になったらこうなるだろう」と、しみじみと「私情と人情」を感じさせられる作品でした。
   舞台は普通のありふれた町、夫殺しの罪を問われている女性(妻)の有罪、無罪を一般市民から選ばれた男女含む12人の陪審員が決めなければならないという映画です。「あの小さな子どもを抱えた優しそうな美しい奥さんが、ご主人を殺すはずがない」という理由で無罪と決め付ける陪審員たちは、「12人の怒れる男」同様、最初は私情丸出しでした。
   「12人の優しい日本人」を観てまず感じたことは、脚本の日本人らしさです。

「12人の怒れる男」では、
    少年の「有罪」の優位
      →一人の建築技師が少年の「無罪」を主張し立ち上がる。
      →「無罪」の優位
      →「無罪」で全会一致
といった流れで話が進みますが、

「12人の優しい日本人」では、
    女性(妻)の「無罪」の優位
      →一人の男性が女性(妻)の「有罪」を主張し立ち上がる。
      →陪審員の間で幾度となく「有罪」「無罪」が翻る。
      →あわや「有罪」か?となったが再び「無罪」優位へ
      →「無罪」で全会一致
という流れで話が進みます。

  私は、はじめから女性(妻)の「無罪」が優位になっていた点に日本人らしさを感じました。日本人は昔から義理・人情による紛争解決が主流だったという話を聞いたことがあります。いかにもそういった歴史的、文化的影響を受けてきた日本人ならではのシナリオだと思いました。題名にもなっている「優しい日本人」とは、そういう意味も含めているのではないでしょうか。
   最後のシーンは思いも寄らなかったことで、大変印象的でした。「女性(妻)は有罪である」と終始一貫主張していた主人公の男性が、「この女性はあなたの妻ではないんですよ」と他の陪審員に言われ、場が静まり返るというシーンです。一番客観的に物を見て判断し、目撃者の証言に疑問を投げかけていたかのように見えたこの男性が、実は自分の妻への恨みと、この夫殺しの罪に問われている女性とを混同し、一番私情に流されていたことが明らかになるこのシーンに、私は滑稽さを覚えると同時に、いかにこの陪審員制度が、私情との戦いになるかが「12人の怒れる男」より強調され、強く印象に残りました。

 3.二つの映画を見ての比較・感想

   「12人の怒れる男」は、まさにアメリカ人向けに作られたアメリカの映画であり、「12人の優しい日本人」は、まさに日本人向けに作られた日本の映画だと感じました。私は、「12人の怒れる男」を見て、十分に私情による判決の恐ろしさを感じましたが、最後の結末が「正義は勝つ」だったように、この映画に置かれた主体は「判決に私情を持ち込むことの恐ろしさ」より、「疑わしきは罰せず」と「正義の強さ」を訴えることなのだろうと思いました。多種多様の人種を抱えるアメリカは「正義」により国の心を一つにしようとする国です。「正義」が何よりも大切で好きな国アメリカ。そのアメリカ人の正義感に訴えることにより、あらゆる差別から生まれる私情による判決を制しようとする意図をこの映画に感じました。
   「12人の優しい日本人」は、「12人の怒れる男」と同じような描かれ方をしていながらも、不思議と「正義」という言葉があまり残らない映画です。それは結末が結末だからですが、日本人には「正義感」に強く訴えることよりも、義理、人情、思い込みによる「〜であって当然」「〜のはずがない」という考えを判決に持ち込むことの恐ろしさを、「愚かさ」と「格好悪さ」で訴えるほうが、はるかに効くからだと思いました。この映画は、いかにも客観的に語っているような人にも私情が潜んでいる怖さ、また判決に私情を挟むことの空しさを十分教えてくれました。義理・人情の日本人には、「私情」に主体を置いた「12人の優しい日本人」も是非観てもらいたい映画だと思いました。

  「12人の怒れる男」の正義が勝ち、颯爽と立ち去っていく建築技師と、「12人の優しい日本人」の他の陪審員たちの同情を受けながら肩をうなだれて立ち去っていく男性。アメリカと日本の国民性の違いを感じるとても興味深い二つの映画でした。日本人は欧米の良いところを上手く取り入れていくことができる国民性を持っていると思います。「正義感」にプライドをかけ、「私情を挟む」ことに恥を感じることができる「日本人らしい」裁判員制度が生まれることを心から願いたいと思いました。
   二つともに「無罪」が勝つ映画でしたが、「有罪」だった場合、両国はどのように描くのだろうかと思いめぐらせています。

 

   以上が、1年ゼミの女子学生からのメールである。「国民性」という、存在が明確でないものに対照させ、結論づけようとするところには課題を含むが、入学したてにしては、けっこう鋭い指摘を含んでいる。
   なお、これを私のメルマガ「直言ニュース」6月11日号で紹介したところ、裁判員制度を取材しているブロック紙の記者からは、「私情との戦い」にひっかけて、「法に支配されるべき法廷が『復讐劇場』になってしまわないか」などの感想が寄せられた。取材現場でも、この問題は悩ましく感じられているようである。
   また、神戸連続児童殺傷事件(少年A)を担当された井垣康弘元神戸家裁判事からも感想のメールをいただいた。そのなかで、上記の学生の文章のうち、下線を引いた部分について、「『温情ある判決』という言葉は、実務の世界では、判決を受ける被告人(加害者)にとって『温情』を与えられている場合(=刑が相場より軽い)に限定して使われているようです」というご指摘を受け、当該箇所を「被害者の気持ちだけを一方的に汲んだ温情に欠ける判決だと思う反面…」と訂正していただいた。実務の現場からの直接のコメントは大変ありがたく、すぐに学生に伝えた。

  二つの映画に登場した人物たち、それをみたこの学生が悩んだように、「普通の人々」が裁判員になったとき、戸惑い、悩み、ときには苦しむことになるだろう。この制度は本当に、この国が「法化社会」になることに寄与するのだろうか。未知数である。むしろ今は危惧の方が大きい。
  そのことを次回、早稲田祭(11月4日)本部企画「ゼミフェスティバル」のなかで、3・4年水島ゼミが行った、「裁判員制度」をテーマとした模擬ゼミ(高校生など100人以上が参加)の内容を紹介して、再度考えてみよう。

(この項続く)

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