安倍首相の「責任」の意味を問う――人質殺害事件            2015年3月9日

安倍首相ポスター

激派組織「IS」による人質殺害事件をめぐり、2月第1週の国会(衆参予算委員会集中審議)では、安倍晋三首相の対応がほぼ連日のように追及された。焦点の一つは、1月の中東歴訪とその際の一連のパフォーマンス(2億ドルの「人道支援」表明やイスラエル国旗の前での記者会見など)と、人質事件との関連である。この問題についての私の基本的考え方は、直言「地球儀を弄ぶ外交――安倍流「積極的平和主義」の破綻」で書いたので繰り返さないが、それにしても安倍首相の対応は驚くべきものだった。

「国民の命、安全を守ることは政府の責任であり、その最高責任者は私だ」(2月2日参院予算委)といいながら、2人の命が救えなかったことについて直接謝罪することはなく、「テロに屈しない」という言葉を繰り返し使った。家族へのお悔やみの言葉が出たのは、2月12日の施政方針演説の冒頭が初めてだった。日頃「政治は結果責任だ」と他人に向かって厳しく断ずる安倍首相は、自らの「責任」の中身について誠実にこたえていない。

安倍首相演説シーン

すでに一度批判したが、2月3日の参院予算委の質疑には耳を疑った。2人の日本人の拘束を昨年から政府が知りながら、2億ドル演説で危険が及ぶ認識がなかったのかと問われて、「テロを恐れるあまり脅かしに屈するような態度をとれば新たなリスクが発生してくる」「テロリストに過度な気配りをする必要は全くない。これは今後も不動の姿勢だ」と言い切ったからである。「過度な気配り」って何?どこの国の政府も、国民を守る義務がある。こんなに簡単に、裏からの交渉や、根回しなどを放棄していいのか。この人は、テロリストだけでなく、どんな人にも気配りのできない人なのだ、とつくづく思った。そうして、この問題について質問する野党議員に対して、「ISILを批判してはならないような印象を受ける。それはまさにテロに屈することになる」と言い放ったのである。信じられないほどの発想の貧困さである。

「・・・もともと安倍首相は自分が批判されることを極端に嫌い、すぐに論点をずらし、相手の落ち度や弱点をあげつらってムキになって反論する癖がある。自分で『最高責任者』といってしまうわりには、『責任』の意味がわかっていない。国会で責任を追及されると、首相とは思えない乱暴な言葉でやりかえす。この答弁の仕方と内容のひどさ(『捏造』という言葉の多用を含め)は、憲政史上例がない」と書いたのは昨年の衆院解散の前だった(直言「『念のため解散』は解散権の濫用か」)。最近では、委員会での質疑の最中、質問者に対して野次を頻繁に飛ばしている。特に2月19日の衆院予算委員会では「日教組、日教組」という意味不明の野次を飛ばし、委員長に注意されている。これが、「最高責任者」なのか。

ここで注目したいのは、安倍首相の「責任」という言葉の使い方である。国会議員が本会議や委員会で首相を追及し、それに首相が答弁するのは、国民に対して答えるということである。いくら嫌いな政党・会派であっても、差別することは許されない。国民に代わって議員が質問しているのだから、首相は答える義務がある。黙りで時間を浪費し、「(野次が静かになったら)答えてやる」とばかり睨み付けて尊大な態度をとることなどあり得ない。「私の敵は“ISIL”の味方」という単純発想は、「9.11」後のブッシュ大統領の、「われわれの側につくか、テロリストの側につくか」と瓜二つである。こういう首相の態度に対して、議員はもっと怒るべきである。最近の野党議員は怒りが足りない。昔は質問者が怒り、理事が委員長席にかけより、質疑が止まったものだった。2月2日も一時質疑は止まったが、NHKの国会中継は、理事と委員長のやりとりのシーンの音声をカットしてしまった。追及される側に何とも「やさしい配慮」である。

さて、安倍首相が多用する「責任」という言葉について、憲法的にどう考えたらよいか。憲法学における「責任」の問題の第一人者は、関西大学の吉田栄司氏である。『憲法的責任追及制論Ⅰ、Ⅱ』(関西大学出版部、2010年)などの著書がある。旧知の彼にここに登場していただくことも考えたが、目下、副学長で校務多忙の身である。そこで、氏に続く若い世代の三上佳佑氏に、「直言」のための書き下ろし原稿を依頼した。三上氏には、「憲法学における『政治責任』概念―-フィリップ・セギュールの所論を素材として」(『早稲田法学会誌』64巻1号〔2013年〕)などの論文がある。以下、三上氏の原稿を掲載しよう。


「最高責任者」の語る「責任」とは何か
三上佳佑

イスラム「国」を名乗る勢力による日本人拘束事件は、人質が2名とも殺害されるという最悪の結末を迎えたが、日本政府による事件への対処は、「最高責任者」である首相の指揮の下で行われた。2月10日、政府対応を検証する「検証委員会」の初会合が行われたが、ここで一体何を検証するのか。私は何よりも、首相の口から頻繁に出てくる「責任」とは何かが厳密に問われなければならないと考える。私は首相の語る「責任」について違和感を禁じ得ない。饒舌に語る首相の姿には、「責任」という語よりは「権力」という語の方が似つかわしいのではないか。

首相の語る「責任」への違和感は、何よりも日常的な感覚から発する。「君がこの仕事の責任者だ」といわれた際の感覚は、人によって異なるだろう。しかし、多くの人にとって、重圧感、束縛感などが喚起されるはずである。もちろん、私も例外ではない。この重圧感、束縛感は、あまりにも感覚的なように見えて、実は「責任」概念の本質を衝いている。何故ならば、責任は、仕事の受任者に対する「桎梏(足かせ・手かせ)」であるところに、その本質を有しているからである。受任者への桎梏として性質が、責任概念の第一の本質である。

さらに重要な事柄がある。冒頭、私は首相の発言に「責任」というよりは「権力」を感じた、と述べた。ここでは「責任=桎梏」というイメージよりはむしろ「責任=自由」というイメージが喚起され得る。この様な責任イメージのギャップが責任概念にとって第二の本質となり得る。

以上の2点は、責任概念を語る上で、重要な着眼点であり、問題意識である。これらの点を踏まえて、首相をはじめとする政治家の責任、いわゆる「政治責任」の具体的内容について検討しなくてはならない。

政治生活と「責任」との関わりについて論じる学問分野として、憲法学や行政学は代表的存在である。いわゆる「政治責任」の問題について特に有益な方法が、行政学における「四段階責任論」という理論である。この理論は近年、憲法学にも採りいれられており、政治の現状への有益な分析視角を提供する。この理論によれば、政治責任は、以下の四つの「段階」から構成される一つの概念として把握できる。

(1) 任務的責任(obligation)
この責任概念は、任務が特定の受任者に帰属している事実を指す。やや抽象的な概念だが、「ある任務に責任ある者の地位」と考えても良い。ある者がこの「地位」を有するからこそ、以下の(2)から(4)の責任を被ることになるのである。任務的責任という「地位」が全ての責任の出発点である。
(2) 応答的責任(responsibility)
受任者に対して、選任者の意思に合致した任務遂行が要求されている、という意味である。任務的責任の設定内容と、受任者の実際の任務遂行が齟齬を来たすとき、応答的責任が果たされていないこととなる。
(3) 説明的責任(accountability)
応答的責任が果たされていない状態に至ったときに受任者が負う責任である。つまり、何故応答的責任が果たされていないかを説明・弁明する責任である。
(4) 被裁的責任(liability)
説明的責任も充分に果たされない場合に至って受任者が負う責任である。つまり、説明不十分な受任者に対しては、何らかの制裁を加えることが問題とされなければならないということである。

四段階責任論によれば、政治責任は、(1)から(4)へと順を追って循環する一つのプロセスとされている。「責任」という語が為政者―受任者―の口から出たときは、国民―選任者―は、そこでの責任が四段階の何れに当たるのかを見極める必要がある。

最初の問題に立ち返ると、まず首相の語る「責任」が「任務的責任」に当たることは異論がないだろう。国民の生命・身体・財産を守る任務が自らに課されていることを首相は現に承知しているし、国民もそのように考えている。しかし、首相は「応答的責任」を果たしているだろうか。中東歴訪と2億ドル支援の表明に先立って、邦人人質の存在は認識されていた。そうしたなかで、「テロリストに過度な気配りをする必要がない」ため、敢えて行なわれた首相の行為と人質事件の結末との関係とは、国民の生命・身体・財産を守るという彼の「任務的責任」から見た場合、どのように評価されるか。任務への「応答」が果たされたか否か、議論の余地がある。

首相の「説明的責任」に関してはどうか。人質事件への政府対応について「検証委員会」が始動している。ここでの「検証」は、大きな議論を巻き起こした首相以下政府の行動についてのレヴューとして、「弁明」「説明」の性格を持ち得る。しかし、内閣官房をはじめとする政府中枢の主導の下で、しかも、特定秘密保護法の制約も伴って行われる作業が「検証」の名に値するか疑問なしとしない。

結局、首相の「被裁的責任」が問題となりかねない。政治責任の最もクリティカルなこの局面について、学説は一致して「委任の撤回」、つまるところ「辞職を以て制裁となす」と答える。しかし、今日の政治状況で「被裁的責任」が起動しうるかといえば、推して知るべし、である。

以上のごく簡単な検討から、「私が最高責任者です」という首相の言動は、もっぱら自らの「任務的責任」を宣言しているに過ぎないことが分かる。それ以降の三段階についてはほとんど欠落している。そうである以上、本来の「政治責任」の意味合いからすれば、彼の語る「責任」は空約束と評価せざるを得ない。

先に、責任の第一の本質は「桎梏」であると述べた。子どもに対して大人が「責任ある人」と呼ばれるように、責任の主体には一定以上の独立性が前提とされる。任務的責任以外の責任要素を欠落させた政治責任があるとすれば、それは「全き権力」と「不完全な歯止め」を意味する。

責任の第二の本質として述べた「責任」イメージのギャップについては、その矛盾の本質がどこにあるか、以上の論述から概ね理解できると思う。つまり「独立―権力」としての側面と「桎梏」としての側面との二側面を責任は有しており、後者が前者の歯止めとして機能しているか否かで様相が全く異なってくるのである。我々は、日常生活の中で任務を果たさなければ漏れなく責任の第二段階以降を追及される。しかし、首相においては、同様の責任追及がなされ得る条件が存在していない。「テロに屈してはならない」という支配的空気は、「応答的責任」の充足のみならず、野党による責任追及をも鈍らせ、「説明的責任」「被裁的責任」の充足も難しくさせた。それでなくとも、首相は、議会における与党多数派に守られ、特定秘密保護法という盾に守られており、政治責任の循環は容易でない。

循環しない政治責任は、説明責任の段階を飛ばして被裁的責任に自ら訴えるといった、受任者による御都合主義的運用も可能とする。「選挙で直接国民に信を問う」という言説は、任務的責任のみを語る権力者によってこれまでに幾度となくなされてきた。そこでの「責任」は受任者の中で自己完結しており、受任者を統御するはずの技術が受任者の自家薬籠中の物となってしまっている。

「責任ある指導者」を国民が望むのは当然である。しかし、指導者の口から「責任」が語られるとき、その「責任」の何たるかを精査しない国民が多いとしたら、問題である。果ては「責任」と「単なる権力」を取り違えている国民が多いとしたら、それこそが最大の不幸である。


※なお、本稿では脚注を付さなかったが、以下に参考文献を掲げておく。 足立忠夫「責任論と行政学」辻清明他編『行政学講座1行政の理論』(東京大学出版会、1976年)、西尾勝「政府機関の行政責任」芦部信喜他編『岩波講座基本法学5:責任』(岩波書店、1984年)、吉田栄司『憲法的責任追及制論I』同『Ⅱ』(関西大学出版部、2010年)ほか。

(早稲田大学大学院法学研究科博士後期課程[公法学専攻・今関研究室])
《付記》
本「直言」は2015年2月中旬に脱稿・推敲を終えたものである。その後、西川公也農林水産大臣が政治資金問題で辞任。野党が首相の「任命責任」を追及して予算委員会の審議が止まる事態となった。また、この間、安保法制をめぐって急激な展開が見られる。防衛省設置法12条の改正により「文官統制」も廃止される。2006年12月、防衛庁から防衛省に「昇格」する法案を参議院外交防衛委員会で審議した際、参考人として、「文官スタッフ優位制度」(文官統制)の日本型シビリアンコントロールについて意見を述べた(会議録PDFファイル)。安倍内閣が、長年にわたるこの仕組みをいとも簡単に廃止して、軍事的合理性をおおらかに貫徹する仕組みに組み換えようとしている。この問題については、いずれこの「直言」でも論ずる予定である。

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