大震災の現場を行く(4)――南三陸、気仙沼、釜石等:被災地の自衛隊 2011年5月30日

回は、東北被災地に滞在中に直接見聞きした自衛隊の活動について書こう。福島県郡山市の避難所「ビッグパレットふくしま」において、第1師団第1後方支援連隊(東京都練馬区)が支援活動を行っていたことはすでに書いた

同じ福島の南相馬市では、勇壮な相馬野馬追祭場を訪れたあと、市役所に向かい、災害対策本部の会議を途中まで傍聴させてもらっ た。会議を仕切る桜井勝延市長は、米『タイム』誌が選んだ「世界で最も影響力ある100人」に入った方である。その日の重点項目や関係機関からの伝達事項などをテキパキと処理していた。本部のホワイトボードには、4月27日現在で、死者512人、行方不明者962人、倒壊家屋1800戸とある(なお、5月28日現在で死者540人、行方不明者約220人となった〔『朝日新聞』5月29日付〕)。会議には、自衛隊の連絡将校3人も参加していた。

災害対策本部によれば、この日の南相馬市管内の自衛隊の活動は次のようなものだった。まず、活動する人員は総計1731人。主力は第1空挺団(千葉県習志野市)の1200人である。次に多いのは、第12旅団(群馬県相馬原)の隷下部隊で、計449人。内訳は、第13普通科連隊(長野県松本市)第1、2中隊の計161人、第30普通科連隊(新潟県新発田市)第2、3中隊、本部管理中隊の計131人、第12特科連隊(栃木県宇都宮市)第1、2中隊の95人、第12対戦車中隊(同)21人、第12高射特科中隊(同)41人、である。他に、第9施設群(福岡県小郡市)の82人が参加していた。なお、自衛隊とともに、南相馬警察署部隊300人が捜索に参加していた(主に市内小高区)。

自衛隊の任務と地域割りは、13普連と12特科など、30普連の本管中隊を除く部隊はすべて、第13普通科連隊長の指揮下に入り、同市鹿島区と原町区の行方不明者捜索にあたっていた。30普連本管中隊の26人だけは、原発20キロ圏内の「残留住民の輸送」にあたり、第9施設群は原発20~30キロ圏内で行方不明者捜索を行っていた。

この地域で最も多く見かけたのは、第1空挺団の車両と隊員だった。1164人が原発20~30キロ圏内で、行方不明者捜索活動を展開 し、残りは「避難所訪問・確認」、「巡回診療の誘導」を担当とい うことである。私が直接見たのは、原町区大身から赤沼にかけての地域である。レンジャー徽章(過酷なレンジャー課程の修了者に授与)をもつ精強な空挺隊員が、15人ほどの単位で捜索活動に従事していた。「敵」の後方に奇襲降下して破壊活動を展開したりする、戦闘職種のうちでも最も攻撃的・戦闘的な部隊も、他の職種の部隊と同様、不明者捜索という手作業の、地味な活動を淡々と行っていた。
   相馬市松川浦(潟湖)の大橋付近では、第17普通科連隊(山口県山口市)の部隊が倒壊した家屋の撤去をしていた

宮城県の石巻市内では、私が訪れたとき、第44普通科連隊(福島市)が行方不明者捜索を行っていた。ヘルメットの周章(白い線)2本の中隊長が、普通科中隊旗とともにポイントに立ち中隊単位でローラー作戦を展開していた。広大な地域を満遍なく捜索するには人力が必要となるが、自衛隊の場合、部隊編制を基礎とするので、それが可能になるように思われる。

南三陸町に入ると、主として第4特科連隊(福岡県久留米市)と第8特科連隊(熊本県熊本市)、第8施設大隊(鹿児島県薩摩川内市)が活動していた。津波で壊滅した三陸鉄道南リアス線。途中の駅も無残な姿になっていた。トンネル付近では、行方不明者捜索が行われていた。手作業で、土砂の表面付近を目視で探しているが、奥に埋まった遺体を見つけるのは難しいだろう。

港に近い道路に、第4通信大隊(福岡県春日市)の衛星単一通信可搬局装置(JMRC-C4)搭載の高機動車と、航法援助装置(JMRM-A2)を積んだ73式トラックが停車しているのを見つけた。前者はXバンド(マイクロ波の帯域8-12ギガヘルツ)で、衛星中継で音声やデータ通信を行う。広範囲に展開した部隊間の連絡の移動拠点と見られる。後者は、航空機の航法援助に使用する移動用の無指向性無線標識(NDB)。南三陸町の沖合ではヘリが行方不明者捜索をやっており、その飛行に対する航法支援を担当していたのだろう。
   自衛隊は、(1)戦闘職種、(2)戦闘支援職種(施設、通信など)、(3)後方支援職種(補給、衛生・医療など)からなる。「戦闘支援職種」にあたるその通信部隊は、今回の大震災のように、被災地域が沿岸の広大な地域にまたがり、かつ航空機を多数使用する場面では力を発揮した。

 

「後方支援職種」には、給食から給水、入浴まで、さまざまな活動がある。入浴支援は阪神・淡路大震災でも注目されたが、今回の震災でも、各地の避難所でこれが大規模に実施された。私が見たのは、冒頭の郡山の避難所と、気仙沼市本吉町の避難所である。後者では、第4後方支援連隊(福岡県春日市)が、天幕と野外入浴セット2型を用いて入浴支援を行っていた。入口に「対馬 やまねこの湯」という暖簾が掲げられ、その時間は「男湯」の看板も出ていた。近くにいた三等陸曹に聞くと、天然記念物のツシマヤマネコをモデルにしたもので、1日平均500人の入浴支援を行っているという。
   テントのなかは、入口近くに脱衣所があり、その奥に洗い場とブルーの簡易湯船がある。芳香性の強い入浴剤のにおいが立ち込めていた。金属製の洗面器、シャンプーやリンスなど、各種入浴製品も揃っていた。細かい配慮が伺われる。

ところで、陸上自衛隊の施設科部隊が所有する装備は、震災では一際役に立つ。例えば、油圧ショベル。施設科部隊に装備され、「掩体〔敵弾から味方の射手を守るための土嚢などの設備〕や掩壕等の掘削および土砂の積込作業等に使用される器材」(『自衛隊装備年鑑2010-2011』朝雲新聞社)として使われる。このショベルが国道をゆっくり走るため、渋滞が起きる。それを自衛隊員が交通整理していた。阪神・淡路大震災後の法律改正(災害対策基本法76条の2)で、災害時における交通規制等については、警察官がその場にいない場合に限り、自衛官がこれを行うことができるようにされた。

各地で装輪式のバケットローダが活躍していた。土砂の積み込みや掘削、排土、整地などに使用される最も一般的な土木重機と言えよう。岩手県の釜石市内では、第21普通科連隊(秋田県秋田市)が、除雪車(マルチブレード式)まで投入して、瓦礫を撤去していた。
   施設科部隊のこれら工事器材は、地雷敷設や地雷源啓開などの軍事目的で装備されたもので、当初はその「転用」から始まり、次第に災害派遣任務に適合的な装備へという視点も入ってきたように思われる。

自衛隊の部隊は「自己完結性」を売りにしてきた。大部隊の展開を円滑にするためにも、活動拠点の確保は重要である。国道に近く、比較的大きめのスペースのあるところが拠点として選択される。私が目撃した一番大きな部隊拠点は、釜石市の平田総合運動公園だった。ここには、第7師団の第7後方支援連隊(北海道千歳市)の部隊拠点が置かれていた。野営用天幕(6人用)が60以上あった。車両も40は下らない。第7師団は、北海道の東千歳に司令部を置く、日本でただ一つの機甲師団である。戦車を中心に、普通科連隊もすべて自動車化されている。その後方支援連隊なので、車両の数がひときわ多い。釜石周辺では、この部隊の車両に頻繁に出会ったので、この部隊拠点に集結している車両と加えると、車両の多さが推測できるだろう。

自衛隊の装備構成は、火器・弾薬、車両、施設器材、航空機、通信・電子器材、需品・化学・衛生器材の6つである。災害派遣では武器の携行が禁止されているから、火器・弾薬を除いた残りの装備が、災害派遣の目的に適合する限りで使用される。そうしたなか、前述のように、戦闘職種の災害派遣割当部隊にも「人命救助システム」Ⅰ型やⅡ型が備えられるようになった。倒壊家屋にいる要救助者を捜索し、救助するのに有効なエアジャッキ、エンジンカッター、チェーンソーなどは分隊用の基礎ユニットであり、探索用音響探知機やエンジン式削岩機、探索用ファイバースコープなど、東京消防庁ハイパーレスキューが常備するような高度救助器材も、小・中隊単位で運用されている。「人命救助システム」というネーミングを含め、これは自衛隊の軍用装備の「転用」ではなく、まさに人命救助のための「専用」の装備である。「人命救助システム」は、自衛隊装備思想における「パラダイム転換」と言えるかもしれない。

この2カ月間、自衛隊はどのような成果を挙げたか。5月12日現在の数字で、人命救助が累計で1万4937人、遺体収容が8306人、給食支援343万食、給水支援2万7084トン、入浴支援54万5773人、道路啓開319キロ、衛生支援1万6242人となる(『朝雲』5月19日付など)。東日本大震災でこれだけの活動を行ったことは、率直に評価されるべきだろう。

「国を守る」ことを主たる任務とする「軍」が、「人命救助」という形で個々の国民を守る任務を際立たせることは、ある種のパラドックスを内包することになる。そもそも「軍」の本質的属性は「国家」を守ることにあり、個々の国民を守ることではない。憲法9条との関係で、内閣法制局が1954年に「自衛力合憲論」(軍隊や「戦力」は違憲)という解釈を打ち出してから、すでに半世紀が経過した。この「自衛隊は軍隊ではない」という建前は、今日もなお維持されている。「軍」として実態を具備し、アフリカ東部のジブチに初の「海外基地」(『読売新聞』5月28日付夕刊)までもつに至った自衛隊。大震災によってその存続をかけた全力出動を行った結果、国内外の評価を大いに高めることになった。同時に、今後、部内の自己評価にも影響を与えていくことは疑いない。その時、「軍」としてのありようを強化していくのか、それとも国民に感謝される災害派遣の能力をのばしていくのか。21世紀型軍隊の「多機能化」という問題にとどまらない、より本質的な議論が必要になってくるように思われる。

なお、詳しくは、拙稿「史上最大の災害派遣――自衛隊はどう変わるか」『世界』(岩波書店)2011年7月号(6月8日発売予定)を参照されたい。

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