「テロとの戦い」の陥穽――「暴力の連鎖を超えて」再び            2015年2月9日

「暴力の連鎖を超えて」

が重く、息苦しい日々が続く。2月1日、「イスラム国」(IS)に人質になっていた湯川遥菜さんに続いて、ジャーナリストの後藤健二さんも残虐な方法によって殺害され、映像がネットに流れた。その3日後、今度はヨルダンの空軍中尉の殺害映像がネットに流れた。削除される前の22分30秒を最後までみた。体が震えた。仕事柄、残虐な映像や写真はこれまでも数多く見てきたが、これは質が違う。その残虐性もさることながら、相手の反応を計算しつつ、どこかゲーム感覚で楽しんでいるような空気が全編を貫いている。檻に入れて生きたまま焼き殺し、最後はブルドーザーで檻を破壊して、焼け跡にわずかに残る黒こげの指のアップで終わる。そしてエンドロールのように、ヨルダン軍将校の自宅を、「グーグルアース」のズームインで映し出す。音楽とCGを巧みに使い、現実とフィクションを倒錯させ弄ぶ。この倫理観の欠如は、斬首映像とは違った意味で、底知れぬ恐怖感と絶望感を与える。

これを見ながら、「イスラム国」は、単なる狂信的イスラム原理主義の集団とは違うと思った。彼らは現代世界そのものである。というより、この25年間に世界中に広がった「グローバル格差社会」の深部と芯部で醸成されたさまざまな矛盾を体現したものではないか。とりわけ、正規の職がない、賃金が安い、いつ首を切られるかわからない、高額の学費を払っても3回試験に落ちれば受験資格を失う等々、社会に広がる不合理と不条理に対する怒りや苛立ちをどこに向けていいのかわからない若者たち。「イスラム国」はそういう人々を、SNSを駆使しながら巧みに吸収し、その恨み、妬み、嫉み、僻みなど、負の感情を憎悪に転化させ、富める者、富める国に対する敵意や反発を暴力に誘導していく。その意味で「イスラム国」は、現代世界、現代社会の矛盾の集中的表現であり、国民国家の枠を超えた、グローバルな暴力的「反体制運動」の側面をもっている。

手法も「現代」そのものである。その一例が、前述の空軍中尉の殺害映像である。まるで「暴力的(ビデオ)ゲーム」になれ親しんだ者が、楽しみながら制作しているかのようだ。「暴力的ゲーム」については「ポスタル」という殺人ゲームが知られており、近年では「コール・オブ・デューティー」シリーズという戦争ゲームが有名である。後者は、「一兵士」 の視点から見た戦場を楽しむもので、自らが米英の特殊部隊員になり、テロリストと闘うシナリオもあれば、反対に自らがテロリスト側になって、空港で無抵抗な市民を機関銃で虐殺するシーンもある。逃げ回る市民を次々と血祭りにあげるゲームに興ずる若者がたくさんいるのが現実である。「殺られる前に殺れ!」というコンセプトの「グランド・セフト・オート」はシリーズ累計で世界中でなんと1億5000万本も売れた。こういうゲームで遊んで育って、いま「イスラム国」にいる者も少なくないと思う。実際、「イスラム国」のプロパガンダには、上の「コール・オブ・デューティー」を意識したものが見られるという(指摘例1指摘例2)。もともと現実を記号によって模倣する「仮想現実」(ゲーム)のなかで形成・再生産されてきた描写が、現実の残虐行為のなかに再流入してきている可能性がある、とゲーム事情について詳しい城野一憲氏(「『暴力的ゲーム』の規制と表現の自由」[田島泰彦編著『表現の自由とメディア』日本評論社、2013年所収]の著者)は指摘する。「イスラム国」の残虐性の背後には、こうした現実世界の問題がさまざまに投影していることは見逃せない。

ゲーム感覚に加えて、現代社会の醜い部分を鏡のように投影しているのは、直言「戦争の『無人化』と『民営化』」でも書いたように、殺人・戦争手段の無機質性である。空軍中尉の焼殺映像には、中尉も操縦していたF-16がシリアの「イスラム国の拠点」に爆弾を投下する「ピンポイント爆撃」の映像(湾岸戦争以来おなじみの「空爆」シーン)が重ねられている。米国と「有志連合」が行う上空からの殺戮に対する「報復」という認識だろう。日本のメディアも2013年9月の「シリア空爆」という言葉を無批判に使っていた(直言「平和における『顔の見える関係』」)。

ブッシュ前政権は無人機で「テロリスト」を暗殺する「ターゲット・キリング(標的殺害)」を始めていた。1万キロ以上離れたところからの遠隔操縦の無人機で攻撃するため、「誤爆」も相次いだ。「テロとの戦い」といってそれを正当化してきた「豊かな国」のメディアとそれを肯定する市民への怒りを「栄養」にして、「イスラム国」は増殖してきた。

グアンタナモ基地

彼らに人質となった人々(後藤さんも含め)が着せられていたオレンジ色の服もそうだ。あれは「9.11」のあと、「テロとの戦い」の発動として、アルカイダやタリバンの構成員とされた人々をキューバのグアンタナモ米軍基地の収容施設に拘束した際に着せた「囚人服」と同じ色とデザインである。「敵性戦闘員」として国際法上の捕虜の扱いをせず、国内刑事手続上の被疑者の扱いもしないで、法的番外地で拷問も行った。「イスラム国」が米国人ジャーナリストにはじまり、後藤さんたちにもこの色の服を着せたのは、米国がやったのと同じことをやっているにすぎないというアピールともいえる。

やられたらやりかえす。報復と暴力の連鎖がここにある。安倍晋三首相の過度な強行姿勢には無理が出ていたが、1月の中東歴訪のなかでそれが一気に露呈してしまった。この問題については、すでに基本的な考え方を直言「地球儀を弄ぶ外交――安倍流『積極的平和主義』の破綻」で書いたが、安倍首相は、1月の中東歴訪とその際の一連のパフォーマンス(2億ドルの「人道支援」表明やイスラエル国旗の前での記者会見など)と、人質事件との関連について、国会での追及に一貫して否定を続けている(「直言」では、「首相の責任」という観点から論ずる予定である)。

ブックレット『暴力の連鎖を超えて』

その点で、とりわけ2月3日の参院予算委の答弁は耳を疑った。2人の日本人の拘束を昨年から政府が知りながら、2億ドル演説で危険が及ぶ認識がなかったのかと問われ、「テロを恐れるあまり脅かしに屈するような態度をとれば新たなリスクが発生してくる」「テロリストに過度な気配りをする必要は全くない。これは今後も不動の姿勢だ」と胸をはったからである。人質を解放させる努力など眼中にないという勢いだった(これは今後検証される必要がある)。

しかも、そうした問題について質問することが「ISILを批判してはならないような印象を受ける。それはまさにテロに屈することになる」と言い放ったのだ。さすがに野党理事が委員長席に詰め寄って、議事が一時ストップしたが(NHKの国会中継でこの間、音声が消された。かつては理事の声も聞こえたのに、いつの間に無言になったのか)。

さらに、後藤さんが殺害された映像がネットに出た2日の首相声明。そこに「罪を償わせる」という言葉があった。日本は「報復」に出るのかと欧米メディアにも驚きの反応が広がった。『日本経済新聞』3日付の縦見出しは「『その罪を償わせる』 首相声明、自ら加筆」である。「6時10分過ぎ、隣接する首相公邸から官邸に移った首相は、事務方が用意していた『首相声明』に自ら手を入れた。『テロリストたちを決して許さない』に続けて『その罪を償わせる』と書き加えた」と。まさに、こういう姿勢と言葉の一つひとつが、日本の国内外にいる日本人の安全をさらに危うくしているのである。

これには既視感がある。2001年の「9.11」当日、ブッシュ大統領(当時)は「戦争」と言い切り、直ちに「報復」を叫んだ。国際法は「軍事報復」(正確には武力復仇)を禁止しているにもかかわらず、である。10月2日、NATOは集団自衛権行使を発動し、「有志連合」諸国は10月7日からアフガニスタンへの「空爆」を開始した。その後の展開は周知のとおりであり、2003年3月にはイラク戦争まで突き進んでしまった。たくさんの米軍人が死に、たくさんのアフガンやイラクの民衆の命が奪われた。あそこで「テロとの戦争」ではなく、テロリストに対する国際刑事警察機構を軸にした対応をしていれば、まったく違った結果になっていただろう

「9.11」のすぐあとの直言「最悪の行為に最悪の対応」で私は、テロに対して、報復や武力行使とは異なる道を示した、ドイツの平和研究者E.-O.チェンピールの論文を紹介した。その要旨をさらにまとめると次のとおりである。

テロは第三世界の搾取に経済的原因をもつ。経済はグローバル化したが、政治はローカル化した。今、グローバル化が政治に跳ね返っている。テロの実行者たちは、非合理的な過激派ではない。手段の選択は実に合理的で、固有の目標は復仇(報復)である。テロでは内側から敵がくる。防衛の古典的理念は役立たない。「テロはその根源を除去することによってのみ阻止することができる」。具体的にどうすべきか。安全を生み出すのは装甲車や防空ミサイルではなく、〔富の〕再分配である。〔途上国への〕開発援助だけが安全を生み出しうるのだ。

実は、「9.11」の9日後という時点で、名著『ホモ・サケル』で知られるイタリアの政治哲学者ジョルジョ・アガンベンが、ドイツの『フランクフルター・アルゲマイネ』紙に注目すべき論稿を発表していた(Giorgio Agamben, Über Sicherheit und Terror, in:FAZ vom 20.9.2001, S.45)。そこでは、安全保障が、実はテロとの関係で密かな「共犯」関係にあることが喝破されている。

アガンベンはまず、安全保障とテロとが、互いに互いの行動を正当化し、正統化する単一の致命的システムを形成すると指摘する。また、現代の安全保障が実は全世界的な無秩序を招来する逆説的な状況にあること、安全保障が「例外状態」[緊急事態]に不断に依拠することにより社会の脱政治化をうみ、長期的にはこれが民主主義と相いれなくなると語る。そして、政治が緊急事態を作り出すために密かに動くことにも注意しなければならないと述べつつ、民主的な政治の任務は、憎悪やテロ、破壊が起きてからそれをコントロールしようとすることに限定されず、テロなどにつながる諸条件の発生を予防することであると結んでいる。

アガンベンの論稿は直接「9.11」について言及していないが、その指摘はいちいち鋭い。チェンピールの指摘とも重なり、武力行使を突出させる報復的やり方はテロには有効ではなく、かえってテロに「栄養」を与えることを明らかにしている。テロが起きるかもしれないという状況が生まれれば、権力はいままで持ち得なかったような権限を市民に対して行使できる(2月22日の東京マラソンがはじまりか)。軍事力強化や治安権限の強化は、テロに正当化の理由を与え、「テロリスト」はそうした国家の強行措置を「栄養」にしてさらなるテロを行う。まさに密かな「共犯関係」である。

こういう空気に乗せられないにはどうするか。日本では、2001年「9.11」の翌月、大江健三郎、坂本義和、井上ひさし、樋口陽一、加藤周一といった方々が集まり、そこに私を含めて40代の研究者が呼ばれて、「憲法再生フォーラム」がつくられた。その第1回の講演会のタイトルが「暴力の連鎖を超えて」だった(2001年11月20日)。「いま私たちができること」「ひとりひとりが『言葉』を紡ぐとき」として、「暴力の連鎖」を止めるために必要なことは何か、を問題提起している。この講演の内容をまとめたのが、『暴力の連鎖を超えて――同時テロ、報復戦争、私たち』(岩波ブックレット、2001年)である。

14年後の2015年。安倍政権にまかせておけば、「武力行使に積極的な平和主義」のもと、単なる後方支援は卒業して、「イスラム国」への直接対決のフロントに立つことになるだろう。安倍晋三氏をいつまでも「最高責任者」にしておいていいのか。「暴力の連鎖を超えて」再び、が求められている。

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