雑談(95)今時の学生について(1)――シルクロード一人旅        2013年2月11日

外ともに大きな事件が続くが、一般入試が行われる、大学教員として最も多忙な時期に入ったので、「雑談」シリーズをアップする。今回は、「今時(いまどき)の学生」論のその1、である。

 大学で教えるようになって31年。たくさんの学生たちと接してきた。1月末、山籠もりして、3つの大講義の計1067人の試験答案を採点した。思えば、2004年から前期と後期(春学期と秋学期)、毎回この人数の採点をやってきた。延べ人数にすると、この31年間に私が関わった学生たちは3万5000人近くになる。あと10年。約2万人分の答案をつける。視力が落ちてきた還暦近い人間としては、「意に反しない苦役」ではある。

学部は、4年がワンクールである。1年ゼミで4月に出会った、高校生の延長のような学生たちが、4年後の3月、卒業式前に会うと、見違えるほど大人びている。4年は本当に短いようで、長いようで、短い…。私たち教員はどんなに年齢を重ねても、常に18歳から21、22歳の旬の若者たちを相手にしているわけである。

私が最初に教えた1年生は、もう50歳。東京オリンピック(1964年)の前後に生まれた人たちだ。その頃の学生と、今の学生がどう違うのか。一言で述べるのはむずかしい。それでも、「変わったな」と感じることが、最近しばしばある。

 何が変わったのか。いろいろとあるのだが、執着力、批判力、冒険力が落ちてきたのかな、と思う。昔は、試験の答案でも、完全に山を外しているのに、自分の議論にこだわって私にかみついてくる猛者が何人もいた。今は、要領のよい答案が圧倒的だ。あっさり、きちんと、はみ出さず、というのが特徴だ。ゼミもそうだ。新ゼミ生採用の際のゼミ見学でも、その昔は、「先輩と議論したい」と、ずっと教室に残って帰ろうとしない2年生が何人もいた。いまは少しだけ見て、サッと出ていく。サッパリしている。しかも、ゼミ生に後で聞いたところ、ゼミ見学に入ってくるなり、先輩の就職先ばかり聞いて帰っていった学生もいたそうだ。わがゼミから法曹界、マスコミ、官公庁等々、多様な分野に進出しているが、それは、このゼミで、チャレンジ精神いっぱいに活動し、努力したことの結果である。そのあたりの本末転倒が、ここ数年の学生たちに特に目立つ。

背景には、近年、親の雇用が不安定になり、子どもに安定した就職口を世話することが大学の任務のようになってしまっている現実がある。「水島ゼミがそれでどうする」と言われないよう、これからも、「早稲田大学法学部に沈殿せる、こだわりの人材の発見と育成に努めたい」(早大着任時の私の挨拶文〔法学部報『テーミス』1996年4月〕より)。

批判力が落ちている点については、「雑談(96)今時の学生について(2)――大学に生徒会」で詳しく書くことにしたい。

 冒険心もなくなってきたことを、学生相手にトラベルの仕事をやっている方から聞いた。かつてはオリジナルな旅行計画をもって相談にくる。「イラクに行きたい」という学生を接客して、やめるように説得するのに苦労したことも。だが、ここ数年、「ヨーロッパに行きたいが、どこへ行ったらいいでしょうか」という類の相談が増えているという。親に金をもらい、行き先は人任せ。10人接客して3、4人はそういうタイプだというから驚く。

昨年、たまたま水島ゼミの15期生の一人が、今までとはちょっと変わった休学の仕方をした。「遊学」に近い。しかし、私はそれを許した。

 本人は10カ月バイトして旅行資金を確保した。親の援助はない。あえて飛行機は使わずに、陸路(一部は海路)で24000キロ、10(+1 )カ国47都市をまわった。知的好奇心が人一倍強い学生だが、「興味があることしか集中できない癖があった」と本人はいう。

 その彼が「遊学」を終えてゼミに復帰して、少しずつ変わりだした。「チームで達成することが大切。自分の『興味』をまわりに伝えて『共感』してもらう。仲間とともに共感で社会を『共振』させたいです」と語るようになった。

 私は彼に、半年の体験をレポートにするように言った。すると彼は、ナゴルノ・カラバフ紛争(アルメニアとアゼルバイジャンによる同自治州をめぐる争い)について書きたいという。そのレポートの前に、彼の旅全体について、コンパクトな報告を書いてもらった。

ナゴルノ・カラバフについてのレポートは、後日、地域紛争の問題で紹介する。




シルクロード一人旅
――西安からローマまで――

伊藤綱貴(水島ゼミ15期)

大学を休学し、「シルクロード」を一人で旅した。

旅の詳細に入る前に、まずは私の旅の目的と狙いについて述べておきたい。それは3つある。第1にこれは世界一周ではないこと。旅をするのはユーラシア大陸のみ、西安からローマまで陸路と海路のみで走破する。基本的に飛行機は使わない。2点目は資料集め。必ず各国で新聞を最低一部ずつ、また現地語で日本語の教科書や日本について書いてある本があればそれを購入し、そして気に入った歴史グッズがあればそれも購入していくというもの。そして3点目は、出来るだけ日本人を避けるというものだ。もちろん、旅先での偶然の出会いは歓迎するが、要するにこれは日本人宿や日本のガイドブックに乗っているホテルには行かないというだけのことで、そもそも今回行った場所が日本人の旅行者が少ない場所だったので特にその配慮も必要はなかった。また、観光の時間がない場合の優先順位として軍事博物館や城砦などの遺跡は優先的に回るようにした。

総移動距離約24000km、所要日数約4ヶ月。訪れた国は計10(+1)ヶ国、である。

巡った順に、中華人民共和国(新疆ウイグル自治区)→カザフスタン共和国→ウズベキスタン共和国→トゥルクメニスタン→イランイスラム共和国→アルメニア共和国→(ナゴルノ・カラバフ自称共和国)→グルジア→トルコ共和国→ギリシャ共和国→イタリア共和国となる。カラバフを正式に国として数えるか否かの判断はここでは避ける。最も滞在日数の長いトルコには5週間(うちイスタンブールには2週間)、最も短いグルジアには5日間であった。

最初に訪れた国は中国なのだが、実はその前に行くべき所があった。奈良の正倉院である。一般的にシルクロードといえば唐とローマ、そしてそれを繋ぐ中央アジアの騎馬遊牧民族というイメージが強いが、日本もシルクロードとは無縁ではない。唐を通じての交流により正倉院にはペルシャのガラスの器が納められている。こうしてシルクロードの最東端の地を踏みしめ、漸く西の最果てへと旅立つ準備が整った。

北京

西安からローマまで、というのが今回の旅の趣旨ではあるのだが、まずは北京に降り立った。北京で一番面白かったのは故宮などの観光施設ではなく、ただの本屋だった。私は外国へ行くと必ず大きい本屋を探す。そして日本以外の国ではたいてい「軍事」のコーナーがそれなりのスペースを占めているので、それを見に行く。案の定すぐに見つかった。1階の割と手前の方で、中々の好待遇である。見れば当然、アメリカに関するものが一番多いのだが、日本の"軍事力"に関する書籍も多く、日本よりも中国の方が自衛隊の装備や戦力に関する情報を集めやすいのではないかと思うほどだった。また児童書のコーナーへ移ると、そこは日本と同じくかわいらしい装丁の絵本や辞典が並ぶのだが、「植物」や「恐竜」といった百科事典の中に当然のように「兵器」というのがある。

西安

早くも月の香りがし始めた。西安では兵馬俑などの観光施設は一通り訪ねたのだが、特に印象に残っているのは清真大寺だった。ここは一見すると仏教寺院なのだが、中身はモスクで女性もみんな髪を覆っている。中国では当然仏教が主流だが、イスラム教徒も存在する。回教と呼ばれ、唐代のころイスラム商人を通して入ってきた。つまり西安はイスラム教の陸の際東端ともいえる。

敦煌

敦煌では面白い土産ができた。青銅器の"何か"である。敦煌の有名どころはほとんど観光地化されていて、あまり行く価値はないのだが、近年発見されたばかりの遺跡はまだ手付かずで、人もあまりいない。そこで実際に烽火台跡に行ってみたところ、拾ったのがこれである。詳しい用途は分からない。

ウイグル自治区

ウイグル自治区に入ると、とたんに人々の顔つきが変わる。ここは回教の土地であり、文字の流れる方向も反転する。ウイグル人は普段はウイグル語を使うが、公教育の場では中国語を教えられる。書店に行けばウイグル語と中国語の両方を目にすることができる。異民族支配の基本はやはり文字を奪うことから始まる。

またウイグル自治区を訪れようと思う方は、中国がこの先の土地で核実験を何度も行っているという事実を知っていただきたい。ウイグル人は漢族に比べ圧倒的に癌の発症率が高いということも。つまり、被ばくの可能性があるということだ。核の恐怖は福島だけではない。わずか1週間とはいえ、私はそのリスクを理解したうえで行ったが、もしこれを読んで核の事実を知らずに訪れる方がいたら責任を取りきれないので、ここではっきりと記しておく。

カザフスタン

2泊3日の列車移動の末、草原の国カザフスタンヘ。ここから先はしばらく旧ソ連圏を行くことになる。崩壊から20年が経つが、いまだにロシアの影響力は大きく、共通言語は英語でなくロシア語である。しかし国によってやはり事情が違うらしく、ビザを比べてみるとカザフスタンはキリル文字(ロシア式)、ウズベキスタンはラテン文字(アルファベット)、トゥルクメニスタンは新ラテン文字(トルコ式)とそれぞれ違う文字で表記されていて面白い。

さて、そして当のカザフスタンであるが、その民族構成はカザフ人が約半数ほどでありロシア人やその他の少数民族もかなり多い。私が滞在中ずっとお世話になったのは”タタール人”の家族だった。全員が高身長かつ金髪であり、私も最初はロシア人かと思ったが実際はトゥルク系でありなんとムスリムでもある(当然のように豚肉を食べてはいたが)。タタール人は主にロシアのタタールスタン共和国に住んでおり、彼女たちもそこから移住してきたらしい。気になったのは毎日次々と紹介される親族や友人もみなタタール人であったことだ。少数民族である分、非常に小さくて強力なコミュニティーに属しているのだろうか。

ウズベキスタン

ウズベキスタンでは、まず首都であるタシュケントへ向かう。ここではまず始めに、次の目的地であるトゥルクメニスタンのビザを取得しなければならなかったためだ(カザフスタンとウズベキスタンのビザは事前に日本で取得していた)。当然、日本とトゥルクメニスタンの間には国交があるのだが、日本にトゥルクメニスタンの在外公館はない。

まずはキルギスとの国境付近であるフェルガナ盆地のリシタンという町を訪ねる。ここにある日本語学校を訪ねるためだ。そしてそのままリシタンに一泊し、首都タシュケントに戻る。ここでビザの申請が正常に行われていることを確認し(トゥルクメニスタン大使館はなかなか仕事をしないことで有名)、再びウズベキスタン観光へ。ヒヴァ、ブハラ、サマルカンドといずれもシルクロード交易で栄えた砂漠の都市国家である。サマルカンドは多少観光地化しているものの、いずれの町も町そのものが生きた遺跡のようなものである。基本的な町の配置は1000年ほど変わらず、城壁もそのまま残り、人々は築何百年といわれるような建物で生活する。湿気が高く木造建築の日本からすればにわかには信じられないが、石の文化、乾燥地帯で暮らす人々にとってはさほど不思議なことでもないのかもしれない。これは何もウズベキスタンに限った話ではない。シルクロードを旅していると、何千年も前の建築物がたいした保存活動もされていないのに建築当初の姿を保っているのを目にする。破壊された遺跡も何度も目にしてきたが、その多くは人の手によって破壊されたものであった。

トゥルクメニスタン

このトゥルクメニスタンという国をご存知の方がどれだけいるだろうか。最近は資源外交で少し存在感を増してきてはいるが、前述の通り日本に大使館はなく、恐らく日本で最も知名度の低い国の一つではないだろうか。ちなみに、国境の役人に聞いてみたところ(2012年5月の時点で)、私はトゥルクメニスタンを訪れた21人目の日本人だそうだ。そんな日本にあまりなじみのないトゥルクメニスタンではあるが、どんな国であるかは非常にイメージしやすい。一言でいえば「裕福な北朝鮮」である。旧ソ連圏の独裁国家ではあるものの、資源が豊富で国民の生活水準は高い。街中には豪華な公共施設が多く存在する「地上の楽園」。大統領を批判したものは行方不明になるそうだが。

ガイド(=見張り)と合流したあと、ようやく入国。ガイドがいるのは私が贅沢したいからではなくそれがマストだからだ。最近は緩くなってきてはいるものの、やはりそこは独裁国家。普通に旅行する場合は24時間監視がつく。

トゥルクメニスタンの観光ポイントはメルヴ遺跡と首都アシュガバート。あとは名産品の馬だろうか。遺跡ももちろん良かったが、もっとも私の興味を引いたのは、「魂の書」という本。偉大なる終身名誉大統領が書いたというありがたいもので、曰く、これを読めば天国にいけるとか。またなぜか運転免許の取得の必須科目になっていたりする。日本語版を探してはみたが当然存在はしなかった。ただし英語版はインターネットで読めるそうなので、天国に行きたい方は読んでみてはいかがでしょうか。

イラン

トゥルクメニスタンから再び陸路で国境を越え、聖地マシャドへ。ここからはさらに本格的なイスラムの世界へと入っていくことになる。このイスラムの世界というのも今回の旅の目的の一つだ。日本とはすべてが対照的で、遠すぎる地域のため、日本で得る情報やイメージというのはかなり歪められているように感じていた。そこでまだ若い20代のうちに実際にその世界を見て、触れて、浸かることで偏見や誤解というものを払拭したかったのだ。

数日テヘランに滞在した後は、ゾロアスター教の地、ヤズドへ。このヤズドへの移動中、印象的な出来事があったので記しておく。突然列車が駅でもなんでもないところに停車したのだ。乗客、それも男性のみが次々と降りて行くので理由を聞いてみると”Namaz”と答えた。つまり祈りのための停車であり、そのための簡易モスクのようなものが線路上にあるということだ。

ヤズドではゾロアスター教の聖火や、かつて鳥葬が行われていた場所を見学した。次に訪れたのはエスファハーンである。ここでも何百年も前に建てられた建物がまだ生きている。シラーズはペルセポリスで有名だ。私自身もそれを見るためにシラーズに滞在した。シラーズとペルセポリスは少し離れているので、旅行者同士でタクシーをシェアして行ったのだが、このときの運転手がなんとゾロアスター教徒であった。話を聞いてみると、やはり異教徒が住むには色々と辛いことが多いようで、結婚はせずにずっと同棲をしているとのこと。そして子供は持てないそうだ。長くいるとよい所だけでなく悪いところも見えてくるのは人も国も同じなのかもしれない。そして翌日、あるモスクを目指している途中、たまたま神学校に迷い込んでしまい、そして思いがけずそこで半日以上過ごした。

シラーズの後は再びテヘランに戻り、ここでアゼルバイジャンのビザを取ろうとしたのだが結局取得できなかった。

そして訪れたのが「Tehran peace museum」である。ここはイラン・イラク戦争の反省から、主に毒ガス兵器に関する展示がされている平和祈念館で、日本の平和博物館とも交流がある。驚いたのはその中の一つに「大野島毒ガス資料館」があったことだ。大野島には去年ちょうどゼミの合宿で訪れており、その時見たイラン・イラク戦争の展示はまさにこの平和博物館から送られたものだそうだ。日本から何千キロも離れた場所で出会う偶然に、思わず” What a small world!”という言葉が。

またテヘランでは「旧アメリカ大使館」にも訪れた、壁には反米・反ユダヤの落書きアートが続き、まだ当時の混乱がうかがえる。

その後はそこで知り合った青年と共にラシュトやガズウィーンといったイランの観光地を回り、今度はアルメニア共和国へ。

その国境越えの時に印象的な出来事があった。イランではすべての女性にスカーフの着用が義務付けられており、これは旅行者であっても変わらない。テヘラン滞在中、少し用事があったので日本大使館を訪れたのだが、なんとそこで働いているイランの女子大生はスカーフを付けていなかった。日本国大使館内部は日本国の領土であり、日本の法律が適用されるため、髪を隠す必要がないからだ。そしてアルメニアの国境越えの際も国境を越えた途端みんなスカーフを取り始めた。おまけに若者が急に話しかけてきて「おまえは神を信じるか?」なんて聞いてくる。イランではこの手の宗教的な質問が来ると、地雷を踏まぬよう、フワリフワリと核心を避けて答えるようにしていたのだが、こいつはなんと「おれは信じないぜ。」と自慢げに語り出す。イランというと宗教国家としてのイメージが強く、全員が狂信者であるようなイメージが日本ではあると思うが、若者にとってはそうではないみたいだ。もっとも、これは後にトルコに訪れた際にも感じたことだが、要するに若者というのは上からの抑圧に対し反発したがるものらしい。

グルジア

グルジアの目的は2つ。1つはスターリン博物館や勲章・軍服グッズなど、旧ソ連を感じるため。そしてもう1つはメスティアを訪れ「塔の家」を見学すること。この地域では身内に何かあった場合、全力で相手の一族に復習するという風習があり、「塔の家」とはその戦いに備えるための「小さな城」。一階で家畜を飼い長期戦に備え、最上階には攻撃のための窓がある。5日間という限られた時間しかない上にメスティアはかなり交通の便が悪いため、駆け足での観光になってしまった。

トルコ

トルコには結局5週間も滞在することとなった。語るに尽きない5週間ではあったが、(紙幅に限りもあるので)そういったエピソードはひとまず置いておいて、まずは訪問した都市を述べていく。はじめに訪れたのはトラブゾンというグルジアとの国境都市だ。その後はエルズルム、カルス、ワン、ディヤルバクル、ウルファ、アダナ、ギョメレ、コンヤ、イズミル、ガリポリ、そしてイスタンブールを訪れた。

カルスのアニ遺跡は普通の観光地でありながら、アルメニアとの停戦ラインがありロシア軍が現在も監視中だ。うっかり一線を越えると狙撃される。

地中海地域以外のトルコの有名な観光地は一通り回ったが、その多くは日本でも有名なのでここであえて紹介はしないが、一か所だけぜひお勧めしたい場所がある。チャナッカレ(第一次世界大戦のガリポリの戦いで有名。トルコの国父ケマルパシャの覇道の始まりの地でもある)にあるここの戦争博物館だ。戦争博物館としてのバランスが個人的に理想的だったのだ。残念な国々にありがちな自国の輝かしい歴史をただ賞賛するでもなく、戦争反対の姿勢は崩さないが悲惨すぎず、何より敵味方の戦死者を平等に痛んでいる点が良かった。あまり一般的なトルコの観光コースには含まれない場所だが、時間的余裕があれば是非お勧めしたい。一部には音声ガイドもあるので安心だ。

ギリシャ・イタリア

2週間滞在したイスタンブールを離れ、ギリシャへ。ギリシャを横断し、アドリア海を船で渡ってイタリアの港町バーリに着く。もうここまで来ればローマは目と鼻の先だ。

そしてローマ。こうして洋の東西、かつての世界の中心を結ぶ交易路の旅は終わった。

むすびにかえて

最初は「どこまで自分の力で行けるか」が試されるかと思っていた。しかし最後には「どこまで他人の協力を得られるか」が一番大切なのだと気付いた。

シルクロードの住人はみな旅人を迎えるのが上手かった。近年国際化が叫ばれる中、留学やインターンなどで海外へ出ていくことにばかり気を取られている人も多い。しかしそれだけでなく、海外から多くの人を迎え入れることもまた、同様に国際化であると思う。それが海外へ出てみて感じたことだった。

コミュニケーションの方法も一つではない。旅をしていれば当然英語を使う機会は多かったが、そもそも英語が通じないことも多く、話せなくても問題はないと思う。いわゆる旧ソ連圏と呼ばれる国々の国際共通言語は今でもロシア語で、日常的にはロシア語しか話さない人も多い。多くの国では(主都などの)都会では英語は通じるが、田舎に行けばホテルの従業員でもたいていは話せない。私の場合は、基本的なあいさつや数字、そして「これいくら?」などの現地語を少し学んでいくようにしていた。そんな状況の中、身振り手振り等のジェスチャーに加え筆談やそのカタコトの現地語を使ってなんとかしていくのだが、やはりどうしても言葉の壁に阻まれる場面が出てくる。

ウズベキスタンでの話である。高熱が出て、下痢が止まらなくなった。とりあえず病院までは行き、すぐに体調が悪いことは理解してもらえたが、そこから自分の病状を伝えるのに苦労した。必死に腹を指して「痛い」と訴えたが、医者はまだ何か聞いてくる。最初は相手の無理解に腹が立ったが、冷静になれば腹を指しているだけでは”何が”悪いのか伝わるはずもない。自分がつらいあまり、相手の立場になって考えていなかった。そこで今度は現地語で「水」と言ってみたところ、ここでようやく理解してもらえた。

自分が一生懸命な時ほど、伝わらない原因を相手に求めてしまう。「伝わる」言葉や方法を見つける責任は伝える側にあるのだと思う。語学力とコミュニケーション能力は同じものではない。

語学に関して言うと「マストではないが、あって悪いことは何一つない」ということに尽きると思う。現地語で値段交渉すれば有利になるし、英語ができなければ現地の学生と議論することも出来ない。この話については後日「ナゴルノ・カラバフ」についてのレポートのなかで改めて触れることにしたい。

この旅の最中に撮った動画や写真を編集してYouTubeにアップロードしています。もしよろしければご覧ください。

http://www.youtube.com/watch?v=a9Xy7h2NsXQ&feature=youtu.be

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