ロシア大平原の戦地「塹壕のマドンナ」の現場 へ――独ソ開戦75周年(2)
На землю, где была нарисована «Сталинградская Мадонна» - 75 лет с начала советско-германской войны (2)
2016年8月1日


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の絵との出会いは鮮烈だった。31年前、1985年8月12日(月)午後8時放送のNHK特集「人間のこえ―日米独ソ兵士たちの遺稿」の冒頭で、ドイツ軍将校クルト・ロイバーがスターリングラードの塹壕のなかで描いた木炭画が紹介された。画面を見つめること10分。突然、放送が中断された。いまなおその原因が隠され続けている途方もない事件が発生したからである。数日遅れて改めて全編が放送されたが、この木炭画に心が引き寄せられた。1988年5月にベルリンのカイザー・ヴィルヘルム記念教会で初めて、そのオリジナルをみた時の感動は忘れない。それ以来、ドイツ訪問時には必ず訪れている。今年6月10日にベルリンに行った際にも「再会」している。冒頭の写真がそれだ(教会内で急いでシャッターを切ったのでぼやけているが)。

1997年1月にこのホームページを開設した際、この木炭画が発する「光・命・愛」(Licht, Leben, Liebe)をこのサイトの「原点」としてカバーページに掲げた

今年2月にロシア行きが決まったとき、是非ともヴォルゴグラードを訪れて、「塹壕のマドンナ」の現場、スターリングラードの戦場跡を取材したいと思った。おりしも6月22日は「バルバロッサ作戦」として知られる独ソ戦開始の75周年だった。この日のドイツの新聞を見ると、一面トップに写真入りで「忘れられた6月22日」として、今日のロシアとNATOの対立との絡みでこの独ソ開戦を特集したものもあった(die taz vom 22.6.2016, S.1-3)。『南ドイツ新聞』は少し前から1頁を使った「歴史シリーズ」を続け、この戦争でソ連は2700万人が死んだという見出しを掲げ、特にドイツ軍が300万人以上のソ連軍捕虜の命を奪ったことを強調している(Süddeutsche Zeitung vom 18/19.6, S.49)。民間人の死者数も含めて、いかにすさまじい戦闘だったかがわかる。

ソ連との戦争でドイツ軍が東部戦線に展開した兵力は約300万。これに対するソ連軍は450万人(スターリンによる「粛清」で軍幹部が不足して、質的にはかなり落ちていたが)。これが南北数千キロの作戦正面でまともにぶつかり合ったのである。特にスターリングラードは、コーカサスの油田地帯からの輸送の中継拠点になっており、ここをおさえればソ連軍の補給ルートは途絶する。ヒトラーは、この方面を重視。B軍集団(5個軍、89個師団相当約120万)の大部隊を投入した。

ここを短期間に制圧できるとふんだドイツ軍が甘かった。ソ連軍の抵抗は激しく、ヴォルガ川沿いの細長い都市をめぐる攻防戦は、「史上最大の市街戦」(写真)といわれ、顔の見える距離での戦闘の結果、市街地の96%が完全に破壊された。戦闘の質も両軍の犠牲者の数も半端ではなく、先月取材した「ヴェルダンの戦い」をはるかに上回る犠牲者を出している。ドイツ軍やルーマニアなどの枢軸軍は約85万人、ソ連軍は約120万人とされている。双方が捕虜をとらないという方針をもっていたので、かなりの数の捕虜が殺された。20万人以上の市民の命も失われた。

15年前の「直言」で、映画「スターリングラード」(ジャン=ジャック・アノー監督作品、米・独・英・アイルランド合作、2001年)について書いた。映画は独ソ両軍の2人の狙撃手の決闘という色彩が強く、「ロシア的英雄伝説がハリウッド的ステロ版に凝結」との酷評もあったが、冒頭シーンは印象的だった。駅にソ連兵を載せた列車が着く。貨車の扉が開き、新兵たちが思わず後ずさりする光景が広がる。「直言」ではこう書いた。「…銃が不足しているため、新兵たちの二人に一人は銃弾5発だけ手渡されて突撃させられる。銃を持つ者が倒れると、それを奪い、自分の銃弾を装填して前進する。敵の火線に味方の部隊をさらし、後方からさらに押し出して制圧する手法は、人海戦術ではなく、人命をゴミのように捨てる「塵芥戦術」である(朝鮮戦争時の「中国人民解放軍」も同様の手法で大量の死者を出した)。怖くなって撤退すると、共産党政治委員が指揮する督戦隊の一斉射撃で皆殺しにされる。あどけなさが残る若者の不安げな顔。数分後には累々たる死体にかわっている。彼らには、無事を祈る家族がいるのだ。戦争一般ではなく、旧ソ連軍の政治委員制度の冷酷非情さを描いた点で、冒頭15分間は貴重である…」(なお、映画にも出てくる政治委員(コミサール)は後の首相のニキータ・フルシチョフである)。今回、ヴォルガ川の船着場からヴォルゴグラード駅前まで歩いたが、なだらかな坂になっていて約15分。映画の冒頭シーンは、駅から川の方を眺めたアングルで撮られている。市街戦の距離感がよくわかった。

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ところで、ヴォルゴグラードに入る前日、モスクワの戦勝記念公園にある「大祖国戦争中央博物館」を訪れた(「大祖国戦争」はロシアにおける独ソ戦の呼び名)。ソ連時代末期に建設が始まり、体制転換後の1995年に完成した比較的新しい公園+博物館(ロシア文化省所属)だが、「遊就館」(靖国神社)のロシア版という印象が強かった。パノラマ展示はモスクワ攻防戦から始まる。スターリングラード攻防戦は二番手だ。「ベルリン攻防戦」のドイツ帝国議会をめぐる戦闘コーナーはとりわけリアルだった(左写真)。ソ連兵の落書きもたくさん刻まれている。博物館全体としては、「大祖国戦争」に殉じた人々の顕彰という色彩が強く、使われている言葉もソ連時代そのものだった。

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ヴォルゴグラードでは「スターリングラード攻防戦パノラマ博物館」を訪れた。まず目に入るのは、ロシア国旗とソ連の国旗(に見えるが、1945年5月1日にドイツ帝国議会の上に掲げられた『勝利の旗』らしい)である(写真)。ヤク戦闘機やT34戦車などが屋外に展示してあり、子どもたちが戦車に乗って遊んでいる(右写真)。入口すぐ左にある土産物コーナーでは、スターリンのTシャツ(写真)にスターリンの絵皿(写真)が売られている。タイムスリップしたようだ。

パノラマ博物館というだけあって、最上階の戦闘場面のパノラマは360度で、すごい迫力だ。数十万単位の大部隊同士がこの都市とその周辺で激突し、双方とも甚大な犠牲を払ったことがリアルに伝わってくる。展示の一角に「塹壕のマドンナ」の写真を拡大したものを発見した。残念だったのは、ドイツ国防軍の旗などと並べて展示され、ドイツ軍将校の描いた絵という簡単な説明書きだけだったことである。

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外に出ると、穴だらけになった製粉所の建物が。その先に「パヴロフの家」がある。激戦区の一つ。ここで抵抗を続けたパヴロフ軍曹の名前をとったもの。ドイツ軍は1、2週間でこの都市を占領するつもりだったが、ソ連軍の抵抗が予想外に激しく、特に十数人に守られているにすぎないこの拠点すら落せず、犠牲者を増やしていった。ここはソ連軍の反転攻勢まで持ちこたえたので、この攻防戦の象徴となった。

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歩いて第6軍司令部跡の「記憶」博物館へ。デパートの地下にある。しかし、なかに入ってすぐに「塹壕のマドンナ」の作者、クルト・ロイバーの展示を見つけた(右写真)。彼が戦場で絵を描いている写真もある(写真)。キャプションには、「クルト・ロイバー。牧師、医師にして画家。ドイツ第16装甲師団の軍医。スターリングラードで捕虜となり、1944年に捕虜のまま死亡した」とある。ベルリンの教会にはオリジナルの絵があるが、こちらは写真だけ。でも、やはり彼はここにいたのだ。

42年11月に第6軍はソ連軍の攻勢により完全に包囲される。そして43年2月、第6軍パウルス司令官はソ連軍に降伏した。11月段階で30万人いたが、捕虜になったのは11万人弱。そして過酷な捕虜収容所生活のために、ドイツに帰還できたのは6000人にすぎない。ドイツにとって、スターリングラード攻防戦は完全な敗北となった。第二次世界大戦の転換点とされる所以である。この絵の作者、クルト・ロイバーも家族のもとに帰れなかった。

タクシーで、ヴォルゴグラードの北西37キロのゴロヂシチェンスキー地区にある「ロソシュカ戦没者墓地」に向かう。『地球の歩き方・ロシア』をはじめ、日本のロシア関係の旅行案内には一切紹介されていない場所である。戦没者墓地の維持に携わるドイツの公益法人のサイトに詳しい案内があった(PDFファイル/ドイツ語)。タクシーの運転手も道に迷った。途中、警察の検問があり緊張する。大型バスを停めて乗客をおろしてチェックしている。小型車は無視だった。かなり走って、大草原のなかの墓地群を発見。すでに日も暮れかかっていた。

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とにかく広い。360度見回して丘も家も何もないこの大平原で、1942年8月と翌年1月、ドイツ軍とソ連軍との間で激しい戦闘が行われた。戦後、まずドイツ軍将兵の墓が作られた。1990年代に整備が進み、ソビエトとドイツの墓地が隣同士に作られた。まず、ソ連軍将兵の墓地に入る。正式名称は、「スターリングラード近郊で亡くなったソビエト兵士の軍事記念墓地」。1997年8月23日に開設された。最初に埋葬されたのは、戦闘が行われた原野で発見された808柱の遺骨だった。共同墓地に埋葬されず、塹壕や堀、砲弾で出来た窪みなどのなかに取り残されていて、近年になって発見されたものばかりだ。

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この墓地の管理団体のサイトには、「墓地の立案者であるユ・ア・モクロフと彫刻家のエス・ア・シチェルバコフは、共同墓地と個人墓地、墓上の構造物、記憶の壁、シンボリックな礼拝堂、緑の植込み、敷石からなる遊歩道、碁盤目の舗道を、統一された一体のものへと結合させることに成功した」とある。実際、そのような形になっている。そして、正面のモニュメントについての説明は、「悲嘆に暮れる母親ないし妻、妹あるいは娘にも見えるモニュメント像があり、頭の上に伸ばした腕の中には、悲嘆、悲哀、記憶そして平和への訴えを象徴する鐘をつかんでいる」とある。最初は気づかなかったが、そのようにも見える。ヘルメットを乗せた墓標群。銃弾が貫通したものも少なくない。なかには砲弾でえぐれたものもある(写真)。背筋が寒くなる。

1997年以降、この記念施設には、30余の共同墓地と300以上の個人墓地のなかに、18794名が葬られている。ロシア国防省中央アーカイブの調査作業により、かつての大ロソシュカ村と小ロソシュカ村の近辺において埋葬されぬまま戦場に残された1万人以上の将兵の名簿が編成された。実際にはそうした者の数は、それよりはるかに多いともいう。なお、1999年から2014年の間に、ロソシュカ戦没者墓地を約7万人が訪問しており、そのなかには、あの戦争で消息不明の親族をもつ人たちも多く含まれているという。

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道路をはさんで、向かい側にドイツ軍将兵の戦没者墓地が設置されている。四角い石の墓標には一人ひとりの名前が刻んである(写真)。沖縄の「平和の礎」のようなコンセプトだ。ここの戦場で死んだ60000人のドイツ軍将兵が眠る。ルーマニア軍将兵2000人もここに眠っていると関係サイトにあったが、その墓標ないし墓がどこにあるのか。ドイツ側の一角にあったのだろうが、当日は確認できなかった。

墓地入口に掲げられていた横断幕には、「記念施設管理部」とあった。墓地の奥の方に小さな家を見つける。犬がほえたので、人が住んでいるようだ。車で「管理部」の前へ。なかから老人が出てきた。年は70歳というが、日に焼けたその顔ははるかに年上にも見える。パンフレットか何かをくれないか聞くと、中へ入れという。地図や戦況を示すものが壁いっぱいに貼られている。そして、ドアをあけると驚いた。そこは小さな展示室になっていて、銃弾やヘルメット、遺品の陳列棚が(写真)。機関銃などの残骸が無造作に床に置かれている。ここを訪れる人がほとんどいないこともあろう。私たちの訪問を非常に喜んでいた。私に抱きついてきて、耳を軽く噛んだ(笑)。帰り際、「私の気持ちだ」といって、老管理人は私にあるものをプレゼントしてくれた。わが研究室の「歴史グッズ」に加わることになった。

この管理室についてあとで調べると、1999年9月にヴォルゴグラード州行政府が、この墓地を管理する職員のために簡易建物を提供していた。「所長室と博物館、さらに当直職員の部屋と訪問者のための応接室がある。墓に対する破壊行為を防止する目的で、24時間の当直体制がとられている。墓地の整備は、ゴロヂシチェンスキー地区行政府の予算と市民の個人的寄付とによって賄われている」。博物館といっても6畳ほどの狭い部屋だし、応接室といってもソファーが一つあるだけだが、この老人はここに犬とともに住んで「24時間の当直体制」をとっているのだろう。実際、ここを訪れる人はきわめて少ない。彼は墓の管理のほか、兵器や遺品の掘り起こしをやっているという。

車とも滅多にすれ違わない大平原を往復80キロ走って、実質的な独ソ共同墓地を訪れた感想を一言でいえば、改めて戦争の悲惨さと虚しさを感じたということだろうか。やや陳腐な感想に聞こえるかもしれないが、あの地平線を丸く感じる大平原に立ち、たくさんの墓標を身近で体感すれば、誰しも言葉を失うだろう。身を隠すものは自分で掘った塹壕以外にないという大平原で、万単位の人たちが、最後には銃剣やシャベルで殺し合った。捕虜をとらないという方針をもった全体主義国家の軍隊同士の戦いほど悲惨なものはない。ドイツが突然「不可侵条約」を一方的に破棄して攻め込んだ侵略戦争から75年。ロシア側からすれば「大祖国戦争」としての大義はあるが、しかしスターリンの「粛清」と民族的抑圧もすさまじかった。その狭間でたくさんの個人が命を失っていった。

この墓地に関する規程(1999年7月19日)には、この墓地に埋葬される対象となる将兵として、(1)スターリングラードの戦いの時に戦闘行為に際して亡くなった者、(2)祖国防衛の際に受けた傷、障害、疾病により大祖国戦争期に死亡した者、(3)戦闘の成り行きでドイツ軍の捕虜となり、死亡したが、その名誉と尊厳を失わず、祖国を裏切らなかった者、とある。スターリンの「粛清」に抗議してドイツ軍に協力し、または、スターリン体制打倒のために戦って亡くなった人たちは、「裏切り者」として、ここには葬られない。「無名戦士」にすらなれないたくさんの人々の死が、未だ発掘も総括もされないままになっている。

来週は、そうした「収容所群島」に消えていった人々の記録を展示する「グラーク歴史博物館」からのレポートを掲載する予定である。

連載第1回:2016年7月25日付「スターリングラードの「ヒロシマ通り」――独ソ開戦75周年(1)」
“Улица Хиросимы” в Сталинграде - 75 лет с начала советско-германской войны (1)
連載第2回:現在閲覧中
連載第3回:「収容所群島」とグラーク歴史博物館――独ソ開戦75周年(3・完)
«Архипелаг ГУЛАГ» и Музей истории ГУЛАГа - 75 лет с начала советско-германской войны (3)

prtsc

《付記》

この「直言」がアップされる頃には東京都知事選挙の結果が出ているだろう。昨年10月に右派政党「法と正義(PiS)」が政権をとったポーランドでは、憲法裁判所が違憲判決を出せないようにその権限を大幅に制限する法律を制定した。報道機関の独立性を制限する法案も可決。この法律によって、政府は公共放送局の局長を自由に任命、罷免することができるようになった。EUは「法の支配」(法治国家性)に懸念の生まれたポーランドについて、EU加盟取消しを検討中である(Süddeutsche Zeitung vom 28.7, S.1)。トルコの「クーデター」以来、エルドアン大統領は8000人以上の裁判官・警察官など公務員を免職し、ジャーナリストを逮捕し、放送局を閉鎖するなど、その独裁者ぶりは際立っている。日本の安倍政権が、参議院でも勝利し、地方自治体にも追従者を増やして、トルコやポーランドのような権力分立が危機に瀕する国に近づいているように思えてならない。「私が最高責任者ですから」という首相は、日本政治史上初めてである。

なお、先週末、ヴォルゴグラードの「ヒロシマ通り」について、ヴォルゴグラードと広島市との姉妹提携関係サイトが更新され、私の訪問とホームページのことが紹介されている(右写真をクリック)。そこに書かれていることは「直言」の本文で書いたことと一致するが、末尾が一言加わっている。「もしかすると、我々のヒロシマ通りに関する新しい本も近いうちに登場するかも?」と。

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