「平成維新」と「日本一新」 2009年11月2日

10月26日(月)、鳩山由紀夫首相の所信表明演説の生中継を見た。さまざまな感慨が頭をよぎった。議場の3分の2近くを占める民主党議員が、「長く続く拍手」「嵐のような拍手」を送り、時折、演説が途切れる。自民党席の様子がテレビ画面に映し出される。森喜朗は腕組みをして最後まで寝ているし、薄ら笑いを浮かべた麻生太郎が、マスクの似合う安倍晋三に話しかける。自民党席全体が、何ともいえない陰鬱な空気におおわれ、落ちぶれた感は否めなかった。これに対して、民主党席は「若さ」が際立っていた。2005年9月26日の同じ月曜、26歳の杉村太蔵を含む「小泉チルドレン」が「嵐のような拍手」を送る風景を一瞬想起した(かといって、谷垣禎一自民党総裁のように、ヒトラーユーゲントに例えるのは不見識である)。2005年は壇上から小泉純一郎首相(当時)が、「郵政民営化について、国民は『正論』であるとの審判を下した」と叫んだ。だが、今回、鳩山首相は「郵政事業の抜本的見直し」を行い、「180度転換」を進めることを宣言した。いま、この国に求められているのは、「小泉構造改革」の「荒れ野」からいかにして復興をはかるかである。52分、13000字に及ぶ演説は、これまで私が聞いたどの首相演説にもない新鮮さがあった。

「あの熱い夏の総選挙」から「40日がたとうとしています」。静かな語り口と「体温」を感じさせる巧みな導入である。そして、「青森のお婆さん」「チョーク工場の社長さん」「無口だけと、本当はやさしくて、サッカーを教えるのがうまいブラジル人」等々、具体的エピソードを散りばめて、聞き手の心をグッと引き寄せる。明らかにオバマ演説を意識している

しかし、なぜ、「40日がたとうとしてい」たのか。もっと早く、臨時国会を召集すべきではなかったのか。そうすれば、「あの」という言葉も必要ないくらい、転換の初々しさを国民に実感させることができたように思う。

さて、演説の内容面についていえば、抽象的で理念的という批判が強いが、私はけっこう具体的だと感じた。例えば、「地域医療や、救急、産科、小児科などの医療提供体制」の「再建」を説いたところ。地域医療から小児科の現場まで、ポイントとなる分野を指摘し、「骨太の方針」で毎年2200億円を削って医療現場を荒廃させた現状を建て直すという意味で、「再建」は適切な言葉だろう。また、「友愛政治」の目標に、生活保護母子加算の年内復活や障害者自立支援法の早期廃止、職場や子育てなどすべての面での男女共同参画ということに加えて、「先住民族であるアイヌの方々の歴史や文化を尊重するなど、多文化が共生し、誰もが尊厳をもって、生き生きと暮らせる社会を実現する」と述べるあたりに、従来の政府演説にない構成の妙が見てとれる。

注目したいのは、「新しい公共」概念である。「私が目指したいのは、人と人が支え合い、役に立ち合う『新しい公共』の概念です。『新しい公共』とは、人を支えるという役割を、『官』と言われる人たちだけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加していただき、それを社会全体として応援しようという新しい価値観です」。「市民やNPOの活動を側面から支援していくことこそが、21世紀の政治の役割だと私は考えています」。非国家的公共主体を高く位置づけ、政府がそれを支援することをきちんと述べている点は評価できる。国連安保理演説でも、NGOとの連携を明言しており、従来の首相たちの頭をどんなに揺すっても出てこない発想がそこにある。「一人ひとりが『居場所と出番』を見いだすことのできる『支え合って生きていく日本』を実現する」。レトリックもうまい。問題は、政府が本気に取り組むかどうか、である。

私は森英樹名古屋大学名誉教授の科研費共同研究に参加して、『市民的公共圏形成の可能性――比較憲法的研究をふまえて』(日本評論社、2003年)にも執筆した。その6年後に、所信表明演説で「新しい公共」という言葉が飛び出すとは、想像することさえできなかった。まさに隔世の感がある。

とはいえ、この所信表明演説には、違和感を覚えた表現もいくつかある。沖縄の普天間基地問題や安全保障問題も気になるが、これはまた別の機会に論ずるとして、ここでは、所信表明で使われたある言葉について触れよう。

鳩山首相は演説のなかで、「無血の平成維新」あるいは「大政奉還」という、140年以上前の言葉を並べて、今回の政権交代を例えた。私は、「維新」という言葉を安易に使うべきではないと考えている。「維新」には「流血」が伴う。明治維新と「平成維新」の間に、二つの「維新」があった。まずは「大正維新」。第一次大本教事件(1921年)の後、信者の浅野和三郎らが「大正維新」を唱えて、体制変革を主張した。浅野は日本心霊主義運動の父とされる。これはあまり目立たなかったが、次の「昭和維新」は大量の流血を伴った。軍急進派と結びついて、2.26事件につながる流れを作ったことは、あまりにも有名である。

では「平成のご一新」を目指す「平成維新」の意味するところは何なのだろうか。流血は伴わないが、その手法がかなり強引になることは、「維新」である以上、国民も覚悟せよということだろう。鳩山の「友愛主義」のソフトな響きの一方で、実際に行われていることは、「結論先にありき」のかなり強引なものである。もともと「ご一新」とは、大政奉還と廃藩置県を意味するから、140年後の「維新」もまた、中央政府だけでなく、地方の巨大な変革を伴うということだろう。すでにダム、空港、高速道路、公共事業などの分野で、中央と地方との軋みも生まれている。

所信表明演説の「友愛主義」に聞きほれて、ハードな「ご一新」の側面を見逃してはならないだろう。かつて、小沢一郎の自由党が出した「日本一新11法案」(2003年7月)。これが、「平成維新」の隠れたる「シナリオ」なのかもしれない。

11法案のうち、廃藩置県にあたるのが、「地方自治確立基本法案」である。地方自治体を概ね300の市に再編するとしていた。特に注目されるのは、「国民主導政治確立基本法案」である。「官僚が国会審議や議員の活動に口を出すことを禁止し、政治家自身が政策を立案・決定する本来の制度に改めます。これによって政治家の官僚依存がなくなり、真の国民主導の政治が実現します」「国会議員と一般職国家公務員との接触を制限することにより、『政と官』のあり方を根本的に変え…ます。さらに、委員会審議は政治家同士の真の討論の場とします」というコンセプトのもと、次のような内容を掲げていた。

(1)行政機関の職員の国会議員への接触制限、(2)大臣政務官の増員、(3)各議院の委員会は、行政に関する細目的・技術的事項、実務経験または専門的知識を必要とする事項等について審査・調査を行うため調査小委員会を設置する、(4)国会立法調査院の設置、(5)国会法の改正、である。行政機関の職員は、国会議員と面会できない。政党の会議や国会議員が出席する会議に出席できない。これに違反したときは、懲戒処分の対象となる(4条1、2項)。これはすごい発想である。だが、今日、民主党のもとで行われている一連の「政治主導」の中身は、この「法案」の具体化という面をもっているのではないだろうか。

なお、この「法案」には、関連法案として、「内閣法制局設置法を廃止する法律案」が付いている。実際、自由党が2003年5月に衆議院に提出している。内閣法制局憎しは「小沢一郎のDNA」といってよい。1989年に自民党幹事長になった小沢は、ことあるごとに内閣法制局を敵視した。それこそ「仇敵」に近い。官僚の国会答弁禁止から始め、いずれは6年前の法案を出してくるのだろうか。内閣法制官僚の「集団的自衛権行使の違憲解釈」を吹き飛ばし、小沢流の剛腕憲法解釈がまかり通るとすれば、憲法98条(国際法遵守義務)を経由した、憲法改正なき憲法改変につながりかねない。要注意である。

かつての自由党「安全保障基本法案」7条には、国連決議があれば、「国際の平和及び安全の維持又は回復のための活動(武力の行使を伴う活動を含む)…に積極的に協力するものとする」とある。小沢の持論であり、今後、アフガンのISAF参加も「合憲」とする剛速球が出てくるおそれなしとしない。

いま、日本の政治状況は、鳩山首相の演説や発言などにより日本は変わるという期待を抱かせる一方で、小沢的世界が確実に広まっているように見える。政府も国会も、この一人の政治家の機嫌を「忖度(そんたく)」する、奇妙な空気が支配している。中島岳志(北海道大学)はこれをミシェル・フーコーが近代的支配の象徴とした、監獄システム「パノプティコン」(「一望監視装置」)に似ていると指摘する。そこでは「監視している側の姿が見えないことがポイントだ。囚人たちは、いつ自分たちが監視されているかがわからないため、常に権力のまなざしに怯え、従順な規律化が進む。権力の姿が見えないほど、権力に恐怖心を持つ者の従属化が進むのである。…小沢の政治理念をみんなが忖度し、従順な犬に成り果てる社会は、まさに監獄である」(「小沢の考えを忖度するな!」『週刊金曜日』2009年10月30日号コラム「風速計」)と。鋭い指摘である。

それとともに、ドイツの社会学者ロベルト・ミヘルスが20世紀初頭、『現代民主主義における政党の社会学』(森博・樋口晟子訳、木鐸社)で指摘した「寡頭制の鉄則」が、21世紀の日本でも見事に貫徹しているとはいえまいか。ミヘルスによれば、あらゆる組織は規模が拡大すれば必ず少数の指導による支配につながると喝破し、一般成員は少数の指導者に運営を任せ、それに依存するようになる。そして、少数の指導者は強大な権限をもち、一般成員を支配する。指導者は自らを批判するものを排除しようとする。その際、指導者は自らが一般成員によって選ばれていることを根拠に、自らが民主制に則っていると主張し、批判する者を「反民主的」とラベリングする。さらに、一般成員からの批判に対して、指導者は辞意を表明して組織崩壊を暗示させることで批判を抑え、地位を強化していく…。小沢的メンタリティ、パフォーマンス、行動様式は、ミヘルスのいう政党寡頭制的構造をつくり出し、それに中島のいうフーコー的世界を加味したような奇妙な状況をもたらしているように見える。

鳩山政権の現状は非常に危ない。所信表明演説については評価したが、実際の政策実現や予算編成作業などから見えてくるのは、「政治主導」の迷走である。あまりに焦りすぎている。そして唐突、強引である。日本郵政の新社長に、15年前、小沢一郎とともに、「国民福祉税7%」を突如打ち出し、細川内閣瓦解の口火を切ったことでも知られる、斉藤次郎(元大蔵事務次官)が起用されたことも、その一例である。これは、「脱官僚依存」や「天下り」「わたり」批判の方針との整合性が問われるだけではない。取締役人事を含めて、安倍晋三がやった「お友だち」人事の二の舞にならないか、危惧される。

鳩山首相にいいたい。「マニフェスト」に基づき日本の政治や行政の仕組みを変えていくというならば、その「マニフェスト」を出した民主党の党運営それ自体についても、党代表としてのリーダーシップを発揮して、透明度を高めていくべきだろう。その上で「政治主導」を仕切り直すことである。

(文中敬称略)

 

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