「日航123便墜落事件」から30年            2015年8月10日

石碑の写真

爆投下から70年の8月9日、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典における田上富久市長の平和宣言は見事な内容であった。聴きやすく穏やかで、しかし力強く明確なメッセージを宣言していた。《被爆者が、単なる被害者としてではなく、“人類の一員”として、今も懸命に伝えようとしていることを感じとってください。》そこからは、一国民ということや被害者ということをあえて懸命に昇華させて、「人類の一員」としての声だと訴えかけることにより、普遍的な平和の真理として、世界の人々に受け止めてもらいたいとの被爆者の方々の命がけの信念が伝わってくる。

《私たち一人ひとりの力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です。市民社会の力は、政府を動かし、世界を動かす力なのです。》《若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかりと受け止めてください。「私だったらどうするだろう」と想像してみてください。そして、「平和のために、私にできることは何だろう」と考えてみてください。若い世代の皆さんは、国境を越えて新しい関係を築いていく力を持っています。》という言葉も、これからを担う若い世代の力と活躍を信じる、期待をこめたメッセージとして響いた。

そして今年、特に際立って注目されたのは、この部分である。《日本政府に訴えます。国の安全保障を核抑止力に頼らない方法を検討してください。アメリカ、日本、韓国、中国など多くの国の研究者が提案しているように、北東アジア非核兵器地帯の設立によって、それは可能です。未来を見据え、“核の傘”から“非核の傘”への転換について、ぜひ検討してください。》《現在、国会では、国の安全保障のあり方を決める法案の審議が行われています。70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、いま揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっています。政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯な審議を行うことを求めます。》

NHKの中継はこの2箇所で、カメラのズームが吸い付くように安倍首相の顔に寄り、アップでその表情を映すかたわら、音声は、参列席から沸き起こる盛大な賛同の拍手を伝えていた。

さて、長崎の平和宣言でも「懸念」として取り上げられた安全保障関連法案をめぐる参議院での審議が、いま重要な局面を迎えている。「8.15」を前にして、14日には「安倍談話」が公表される。これは今後の日本の対外関係、外交・安全保障に重大な影響(マイナスの意味で)を及ぼす可能性がある。この国の安全保障環境の悪化の根源がどこにあるかを実感することになるだろう。ただ、この問題はまた別の機会に論ずることにして、今週の「直言」は「8.15」の70周年ではなく、「8.12」の30周年について書くことにしたい。

毎年8月は6日(ヒロシマ)から9日(ナガサキ)と、3日おきに慰霊の日が続く。1985年から「8.12」が加わった。「日航123便墜落事件」である。当初は事故だったが、その後の経過と展開から判断して、私はこれを「事件」と呼んでいる。5年前に直言「日航123便墜落事件から25年」を出した。私がこの「事件」に関心をもつようになったのは、20年ほど前のある講演会で、最前列に座っていた女性から、「123便に乗っていた先輩や同僚と同じグループでした」と話しかけられたことがきっかけだった。それが元日航客室乗務員で、123便に乗務したグループに所属していた青山透子さんだった。

JA8119

この写真は前便として羽田に着陸した機体番号JA8119号機である。このあと日本航空123便として大阪に向かい、群馬県御巣鷹の尾根に墜落し、乗員・乗客520人の尊い命が失われる(生存者は4人)。運輸省事故調査委員会報告書128頁の結論部分で、「原因」として書かれているのは数行で、「本事故は、事故機の後部圧力隔壁が損壊し、引き続いて尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の損壊が生じ、飛行性の低下と主操縦機能の喪失をきたしたために生じたものと推定される。疲労亀裂の発生、進展は、昭和53年に行われた同隔壁の不適切な修理に起因しており、それが同隔壁の損壊に至るまでに進展したことには同亀裂が点検整備で発見されなかったことも関与しているものと推定される」というもの。青山さんはこれに納得せず、長期にわたり個人で調査を続け、5年前に『日航123便あの日の記憶 天空の星たちへ』(マガジンランド)を出版した(現在、Kindleなどの電子版も購入できる)。

青山さんの主張は、「事故原因を再調査せよ」につきる。ネット上には、さまざまな憶測が乱れ飛び、怪しげな「謀略」説も流されている。それらすべてを虚偽として否定するのではなく、関係資料を公開して、事実関係を全面的に明らかにすること。同僚・先輩を失った悲しみを胸に、この青山さんはそれを強く求めている。なお、冒頭の写真の碑は2004年8月建立であり、そこに「関係するあらゆる事実を解明し」とある。事故調報告書に納得していない人は少なくないのである。

私自身は、なぜこの件に関心を持つかといえば、何か「隠されたもの」(国家権力と個人に関わる)を感じるからである。青山さんの本を読んで、5年前に出した直言「日航123便はなぜ墜落したのか」で、私は5つの「なぜ」を提起した。そのポイントを改めてここに挙げておこう。

第1の「なぜ」は、公式に墜落原因とされた「後部圧力隔壁損壊」説への疑問である。「航空整備関係でこの説をまともに信じている人はいない」という声を、地方講演の際に聞いたことがある。今週、メディアが「8.12」について触れるとき、自明のように「後部圧力隔壁損壊」説が流されるだろうが、この説には重大な疑問があることを指摘しておきたい。

第2の「なぜ」は、「墜落現場の特定がなぜ遅れたか」である。青山さんの著書によれば、墜落の20分後には、現場は特定されていた。しかし、NHKニュースは墜落現場について二転三転する報道を行った。事故現場に近い上野村の黒沢元村長(故人)をはじめ、救援にあたった地元の方々のなかには、この点についていまも疑問を抱いている人がいる。

第3の「なぜ」は、救助の遅れである。自衛隊が到着するのは12時間後である。最も早く現場に到着したはずの地元消防団員たちは、彼らが朝9時頃現場に到着したところ、「自衛隊員がすでに山の上から降りてきた」といっている。自衛隊は一体、いつ現場に到着したのか。これについては後述する。

第4の「なぜ」は、なぜ遺体は黒こげだったのか、である。ジェット燃料はJET-A/40という灯油の部類でケロシンというが、大気中に出たケロシンはガス化しやすく、煤も出にくいにもかかわらず、主翼の燃料タンクから遠いところに投げ出された遺体が炭化している。遺体が集まっていた所で黒こげ状態が激しかったという。現場で歯型から遺体の身元確認を行った群馬県警察医で歯科医師の大國勉氏から取材した青山さんの本(電子版)に詳しい。この箇所は読むたびに戦慄を覚える

読売記事1

読売記事2

第5の「なぜ」は123便墜落の本質的な「なぜ」である。123便で亡くなったA氏がR5(右側最後部)ドア近くの窓の外を連続撮影した写真が残っている。そこに何かが写り込んでいる。これが何なのか。かつて私は青山さんの依頼で、画像処理の専門家にこの写真の検証を依頼したことがある。「円錐もしくは円筒のようなものを正面右斜めから見たようなイメージで、この物体はオレンジ帯の方向から飛行機の進行方向に向かっているように見えます」とのコメントを得た。「物体」の後方にかすかに陽炎(熱により空気密度が異なることで光が屈折する現象)が確認できることも。A氏の遺族が保存するネガを直接鑑定すれば、窓の外をA氏がなぜ連写したのかの理由も明確になり、第5の「なぜ」の解明につながると思う。

ところで、上記の第2と第3の点に関連して、8月1日のNHKスペシャル 「日航ジャンボ機事故 空白の16時間――"墜落の夜"30年目の真実」が検証を試みている。番組ホームページによれば、「墜落から生存者確認までに要した時間は、国内の事故としては異例の長さとも言える「16時間」。さらに救えた命は本当になかったのか。各機関の内部資料や当事者たちの初めての証言から、様々な事実が浮かびあがってきた。番組では、これまで明らかにされてこなかった事実の発掘を通して、巨大事故が日本社会に今なお突きつけているものを凝視していく」とある。「30年目の真実」という言葉にかすかな期待を込めて見たが、期待はずれだった。位置確定のための戦術航法装置(TACAN)の問題や、自衛隊や警察など関係機関の連携の不十分さなど、ある意味では実に「わかりやすい原因」がそこに示され、当時の関係者の後悔の声などで味付けして、「16時間」の原因が明らかになったかのようなストーリー運びだった。しかも、そこにはNHK自身が墜落現場について二転三転する報道をしたことの真摯な検証もない。「30年目の真実」という題名に偽りあり、とまでは言わないが、これを「真実」ということには圧倒的な違和感がある。

書籍発行から5年の歳月が経過したが、青山さんの調査活動は続き、その間に新たな情報も得て、5つの「なぜ」を解きあかす事実を少しずつ入手してきている。事柄の性質上、いま、ここで紹介することはできないが、著書出版後に明らかになった疑問について、青山さんが執筆されたものを掲載する。30年がたって、いまもなお「事故原因」に重大な疑問があるのに、前述のNHKスペシャルのような「幕引き」的な番組も出てくることに、私は危機感を覚える。

小さな目は見た――出版後に明らかになった事実の話
青山透子

事故後30年。日航123便はなぜ墜落したのか。私を含め、この疑問を持ち続けている人たちがいる。それは、現場で歯型から身元確認を行った群馬県警察医で歯科医師の大國勉氏、拙著を読み、ぜひ話をしたいと出版社に直接いらしたご遺族の吉備素子氏、事故機で亡くなった客室乗務員のご親戚の方や事故時の関係者、元自衛隊員、詳細に調べた読者の方々、御巣鷹の尾根に今もなお残っている飛行機の残骸を送って下さった方もいた。皆さんの本心から湧き出る怒りの言葉には、いまだに数多くの疑問が残る事故原因をなぜマスコミは追及しないのか、という憤りが満ちている。

事故原因については、一部の過激な陰謀説、根拠の薄い推理や憶測も多く、それがかえってこの事故原因の再調査や追及を妨げていることは本当に残念である。私自身、出版の際に膨大な一次資料を読み込んでいる過程において、これは本当に事故なのか、何かおかしいのではないか、と疑念を持つようになっていったのだが、それを語ると、はなから陰謀説だと烙印を押されてしまう困難に遭うのである。おそらく一般の方々には、圧力隔壁修理ミスが事故原因である、という報道しか届いておらず、それも無理もないことではある。しかし、30年も経ち、今もなお、遺族のみならず、墜落現場となった群馬県上野村の救助にあたった消防団員や警察関係者、さらに医師であっても、事故時の様々な状況に疑問を持ち続けている人が、実際にいるのである。それを知る以上、私は一つの使命として、この5年間、地道にこの疑問と向き合い調査を続けてきた。

そしてさらに多くの方々に出会い、たくさんの資料を送って頂いた。その中で、当時の群馬県上野村の小学校、中学校の生徒が書いた文集を読んだ時、もっとも大きな衝撃を受けたのである。群馬県上野村立上野小学校148名の日航機墜落事故についての文集「小さな目は見た」(1985年9月30日発行)と、群馬県上野村立上野中学校87名の日航123便上野村墜落事故特集「かんな川5」(1985年10月1日発行)である。約53%の子供たちが、事故当日について詳細に書いていた。当時の小学校の校長先生に、先日内容の確認をとったが、事故直後にこの証言集を書かせた理由は、「事故時に見聞きしたことを書き記すことで、520名の人々の真の供養になる、さらに、この事故について、曖昧にすればいずれ忘却の彼方に追いやられることは必至であり、この子供たちの未来のために書かせた」との思いからであった。

特に、「18時45分」という具体的な時刻を書いた小学生H君の目撃情報は次の通りである。

「8月12日の夕方、6時45分ごろ南の空の方から、ジェット機2機ともう1機大きい飛行機が飛んで来たから、あわてて外に出て見た。そうしたら神社のある山の上を何周もまわっているからおじさんと『どうしたんだんべ。』と言って見ていた。おじさんは、『きっとあの飛行機が降りられなくなったからガソリンを減らしているんだんべ。』と言った。ぼくは、『そうかなあ。』と思った。それからまた見ていたら、ジェット機2機は、埼玉県の方へ行ってしまいました。それから、おれんちのお客が出てきて『飛行機がレーダーから消えたんだって』と言った。おじさんが『これは飛行機が落ちたぞ』といいました(ママ)」。

これに似た内容は中学生によっても記されているのだが、大きな飛行機1機が日航機だとすると、ジェット機2機はなんだろうか。その疑問を抱えたまま、私は、群馬県警が発行した当時の日航機事故特集記事の中に、非番の自衛隊員K氏が書いた文章を見つけた。

「8月12日私は、実家に不幸があり、吾妻郡○村に帰省していた。午後6時40分頃、突如として、実家の上空を航空自衛隊のファントム2機が低空飛行していった。その飛行が通常とは違う感じがした。『何か事故でもあっただろうか』と兄と話をした。午後7時20分頃、臨時ニュースで日航機の行方不明を知った。」

午後6時40分という時間に、非番の自衛隊員が、航空自衛隊ファントム2機を目撃している。群馬県上野村の子供たちと同じように、日航機の墜落前の時刻である。

当時、航空自衛隊中部航空方面隊司令官だった松永貞昭氏は、機影消失(墜落)の1分後に出動命令を出して、ファントム2機を飛ばしたと語っている。その時刻は、公式記録によると、日航機墜落後の19時01分。空自百里F4EJ、2機緊急事態と認識して発進。それ以前には自衛隊機は一機たりとも飛んでいない、ということになっている(『読売新聞』2000年8月11日付)。それでは、墜落現場の子供たちや、非番の自衛隊員が見たファントム2機は、何だったのだろうか。これが最大の疑問である。なお、これ以外に静岡県内での目撃者もいる(詳しくは『週刊金曜日』8月7日号6頁の拙稿参照)。

これらの目撃情報から推測できることは、次の通りである。墜落前の日航機を追尾していたファントム2機は、公式発表には出てこないが、実際に目撃されている。その2機は、日航機の垂直尾翼付近の状況や飛行状況を把握しながらこれを追尾し、最後の墜落地点まで見届けた可能性がある。とすれば、少なくともまだ明るいうちに、墜落現場を特定出来たのではないか。

2010年11月10日、当時の運輸大臣だった故山下徳夫氏にお会いした際、「遺族が事故原因に疑問に持つならば、必ず再調査をすべきだ」とおっしゃっていたのを思い出す。御巣鷹山頂に建つ石碑(冒頭の写真)も、そのことを問い続けている。

戦争でもない「平時」の1985年に、故意過失を問わず、事故原因に関して何等かの関与が自衛隊にあったとするならば、それは重大な問題であり、それを明らかにせずして、そのような自衛隊を海外に行かすわけにはいかない。520名の天空の星たちが、この行方を注視している。

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