さようなら、ボン!(その2)――ドイツ基本法の故郷を歩く
2016年9月12日

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9月12日に帰国した。14日から沖縄にいる。10回目のゼミ沖縄合宿である。これについては別の機会に書くことにして、今回は、2000年3月末に書いた「さようなら、ボン!」の「その2」を出す。今回は「ドイツからの直言」の最終回となる。

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さて、ドイツのボンというと、観光客は市内中心部の「ベートーヴェンの生家」をまわって、周辺のいくつかの教会(たとえばミュンスター教会)などをみてまわるというのが定番である。しかし、私にとってボンの魅力は、ドイツ連邦共和国のかつての首都の「名所旧跡」めぐりと、何よりドイツ連邦共和国基本法(「ボン基本法」)が制定された「憲法の故郷」という点にある。

この8月、日本から来た友人たち3組に、そのボンを案内した。名付けて「B9モノ語り」(連邦道9号線沿いの「名所旧跡」めぐり)。Uバーン(地下鉄)と徒歩による約4時間のコースである。ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』で、ジークフリートが、悪竜ファブニールを倒して、その血を浴びて不死になったという伝説で知られるDrachenfels(竜の岩)から私の住むBad-Godesberg方面を眺望したのがこの写真である。右奥に見える四角いビルが、旧連邦議会議員会館(Lnager Eugen)。現在は「国連キャンプ」として国連機関の事務所が多数入り、1000人の職員が働いている。この旧議員会館は半世紀近く、ライン川沿いの最も高い建物だったが、2002年、それより高いPost Towerが真横に建設された。

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日本の国道にあたる連邦道(Bundesstraße)、その9号線は日常会話では「ベー・ノイン」(B9) といわれる。2つの州を南北に貫く全長450キロの道路だが、ボンの中心部では数キロおきに名前が変わる。Adenauer AlleeからWilly-Brandt-Allee、Friedrich-Ebert-Alleeへ。それぞれ、西ドイツ創設時の首相、ノーベル平和賞を受けた首相、そして、ヴァイマル共和国創設時の大統領の名を冠した大通りである。かつては通りの両側に政府機関や各国大使館の建物が並んでいたが、ベルリン首都移転のため、いまはごくわずかな官庁と、一部の国の大使館の機能(アラブ諸国は健康部)が残るのみである(写真右側は連邦カルテル庁)。周辺には、30メートルくらいの通りにも政治家の名前が付けられている(地図の写真)。「政治家通り」街である。

UバーンのJuridicum(ボン大学法学部)駅からB9に沿って歩くと、まず外務省と連邦会計検査院がある。前者は本体がベルリンに移ったために、国連関係を中心に、いくつかの部局だけがここに残っている(1994年の「ベルリン・ボン法」による措置)。

しばらく行くと冒頭の写真の建物が見えてくる。現在は動物学博物館(Museum Alexander König)になっているが、1948年9月1日、ここに米英仏西側3カ国占領地区(西ドイツ)の州議会で選出された代表者が集まり、「議会評議会」(Parlamentarischer Rat)が開かれた(説明書き写真)。基本法制定会議である。それが開かれている場所を示す案内表示板の後ろに何頭かの牛が見える(右写真)。そんな田舎の街で憲法が制定された。16年前の直言「基本法は押しつけ憲法か?」をもとに経過を述べると、以下の通りである。

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1948年8月、バイエルン州の景勝地ヘレンキームゼーで専門家会議が開かれ、基本法の草案がまとめられた。そこでは、先行するドイツの諸憲法(とくにフランクフルト憲法とヴァイマル憲法)のほか、諸外国の憲法、とくに米英仏とスイスの憲法が参考にされた。1条1項の「人間の尊厳」(Würde des Menschen)は、国連の世界人権宣言草案にあった“Human Dignity”が影響を与えたとされている。また、基本法の審議過程では、ドイツを分割占領・統治した米英仏3カ国の軍政長官(写真)が、3本のメモランダムや個々の声明などを通じて、直接・間接に介入した。特に11月22日の「メモランダム」は、二院制の採用、執行権(とくに緊急権限)の制限、官吏の脱政治化など、基本法の内容に踏み込む細かな指示を8点にもわたって行った。その干渉ぶりは、米軍政長官クレイ大将に対して、米国務省が、もっと柔軟に対応すべきだとクレームをつけるほどだった。

約8カ月の審議を経て基本法が可決されたのは、1949年5月8日である。日曜日にもかかわらず、この日午後3時16分に会議は開始された。賛成53、反対12(共産党とバイエルンの地方政党)で可決されたのは午後11時55分。日付が変わる5分前だった。アデナウアー議長(初代首相)は、8日中に可決することに全力を傾けた。なぜか。この日が、4年前にドイツが連合国に無条件降伏した日だったからである。アデアウアーは翌9日、基本法採択の日を「1933年以来最初の喜びの日」と呼んだ(Konrad Adenauer: Eine Biographie in Bild und Wort von Ulrich Franz-Planilz, Stuttgart 1990, S.121)。

5月12日、3カ国の軍政長官たちは、「議会評議会」(基本法制定会議)の代表団と州首相に対して、基本法を承認する文書を手渡したが、この段階に至ってもなお、個々の条文を列挙して条件を付けた。5月21日までに、基本法はすべての州議会で審議され、バイエルン州を除くすべての州で承認された。かくして、基本法は5月23日に公布(午前零時に施行)された(写真)。このような状況下で制定された基本法を「押しつけ憲法」というドイツ人はいない。全体として「議会評議会」で自主的に決定されたと評価されている。占領下の困難な状況のなかでアデナウアーらは、占領軍の顔をたてつつ、したたかに実をとっていく努力をした。同じような占領下にあって日本国憲法を制定した先人たちに対して、いまだに「占領下でGHQの素人により起草された憲法」とか「みっともない憲法」とかいう悪罵を浴びせる人物が首相をやっている日本は、ドイツ人から見れば実に奇異にうつるのである。

基本法が採択されると、その翌々日には「暫定首都をどこにするか」の決定が行われた。大方、フランクフルトが「西ドイツ」の首都になると見られていた。何より3カ国の占領軍司令部が置かれていた。周辺にはライン=マイン米空軍基地をはじめ米軍基地がたくさんあり、庭付きの将校用宿舎も多数つくられていた。経済、金融などの拠点があり、メディアの支局もここに置かれた。当然、そのフランクフルトが政治の中心たる「首都」になると、米英仏の首脳たちも思い込んでいた。だが、「議会評議会」での採決の結果は、フランクフルト29票に対してボン33票だった。わずか4票差でボンが首都と決まった。

なぜボンなのか。米英仏の占領軍当局は大いに慌てた。暫定首都とはいえ、各国大使館をはじめ、一国の政治の機能がすべて揃う必要がある。ライン河畔の小さな街には、十分なインフラがなかった。「政府機関や大使館、各種機関の建物を探す苦労は大変なものだった。急ごしらえの暫定首都建設の様子については、ボン公文書館が出版した『大臣閣下は4番線の公用車にお住みです』(1999年) が面白い。」(直言「ライン川からシュプレー川へ」参照)。

では、なぜボンが首都になったのか。17年前に「アデナウアーの家」を訪れた時、そこで入手した小冊子を読んで認識を新たにした。そのことはすでに「直言」で書いている。今回、古本屋で、400頁を超える分厚いアデナウアーの自叙伝を50セント(日本円で57円!)で入手した。そこにはより詳しくこう書かれていた。

「首都ボンを推進したのは、私の住居がレーンスドルフ〔ボンの近郊〕に近いからだ、と私はしばしば非難された。この非難はとても無邪気(sehr naiv)だと思った。連邦首都としてボンを選んだ決定的な理由は次のようなものだった。英国〔軍政長官サー・ブライアン・ロバートソン大将〕は、ボンが暫定的な連邦首都に選ばれたならば、英国占領地域・軍政からボンの領域を外す用意があると言明したからだ。米軍〔軍政長官ルーシウス・クレイ大将〕は、フランクフルトに関してこのような言明ができなかった。なぜなら、フランクフルトには膨大な米国の諸組織と非常に重要な行政機関が所在しており、他の都市ではそれだけの広さを確保することができなかったからである」(Konrad Adenauer, Erinnerungen 1945-1953, 1965, S.173)と。

なお、保守政治家のアデナウアーが「首都フランクフルト」を避けようとした、より狭義の政治的理由があった。それは、フランクフルトを含むヘッセン州が社会民主党(SPD)の州政府で、もともと社会民主的伝統と雰囲気が強いという面があり、ここを首都にすると全国的にSPDの影響が広まるおそれがあったからだという(Ebd.)。ボンを首都にすれば、政府と議会が、フランクフルトのように通りのデモ隊によって圧力をかけられることは少ないというわけである(Konrad Adenauer: Eine Biographie in Bild und Wort, 1990, S.120)。これもなるほど、と思った。

だが、アデナウアーにとって最も重要なことは、「新しい連邦政府が3カ国占領軍の占領行政の執行機関という印象をもたれることを避けようとした」という点にこそある(Erinnerungen, S.173)。占領下で発足したドイツ連邦共和国の首都ボンには、はじめから米軍基地がなかった。横田基地をはじめ、膨大な米軍基地を抱える首都東京とは大違いである。

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B9の旅は続く。基本法が制定された「名所」であるMuseum Alexander Königの反対側をしばらく歩くと、左側に旧大統領官邸(Villa Hammerschmidt)が塀越しに見える。1950年から1994年までここは連邦大統領官邸として使われた。現在は大統領のボン滞在時に使われる。ドイツ基本法では、連邦大統領の地位と権限は徹底的に儀礼的、形式的なものに純化させられ、それは日本の象徴天皇にかなり接近しているといってよいだろう。1919年のヴァイマル憲法におけるライヒ大統領が圧倒的に強力な地位と権限をもっていたこと、それがもたらした悲劇(ナチ独裁)への痛烈な反省によるものである(Martin Lau, Weimar ist nicht Bonn-Ein Vergleich der Regierungssysteme, 2009, S.6-9)。

だが、ことは単純ではなかった。基本法制定者は連邦大統領を形式的・儀礼的な存在にしようとしたが、一般民衆の意識は違っていた。1949年春にアレンスバッハ世論調査研究所が行った調査によると、西側占領地区の人々の51%が「大統領にできる限り強力な地位を与える」ことを求めていたというのである(Zeit Geschichte ”Wir sind das Volk-Die Deutschen und die Demokratie-1789 bis heute”, Die Zeit, 2016, S.83)。権威主義傾向は民衆の間でなお根強かった。どこでも憲法規範というのは、その時の国民の最大公約数的な意見の「先」を行くものなのかもしれない。憲法規範が理想主義的になる所以である。いま、ヴァイマル憲法のような大統領にすべきだ、そのように基本法を改正すべきだという主張は右派の方からも聞こえてこない。現在の連邦大統領の存在(権力を制限された地位)はドイツでは圧倒的に支持されているといっていいだろう。

さて、旧大統領官邸のすぐ隣が、旧首相官邸のPalais Schaumburgである。ここは1999年7月2日に限定公開された。当時16歳で、ボン・インターナショナルスクールに通う娘とともに見学したことがある。その時の文章が下記である

「・・・首相官邸がこの日だけ開放された。広い庭園が美しい。アデナウアー初代西独首相の執務室がそのまま残されていた。鞄や椅子や書類は当時のまま。デスクには、チャーチル、ドゴール、ルーズベルトの写真と並んで、昭和天皇と皇太后の写真も置いてある。いずれも茶色に変色している。現首相の執務室や閣議室まで、この日だけ市民の立ち入りが許された。日本では考えられないことだ。…」

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さらにB9を進むと、連邦首相府(Bundeskanzleramt)の黒い建物が見える。現在は連邦経済協力・発展省が入っている。しばらく行くと、歩道に、アデアウアー首相の頭部(Konrad Adenauer Denkmal)がドドーンと鎮座している。いつも車やバスで通るだけだったので、この日はしげしげと見つめてみた。すると、後頭部の上部に小さなアデナウアーがいることに気づいた。後ろにも顔があって背後を見逃さない。何ともスゴイ像である。

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像の少し先に鉄製の扉があいていて、そこからライン川に向かう。Welckerstraßeという、わずか180メートルの通りである。かつて首相府にあった奇妙なオブジェも柵越しに見える(写真)。このオブジェは民主主義の象徴らしいが、意味は不明である。つきあたると、連邦参議院がある(写真)。どこかの村役場の庁舎と見紛うばかりの貧弱な上院である。このことについては、すでに7月の「直言」で書いた。なお、この8月24日にヴァルター・シェール元大統領(1974~79年在任)が死去したため、連邦参議院前には半旗が掲げられていた。その横をライン川の方に坂道をおりて右折してしばらく行くと、World Congress Centerの建物がある。実はここが1999年まで、ドイツ連邦議会だったのである(写真)。少し行くと、周囲の近代的なガラス張りの建物とは違った雰囲気の建物が見えてくる。これが、「水車小屋(Wasserwerk)の本会議場」である。ガラス張りの上記の新しい議事堂ができるまでの間、1986年9月9日から1992年までの6年間使われた「仮本会議場」である。背後には前述した旧首都の唯一の高層ビル、Langer Eugen(旧議員会館)が見える。先週、ボンの地元紙が、この「水車小屋の本会議場」の30周年を記念する記事を出した。題して「水車小屋で議会はいかにも人間的だった」(Im Wasserwerk hat es gemenschelt.) である(General-Anzeiger vom 10/11.9.2016, S.1)。

この仮本会議場で審議中の1989年11月9日夜、「ベルリンの壁」崩壊のニュースが飛び込み、審議を中断して、議員全員が総立ちになってドイツ国歌を歌う場面は鮮明に記憶している。また、この仮本会議場でドイツ統一への10の計画が審議・決定され、またベルリン首都移転の決定をわずか17票差で行ったのである(直言「ベルリン首都決定の25年」の冒頭の写真参照)。

前記の地元紙記事は、この仮本会議場のことを、かつての議員たちが、狭いながらもあたたかく、親しみ深い雰囲気だったと語っていることを紹介している。ある議員は、「言葉はより堅苦しくなく(lockerer)、そこにはより人間臭さがあった。古き連邦首都ボンによく似合っていた」と回想している。「仮本会議場にはホームバーもあって、よりくつろいだものだった」とも。記事は、「議会生活の過少評価しえない一要素」と結んでいる。

ライン川に沿った「仮本会議場」の裏口を見つける(写真)。門柱に「ドイツ連邦議会」とある。ここからライン川に出てきて、議員たちが散歩をしたり、くつろいだりしたのだろう。

向かいの標高331mの山の上には、Petersberg城が見える(写真)。ここはボンが首都の時代は、政府迎賓館として使われた。現在は一流ホテルになっている。かつて一度ここのロビーラウンジでコーヒーを飲んだことがあるが、まずくて高かった。政府迎賓館として使われたわりには、さほど豪華というわけでもない。ここに各国首脳が泊まったとき、意外に質素なのに驚いたのではないか。こじんまりした首都ボンの地味な迎賓館。その意味では、ドイツの民主主義の「かたち」が権威主義的なものから距離があることを、建物自体が醸しだすということなのかもしれない。

事実、アフガニスタン戦争を収束に向かわせるために、2001年11月、国連が北部同盟などアフガンの戦争当事者たちをドイツのボンに集めて、「アフガニスタンにおける和平と復興推進のための国際会議」(ボン会議)を開催した。12月5日に締結された政治的ロードマップが「ボン合意」と呼ばれた。その会場が、このPetersberg城だった。ライン川を眺望できる山の上で、ドスタム将軍の北部同盟など、アフガニスタンの武装勢力の荒くれ武者たちがドイツワインを傾けながら、次第に合意に向かっていった。ボンというこじんまりした街の、こじんまりした迎賓館での語らいが、和平合意へのモティベーションになったのかもしれない。

ベルリンの人口は約340万人、ボン31万人。小さな首都は、Bundedorf(連邦村)と言われた。すぐ近くに牧場がある本当の田舎である。政府機関の建物も簡易なつくりで、統一したらベルリンに立派なものを作るという意志を示すため、「仮の姿」を維持し続けた。1949年から1999年まで、ちょうど50年。ドイツの議会と政府の所在地として、ボンは「民主主義の場所」(Stiftung Haus der Geschichte der Bundesrepublik Deutschland(Hrsg.), Bonn: Orte der Demokratie-Der historische Reiseführer, 2.Aufl., 2014, S.1-131)だった。こじんまりした首都の半世紀は、「ボン民主制」(Bonner Demokratie)として世に知られた。「ボン、素晴らしきかな暫定性(Provisorium)」という17年前の新聞のエッセーには思いがこもる(Die Welt vom 1.7.1999)。

今回のドイツ滞在を終えるにあたり、一つの感慨がある。それは、17年前に滞在して「さようなら、ボン!」を書いたときの自分ではないことをたくさん、たくさん認識・痛感したことである。それは年をとるということの悲しさでもある。しかし、逆に、若い頃の滞在とは違って、人々とのつながりがたくさん生まれたという面がある。

「人生のVSOP」を順番に生きているのではなく、「常にVSOP」たるべし。20代のバイタリティはもう無理だけど、それは年齢に応じて転調していくものだと悟った。この半年の間、たくさんの失敗をして、自分の限界をたくさん知って落ち込んだこともあるが、いまはその失敗がなければ気づかなかった自分の限界がいとおしいと思う。それを温めながら、次の人生に活かしていきたい。「さようなら、ボン! そして、ありがとう」。

最後に、特別研究期間制度という在外研究の機会を与えてくれた早稲田大学と、私の不在でさまざまなご迷惑をおかけした同僚の皆さん、半年間、学生だけでゼミを運営しつつ、私の帰りを待っていてくれた水島ゼミ19期、20期の学生諸君に、心から感謝したいと思う。

そして何よりも、今回の在外研究の受け入れをしていただいたProf. Dr. Reinhard Zöllner先生をはじめとするボン大学の皆さまに心からお礼申し上げます。また、今年3月まで24年間、早稲田大学ヨーロッパセンター(ボン)の職員として、在外研究の教員や留学生たちに物心両面の援助をしてこられたAnne-Marie Springmannさんに心からお礼申し上げます。ボンで知り合ったすべての皆さんに、

Vielen Dank und Auf Wiedersehen!

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