「フェイク改憲」に対案は不要――「改憲論戯」からの離脱を
2018年3月19日

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れはドイツの知人が送ってくれた『南ドイツ新聞』(Süddeutsche Zeitung vom 13.3.2018)の政治面トップのカラー写真である。タイトルは「黄昏(たそがれ)の安倍」。森友学園問題をめぐって安倍政権が大揺れに揺れていることについて詳しく伝えている。極右的な人物が理事長を務める小学校の建設をめぐり、国有地売却に関わる14の公文書が改竄されていた問題の背景を伝えるなかで、記事は安倍政権と日本会議との関わりに注目している。安倍晋三首相や麻生太郎財務相が役員を務める「国家主義的ロビーグループ」日本会議国会議員懇談会についてもしっかり指摘している。

安倍政権の特質は「フェイク」である。それがようやく可視化されてきた。右側の写真は、安倍政権がその都度掲げてきた目玉政策の所管部署の発足場面である。「看板倒れ」とはまさにこのことだろう。例えば、今国会で目玉とされた「働き方改革」。裁量労働制の拡大や「高度プロフェッショナル制度」導入という財界の要求に応えようと張り切ったものの、「裁量労働の方が一般労働よりも働く時間が短い」という首相答弁の根拠データがでたらめだったことが明らかとなり、失速した。森友学園問題でも、『朝日新聞』3月2日付の渾身のスクープ記事によって財務省の公文書改竄が一気に明るみに出た。そして、3月12日、その財務省が国有地売却に関する決裁文書の「書き換え」(改竄)を認めたのである(3月12日付各紙)。それ以降の展開はここでは省略する。

ただ、はっきりしていることは、2017年2月17日の衆議院予算委員会での安倍首相の答弁が出発点だということである。自分や妻が関わっていたら総理大臣だけでなく、国会議員も辞めると断言したあれである(動画はここから)。内閣人事局によって官僚の人事は一元的に統制され、「安倍一強」は揺るがないかにみえた。佐川宣寿理財局長(当時)の異様に断定的で、かたくなな態度と口調がかえって問題の露顕につながったのは皮肉である。ある財務官僚は、「安倍政権が追及されるのを一生懸命防いでいるという意識が強かったと思う。総理は親分。親分の奥さんが関わっていれば部下は守る」と語り、問題の背景に首相夫人への「忖度」があったとみる(『朝日新聞』2018年3月13日付)。過剰な忖度は、財務省のなかで複数の自殺者を出している。その一人は、森友学園と直接交渉に関わった近畿財務局職員で、電話で家族に「毎月100時間の残業が何カ月も続いた」「常識が壊された」とつらそうな様子で話したという。「働き方改革」のフェイク性と、「公行政の私物化」が象徴的にあらわれている。

この問題については、1年前の3月27日付直言「「構造的忖度」と「構造的口利き」―「構造汚職」の深層」で詳しく分析しているので一部引用しておこう。

・・・籠池氏と森友学園をめぐる動きは、ほとんどすべて「日本会議人脈」のなかで起きた出来事だということである。籠池氏が証人喚問のなかで挙げた国会議員、府会議員はことごとく日本会議のメンバーである。・・・籠池氏はまさに「日本会議」のお友達ということで、小学校開設に向けて、大甘の手法や対応をとってきたのだろう(日本会議的斟酌)。この甘えが許されると籠池氏が錯覚してきたのは、まさに安倍首相の存在をおいてほかにない。すべては安倍政権のもとでの「構造的忖度」と「日本会議的斟酌」のなかで進行していったのだろう。

日本会議というウルトラナショナリストの団体は、政治家、企業人、教育関係者などの広いネットワークを利用して、籠池氏の偏向教育学校の出発を見守っていた。籠池氏の安倍首相を頂点とする日本会議人脈への「思い入れ」は、具体的な設置認可段階で「思い込み」に転化して、今回のような「思い違い」から「壮大なる勘違い」へと発展していったわけである。政治家も企業人もみな、「直接頼まれたわけではない」と異口同音にいっているのは、この籠池氏の日本会議人脈への「思い入れ」の深さと「思い込み」の強さに気づかなかったからではないか。・・・安倍政権はこれまでの自民党政権とは異なる特殊性をもつ。それは日本会議政権であることだ。ウルトラナショナリズムと海外メディアが伝える政権であるがゆえに、日本会議系列の同志意識からくる「忖度」と、通常の役人のルートにおける「官邸の声」に弱いというまさに、通常の政官財の通常のトライアングルのなかで起きたことが重なっている。・・・

3月10日に財務省が認めた決裁公文書「書き換え」(改竄)の対象が、安倍昭恵夫人の名前と日本会議に関する事項であったことは偶然ではない。まさに「構造的忖度」と「日本会議的斟酌」である。安倍政権が前のめりで進めている憲法改正もまた、こうした「忖度」と「斟酌」によって進められており、手法は「フェイク」である(直言「憲法改正のアベコベーション―「フェイク改憲」」)。

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自民党の憲法改正への動きは、森友学園問題の展開などに影響されて速度がやや鈍っているようにもみえる。3月13日に時事通信が配信した記事の見出しは、「党大会前の改憲案、見送りへ:自民、森友問題が影響」だった。だが、楽観は禁物である。明日、3月20日の憲法改正推進本部の全体会合で9条案をまとめる方向という。3月14日の執行役員会には、7つの9条改正条文案が提示された。昨年5月3日に安倍首相が唐突に打ち出した「9条2項を維持した上で自衛隊を明記する」という改憲提案に沿った方向で意見集約がなされるようである。

具体的には、党執行部が本命視する案として、9条の2として、1項「我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つための必要最小限度の実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する」、同2項「自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する」が出てきている(『朝日新聞』3月15日付)。『産経新聞』14日付は、この案を1日早く入手して、1面トップで「9条改憲案に「文民統制」 首相「最高指揮官」案も」という見出しで「スクープ」した。首相自身、この案について、「自衛隊の任務や権限は変わらない」と繰り返し強調し、国民投票でかりにこの案が否決されても、いまと何も変わらないと主張している。だったらなぜ、9条の明文改正なのか。緊急事態条項についても改憲主張に勢いが欠けており、また、教育無償化や参議院選挙区の「合区」にしても、憲法改正ではなく法律によって十分可能である。改憲案のフェイク性は明らかだろう。

なお、改憲の7つの案のなかには、「国防軍」を掲げる憲法改正草案(2012年)も含まれているというから、自民党の「最大限綱領」たる9条2項削除、国防軍設置は変わっていない。これに向けて二段階改憲でのぞむタクティクス(戦術)的対応のためにフェイクが多用されている。そういう手法を使って国民を改憲に誘導する戦略と戦術の総体を、「フェイク改憲」と呼ぶ。

安倍首相は国会で、憲法改正の「対案を出せ」としばしば野党に迫っている。半ば恫喝的な議論の仕方に対して、野党のなかから浮足立って「対案」を出そうとする動きがある。だが、安倍首相は「憲法違反常習首相」である。憲法とは何かという共通理解さえ怪しい人物の改憲主張にまともに付き合うのは「苦役」に近い。腰を据えた原則的批判を続け、同時に、国民に対して「フェイク改憲」の本質を明確に示すとともに、憲法に反する現実をリアルに提示して、その現実の解決策として安易に憲法改正に連動させる動きを批判しつつ、現実の問題の解決の処方箋を示すこと、これが求められているのである。そうした努力を怠って、安倍政権に「頭の体操」よろしく、「よりよい改憲案」を提示して競おうというのは、安倍流「フェイク改憲」の狙いにスッポリはまることを意味する。「護憲」と「改憲」という言葉の響きから、古色蒼然たる護憲に対して、改憲ならば新鮮というのはお得意の「イメージ操作」にすぎない。「護憲的改憲論」やら「改憲的護憲論」やら、安易で簡易な「対案」があちこちから出ている。憲法の専門家はクールに見ているが、一部に便乗する傾きがみられる。

「立憲的憲法改正」について、朝日新聞社のウェブサイトに二つの論説が掲載された。自他ともに両者は一体ということなので、まとめて問題点を指摘しておきたい。山尾志桜里「立憲的憲法改正のスタートラインとは」と、倉持麟太郎「憲法の包容力よ再び―誰もが当事者の立憲的改憲論」である。いずれも司法試験を合格した法律専門家のものだが、安倍改憲が明白かつ現在の危険になっているまさにその時に、議論の仕方は「憲法サロン」を超えて、「憲法論戯」に近い。樋口陽一氏が厳しく指摘するように、「改憲論を議論するというのは、静かなサロンでそれぞれが自分の理想の憲法の姿を述べ合って討論するというやわな話ではないのだ」(リンク先はPDFファイル)。現実の厳しい権力状況のなかで、どこで、どういう対抗関係が生まれているかを正確に認識して、的確な言説を発することが求められている。この二人の議論には、そうした緊張感が感じられない。安倍首相は憲法違反常習首相である。その政権との、憲法をめぐるつばぜり合いのなかで、厳密な概念を駆使する必要があるにもかかわらず、生煮えの曖昧な言葉の使い方が目立つ。これでは、安倍晋三的言説空間に立ち向かうことはできない。二人の論稿は、認識や結論がほとんど重なっているので、ここでは山尾氏の議論のポイントを紹介してコメントしておく(倉持氏の議論はWebronzaの拙稿で批判したが、必要に応じて本文でも紹介したい)。

(1) 安倍政権下で日本国憲法が機能不全に陥っているのは、立憲主義を尊重しない国家権力に対する予想外の脆さを露呈させたからで、現行憲法は「安倍政権」を予定していなかった。安倍政権の横暴を正すべく、権力統制規範たる憲法の「価値」を守るため、憲法の「文字」を変える必要がある。機能不全を改善するための憲法改正から逃げるべきではない。
(2) 日本国憲法の「規律密度」が相対的に低いため、その行間を埋めてきた憲法解釈を尊重せずに、恣意的に歪曲するタイプの政権には統制力が弱くなる。だから、行間を埋めてきた適切な解釈を明文化することで恣意性の余地を減らす。
(3) そのような政権の恣意的憲法解釈を正す現実的手段を予定していない。そのために、恣意的憲法解釈を事前にチェックするための機関として、政府から独立した憲法裁判所を設置する。
(4) 立憲主義の観点から、安保法制以前の自衛権の合憲的解釈を、そのまま憲法9条に明文化する。つまり、憲法9条の2、あるいは憲法9条3項を新設し、自衛権の範囲を限定する条項とする。具体的には、「旧3要件」をも書き込んで、「この要件下での個別的自衛権の行使に限る」と自衛権の範囲を明文化して歯止めにする。その際、「個別的自衛権」に限って「戦力」「交戦権」を認めるという選択もありうる。

この議論に共通しているのは、安倍政権のもとで憲法が機能不全を起こしている原因が憲法自身にあるという認識である。立憲主義を尊重しない安倍政権のような権力に対する予想外の脆さを露呈させたというが、憲法は権力者による憲法違反に対して、選挙や違憲審査制という「機能回復」の手段を用意している。ただ、国民が選挙で安倍政権を交代させることができなかっただけである。機能不全が起きているのは憲法のせいではない。違憲審査権も、ときに下級審において違憲判決が出るように、完全に機能不全になっているわけではない。山尾氏の理屈でいけば、アメリカ合衆国憲法も「トランプ政権」を予定できなかったのではないか。だからといって、「立憲主義」的な改憲論議がアメリカでされているという話は聞いたことがない。

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2点目の「規律密度」というのも問題である。憲法というのは、抽象的な規定ぶりを特徴としており、日本国憲法が比較憲法的に「規律密度」が相対的に低いという十分な根拠を示してもらいたい。政府の長年にわたる憲法解釈を「7.1閣議決定」で破った安倍首相のようなタイプの権力者は、「規律密度」が高かろうが低かろうが憲法を破ってくる。解釈の余地をなくすために、たくさんの条文を詳しく書き加えていくことで「規律密度」が増すという保証はない。例えば、憲法15条2項の「規律密度」は低いのか。「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」と定められているが、森友学園問題や加計学園問題のような権力の私物化が行われ、「行政がゆがめられた」(前川喜平・前文科事務次官)とされる現実はなくならない。だからといって、15条2項に、職務専念義務(国家公務員法96条、地方公務員法30条)や信用失墜行為の禁止(同99条、同33条)などを「加憲」したら「規律密度」は高まるのか。

3点目。政権の恣意的憲法解釈を正す現実的手段として憲法裁判所の設置が主張されていることである。倉持氏はより突っ込んで、憲法裁判所によって、「憲法を権力者に「強制執行」する」とまで弾けて語っている。この憲法裁判所論はあまりに素朴で、ピュアすぎる。本気で提言しているのか疑わしいほどである。そもそも憲法裁判所といっても、ドイツの連邦憲法裁判所は、ドイツ基本法の全体の仕組みのなかで機能しているのであって、扱う事件の9割以上は、憲法異議という個人の基本権侵害に対する救済である。政権の恣意的憲法解釈を正すということのために設置しても、合憲判断積極主義に機能して、政府の違憲行為をことごとく合憲化するお墨付きを与えないとも限らない。政権べったりの憲法裁判所が生まれる可能性を頭から否定できるか。憲法裁判所を設置することで、「憲法の規範性・強制力を担保すべきである」「権力者に対して憲法を「強制執行」するのだ」というのだが、法律専門家としてはあまりにも安易な主張である。そもそも安倍首相のような憲法違反の常習者がどうして憲法裁判所の判断にはまじめに従うのか

4点目として、憲法9条の2、あるいは憲法9条3項を新設し、自衛権の範囲を限定する条文にするというが、これでは自民党の7案のなかのものとあまり変わらない。「旧3要件」をも書き込んで、「この要件下での個別的自衛権の行使に限る」と自衛権の範囲を明文化して歯止めにするという。だが、「個別的自衛権」に限って「戦力」「交戦権」を認めるという選択もありうるというのは仰天である。憲法学界では超少数説であり、かつ政府解釈においても採用されず、「7.1閣議決定」後も事情は同じである。「自衛戦力合憲論」をとる論者のラインに並ぶことになるという自覚はあるのだろうか。自衛隊は「戦力」に当たらないというのがこれまでの政府解釈だったのに、自衛隊が「戦力」に当たると位置付け直すのにいかなる意味があるのか。自衛隊は「戦力」なのだから、今の自衛隊よりもさらにパワーアップした軍隊となる。法律論は、法律要件からどのような法律効果が生じるかである。要件が変われば効果が変わる。単なる説明の仕方の問題ではない。

なお、山尾氏が依拠している(と思われる)「倉持的9条改正提案Ver2.0」にも、「個別的自衛権を行使する限りにおいて、交戦権行使・戦力保持を認める」とあり、さらに進んで、「軍の存在を真正面から認め、これを国会(シビリアンコントロール)、内閣(内閣の権能としての軍事の明記)、司法(軍法会議の創設)、財政(予算措置からの統制)という、統治規定の総力戦で統制していく。」とある。ここまでくると、「軍事的なるもの」のリアリティのない改憲遊戯に脱力せざるを得ない。自民党改憲草案でさえ、「国防軍に審判所を置く」として「軍法会議」という表現を使っていない。倉持案9条の2第3項には、「個別的自衛権及び前項の交戦権の行使のための必要最小限度の戦力を保持することができる」とあり、1954年以降の政府解釈が「必要最小限度の実力」=自衛力→自衛隊としたのは、戦力は違憲という解釈が前提にあったからである。「必要最小限度の戦力」というのは、自衛戦力合憲論者もとらない。

というわけで、安倍流の9条改憲論に対峙するという主観的意図のもとで展開されている「改憲論戯」について、岩波書店の雑誌『世界』1月号に書いた論稿を下記に掲載することにしたい。

安倍「九条加憲」に対案は必要ない
――憲法改正の「作法」――
水島朝穂
■ 情緒的な、あまりに情緒的な・・・

日本国憲法施行70周年の日、安倍晋三首相は、憲法9条1項、2項を存続させて、「9条に自衛隊を書き込む」という提案を唐突に行った。そして、総選挙前後から、「自衛隊は合憲と言い切っている学者は2割にしかすぎない。教科書にも自衛隊違憲という記述があり、自衛隊員の子どもたちもその教科書で学んでいる。『お父さん憲法違反なの?』と言われた自衛官はたいへん悲しい思いになった。その状況を変えていく責任がある」という言い方をするようになった。「子どもたち」をダシに使う手法には既視感がある。

2014年5月15日、集団的自衛権行使を合憲とする安保法制懇報告書についての記者会見である。安倍首相は、米輸送艦に乗る乳児を抱く母親とそれに寄り添う幼児のイラストのカラーパネルを使ってこう語った。「まさに紛争国から逃れようとしているお父さんやお母さんやおじいさんやおばあさん、子どもたちかもしれない。彼らが乗っている米国の船をいま私たちは守ることができない」と。何とも情緒的な説明だった。この会見前日、「パネルで俺は勝負する」といって、首相自ら図案を決めたという(『産経新聞』2014年5月16日付)。このノリで、いま安倍首相は、憲法研究者をやり玉にあげ、自衛官の子どもたちを登場させて、法改正という高度に論理的思考が求められる事柄に、またも情緒的な物言いを意識的に持込み、論理をスルーする傾きを増しながら、改憲に向けて「スピード感」をもって臨んでいる。こういう状況だからこそ、憲法論議の仕方について、あたりまえのことをあたりまえに語っておきたいと思う。

■ 憲法改正の「三つの作法」

10年ほど前から私は、憲法改正については、(1) 高度の説明責任、(2) 情報の公開と自由な討論、(3) 熟慮の期間という「三つの作法」が前提に置かれるべきだと指摘してきた(水島朝穂『憲法「私」論』小学館、2006年)。

まず、「高度の説明責任」とは、憲法改正では、憲法を積極的に「変える」という側に、高度の説明責任が課せられるということである。この「負荷」は、憲法9条と自衛隊が矛盾しているからとか、制定から何十年もたったからといった程度の説明ではクリアされず、憲法を変えないことによる「不具合」や「不都合」が、より具体的に説明されなければならない。それだけでなく、憲法を改めることによってしか、その問題は解決できないということも具体的に明らかにされる必要がある。自衛隊を解釈で認めてきたということは軍事に対する日本の「自制政策」といえ、日本の「平和憲法」は諸外国でも肯定的に受け入れられている。自衛隊の「明記」は、この絶妙な「自制政策」を放棄するということであり、単なる「現状維持」にとどまらない。

次に、関連する情報の公開と自由な討論の機会が確保されなければならない。改憲論にはイメージ満載の「宣伝」が大量に投与されるからである。ここで想起されるのは、1917年、ウッドロウ・ウィルソン米大統領は「クリール委員会」を設置し、組織的宣伝活動を展開した。これにより「半年足らずでみごとに平和主義の世論をヒステリックな戦争賛成論に転換させた」、「必要なのは、誰も反対しようとしないスローガンなのだ。それが何を意味しているのか、誰も知らない」(ノーム・チョムスキー=鈴木主税訳『メディア・コントロール』集英社新書、2003年)13、27貢)。安倍流自衛隊明記案も、これに類似しているだけに曲者である。

最近ある論者が、憲法学と憲法研究者に対して、「ガラパゴス化」といった論難(難癖の類)を反復継続してメディアやネットに発信しており、これが中身も読まずにリツイートされて、憲法学や憲法研究者に対するネガティヴな「空気」が醸成されている。どんな難癖の類でも、それがネット空間に定着すれば、影響力をもつ。私も必要に迫られて対応を行った(連載「憲法研究者に対する執拗な論難に答える」)。

最後に、熟慮の期間として、議論のために十分な時間が必要という点だが、これはまったく顧慮されていない。安倍首相は「2020年まで」と自己都合で改憲期限を設定するなど、落ち着いた議論環境はとうてい期待できない。一体、このせわしさは何だろう。自衛隊明記案は唐突に登場したという経緯からしても、その動機や必要性は後述するように、かなりブラックである。憲法改正と北朝鮮の動向が直結して議論され、改憲の気運と気分が醸成されている。憲法改正の「作法」がまったく踏まえられていない。

■ 北朝鮮の脅威と自衛隊の明記

安倍首相は、衆議院解散を正式表明した2017年9月25日夕方の記者会見で、「北朝鮮がこういう状況の中にあって最前線で頑張っている自衛隊の皆さんがいる。」「基本的には自衛隊の存在を明記することに向けて議論が進んでいく」と語った。だが、自衛隊を明記しても自衛隊の権限は現状と何ら変わらないと主張するならば、北朝鮮の「脅威」は自衛隊明記という改憲の理由にならない。

北朝鮮の脅威について、2002年、韓国の国防大学校で、陸軍中将の総長をはじめ、現役大佐クラスの教授たちと率直に意見を交換したことがある。日本の民間研究者との交流は、韓国軍として初めてという貴重な機会だった。その場でテロ対策の専門家の教授(陸軍大佐)は、「北の脅威」について、「過去の権威主義的政権があまりに過剰に脅威を煽り、『脅威の日常化』が起こっていた」と指摘した。ソウルは38度線からわずか47キロ。北朝鮮の重砲の射程内にある。「50年間の繁栄を守るためには戦争をしてはならない。脅威はあるが、戦争を抑止するためにあらゆることをする」と、彼はきっぱり言い切った(直言「北東アジアの安全保障を考える(3)」)。

この韓国の冷静さに比べ、日本では北朝鮮からミサイルが発射されるたびに空騒ぎが起こる。私が「朝鮮君主主義臣民共和国」と呼ぶ国の二代目、三代目指導者がミサイル(最初は「人工衛星」)を国際政治的玩具として利用しているのは、いまに始まったことではない。米韓合同軍事演習に合わせて緊張を高める動きに出てくることは、もはや年中行事ですらある。8月29日に北朝鮮のミサイルが最高高度約550キロの日本の「上空」を通過、襟裳岬の東約1180キロの太平洋に落下し、Jアラートが鳴り響く騒ぎとなった。9月15日のミサイルは最高高度約800キロで、襟裳岬の東約2200キロの太平洋に落下した。政府は日本「上空」というが、国際宇宙ステーションは高度400キロを飛行しており、「上空といっても宇宙空間」(2005年3月9日参議院予算委員会・大野防衛庁長官答弁)である。また、日本の排他的経済水域(EEZ)は370.4キロであるから、着水地点は日本のEEZのはるか彼方の公海上である。

後述するように、小泉純一郎首相(当時)と金正日の会談で金正日は「我々を侵害しない限り、我々は決して武力行使しない」といっており、2002年の日朝平壌宣言にもその旨が盛り込まれている。金正恩はこの「遺訓」もあり、ミサイルを日本に物理的影響が及ばない宇宙空間通過と太平洋はるか彼方の公海上着弾にとどめざるを得ないわけである。だから、これを「脅威」と騒ぐことはミサイル発射を「日本が慌てふためく大胆な作戦」と主張する北朝鮮を利するも同然である。

さらに、ミサイルの燃料である猛毒のヒドラジンが降ってくると危険だとマスコミや「専門家」が主張していたが、2012年に発射された北朝鮮の「銀河3号」(「テポドン2」派生型)の残骸を回収した韓国国防部の分析「北朝鮮長距離ミサイル残骸調査」〔PDFファイル〕)によれば、「燃料はケロシンに一部炭化水素系列化合物が添加された混合物を使用」、「ケロシンは灯油の一種で汎用(航空機等)として使用」とされている。燃料はケロシンという灯油の一種にすぎなかったわけである。ちなみに、在日米軍のF16戦闘機は過去に何度か日本で墜落しているが、その緊急動力装置にはヒドラジンが使用されている(1999年3月2日参議院予算委員会・野呂田防衛庁長官答弁)。イージス艦とPAC-3が実戦で弾道ミサイルを撃墜できる技術的な可能性は低く、国民に根拠のない安心感を提供するだけの代物にすぎないこともすでに指摘されている。

自衛隊を明記しても「北朝鮮の脅威」が減じることはない。北朝鮮のミサイル問題に対し、国民は理性的な思考を維持し続けることが大切だろう。空から毒ガスがまかれるぞと恐怖を煽り、東京でも防空訓練を実施しようとしたとき、『信濃毎日新聞』(1933年8月11日付)に桐生悠々は「関東防空大演習を嗤う」を書いた。悠々曰く。「帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショー〔操り人形劇〕に過ぎない」(桐生悠々『畜生道の地球』中公文庫、1989年所収)。

■ 自衛隊違憲論の一掃?

安倍首相は、自衛隊明記により「自衛隊違憲論を一掃する」という。だが、自衛隊を明記したとしても、自衛隊は9条2項の「戦力」不保持の規範的影響は受け続ける。政府解釈では、9条2項の「戦力」と「自衛のための必要最小限度の実力」である「自衛力」は別次元の概念であるから、自衛隊を明記したとしても、「自衛力」である自衛隊は9条2項の「戦力」不保持の規範による制限を受け続ける。つまり、9条2項の「戦力」不保持規定は、憲法に明記された自衛隊が「戦力」に該当しないように、「自衛力」の範囲内に押し止まるように、自衛隊の軍拡に対して制約をし続けるのである。

米国の軍事力評価機関Global Firepowerの2017年軍事力ランキングによれば、世界の軍事力は上位から、米国、ロシア、中国、インド、フランス、英国、日本、トルコ、ドイツ、エジプト、イタリア、韓国と続き、北朝鮮は23位である。日本は7位で軍事力指数は0・2137、6位の英国の軍事力指数は0・2131であり、日本は英国と僅差、9位のドイツ(0・2609)や12位の韓国(0・2741)よりも上位である。これが果たして、「自衛のための必要最小限度の実力」の範囲内といえるだろうか。自衛隊が9条2項の「戦力」に該当し違憲であると判断した長沼ナイキ基地訴訟第一審判決(札幌地裁・1973年9月7日)は、陸上自衛隊の「装備は、いずれも兵器として、現在世界各国の陸軍の保有する一流の兵器にくらべてなんら遜色のない性能をもつものであり、また、旧日本陸軍の装備と比較しても、一個師団あたり、火力においては約4倍、また機動力、通信力を含めた総合戦力では約10倍の威力をもつている。」と判示していた。自衛隊が明記されても、その後の展開のなかで、「戦力」に該当し違憲であるとする司法判断が出る可能性は残る。

他方で、政府は、軍拡を行ったとしても「自衛力」の範囲内であると強弁を続けることになるだろう。結果、「戦力」概念の骨抜き、換骨奪胎が完成する。そして、新たな自衛隊の根拠規定は独り歩きを始める。そうなれば、これまで9条2項が自衛隊に対して果たしてきた立憲的統制のダイナミズムが崩壊して、「自衛隊」のまま「軍隊」となる。「憲法条文内のクーデター」と言えようか。他方で、新9条で自衛隊「自体」が合憲になったとしても、自衛隊の個別の装備や組織のありようが「戦力」に該当することはあり得るから、自衛隊の違憲性は問われ続ける。そうなれば、「神学論争をやめよう」という「印象操作」が蔓延し、9条2項が葬られるのは時間の問題であろう。

これは単なる想像ではない。2017年5月3日の日本会議系「第19回公開憲法フォーラム」で、安倍首相のビデオメッセージが流され、自衛隊明記が提案された。安倍首相は、この日本会議を支援する日本会議国会議員懇談会に所属している。自衛隊明記案は、梶田陽介氏の「安倍首相の「9条に自衛隊明記」改憲案は日本会議幹部の発案だった!「加憲で護憲派を分断し9条を空文化せよ」」により、日本会議常任理事で政策委員の伊藤哲夫氏の提案である可能性が指摘されている。梶田氏の指摘によれば、伊藤氏は「(平和、人権、民主主義には)一切触れず、ただ憲法に不足しているところを補うだけの憲法修正=つまり加憲」を「あくまでも現在の国民世論の現実を踏まえた苦肉の提案でもある」とし、「まずはかかる道で「普通の国家」になることをめざし、その上でいつの日か、真の「日本」になっていくということだ」と主張している。

また、日本会議系の日本政策研究センター『明日への選択』2017年11月号の論文「今こそ自衛隊に憲法上の地位と能力を!」で、同センター研究部長の小坂実氏の次の指摘が紹介されている。「「戦力」の保持を禁じ、自衛隊の能力を不当に縛っている9条2項は、今や国家国民の生存を妨げる障害物と化したと言っても過言ではない。速やかに9条2項を削除するか、あるいは自衛隊を明記した第3項を加えて2項を空文化させるべきである」。日本会議という「怪しげなナショナリストのロビー団体、戦前懐古(ノスタルジー)の団体」(『南ドイツ新聞』2017年3月24日付の表現)が自衛隊明記の先に考えていることは、戦前の大日本帝国憲法体制への復古であろう。齋藤隆・元統幕長も、自衛隊の「根拠規定が明記され、合憲と整理された後に、軍隊とは何か、自衛隊とどう違うのかなどのかみ合った議論につながっていくのではないか。軍事法廷の要否、戦死者の問題、本格的な集団的自衛権に踏み込むべきか否かなどの論点もある」(『読売新聞』5月30日付)という。単なる自衛隊の明記では済まないという本音が露呈している。

■ 自衛のための核兵器

「自衛力」に関連して、9条2項は「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と規定しているが、政府解釈は、自衛のための必要最小限度の範囲内にとどまれば、核兵器を保有することも合憲と解釈している。したがって、「自衛力」の明記で、「自衛のための」核兵器(まるで北朝鮮!)の保有が可能であることが憲法上確定する。

2017年7月7日に国連で核兵器禁止条約が採択されたが、安倍政権は条約に参加しない態度であり、危険極まりないトランプ政権の核兵器に期待し、寄り添う姿勢を明確にした。だが、核兵器はどうみても「戦力」に該当する。「自衛力」の明記で、核武装を禁止する憲法上の根拠が失われる。自衛隊の明記は「現状維持だから安心」ではない。維持されるというまさにその「現状」に危険な内容が含まれているのである。

■ 「自衛」概念の濫用

安倍政権は、「自衛のための必要最小限度の実力」に集団的自衛権の一部が含まれるという違憲の解釈変更を行ったので、明記される「自衛力」には集団的自衛権の一部が含まれることになる。安倍流「自衛力」の明記で、政府の憲法解釈を「専守防衛」まで引き戻す憲法上の根拠が失われる。北朝鮮から攻撃を受けていなくても、日本が集団的自衛権を行使して北朝鮮を攻撃すれば、北朝鮮からみれば日本が先に攻撃したことになるから、北朝鮮からの報復攻撃は免れない。2002年の日朝平壌宣言には「互いの安全を脅かす行動をとらないことを確認した」とある。北朝鮮の公式文献である朝鮮労働党出版社『我が党の先軍政治(増補版)』(2006年)は、小泉純一郎首相(当時)と金正日の会談で、「偉大な将軍は、…誰であっても我々を侵害しない限り我々は決して武力行使しないこと・・・について、明らかになさった」という(水島朝穂『ライブ講義 徹底分析!集団的自衛権』岩波書店、2015年参照)。これをそのまま楽観的に評価することはできないものの、日本が先に攻撃しない限りは武力行使をしないという「遺訓」は金正恩も(少なくとも表向きは)継承しているはずだから、北朝鮮を先に攻撃することを表明する安倍政権は、北朝鮮を過度に挑発する結果となって、日本および日本国民に対する脅威を高めることになりかねないことは指摘しておかねばならない。

また、安倍政権により従来の政府解釈の「自衛」概念が濫用されたことを考えれば、戦前の日本軍が満州事変と上海事変を自衛権行使としたように(海軍大臣官房編『軍艦外務令解説』1938年。前掲・拙著『ライブ講義』参照)、新9条の「自衛」の拡大解釈を防ぐ手立てはないことにも注意しておく必要がある。北朝鮮でさえ、憲法60条で「自衛的軍事路線を貫徹する」と定めているところである。無自覚に「自衛」を押し出していくことの危うさは明らかではないか。

■ 「名誉と誇り」のための改憲

元自衛官の佐藤正久参議院議員は自衛隊明記案について「まずは現場の自衛官が名誉と誇りを持って任務遂行できる環境をつくることを優先すべきだ」と主張している(『明日への選択』2017年8月号)。だが、これは改憲の理由にはならない。自衛隊を明記しても、自衛隊の実態は「戦力」に該当するとして憲法違反の疑いは指摘され続けるからである。

自衛隊の統合幕僚長(旧統合幕僚会議議長)には、政治の統制や防衛省内局などを意に介さない「政治的軍人」が多い。制服組トップの統合幕僚会議議長だった栗栖弘臣は、「いざ戦闘となれば自衛隊は独断する」「徴兵制は有効だ」「いざとなれば超法規で戦闘突入する」と発言して解任され、竹田五郎統幕議長は、徴兵制は憲法違反という政府統一見解を公然と批判し、当時の政府がとっていた「防衛費GNP1%枠」と「専守防衛」も批判した。第一次安倍政権の時に海幕長から統幕長になった齋藤隆は、「国家革新を唱える右翼的な人物」として、長らく公安当局にマークされていた(川邉克朗「瀕死のシビリアン・コントロール(1)」本誌2007年7月号参照)。現在の安倍政権の河野克俊統幕長(同じく海出身)は、自衛隊を憲法に明記する提案を「非常にありがたい」と述べた。自衛隊では、このような危険な「政治的軍人」がトップに座ってきた。

自衛隊が天皇、国会、内閣、裁判所、会計検査院と並ぶ憲法上の機関に格上げされれば、自衛隊に一定の権威が与えられることになる。今も暴走している「政治的軍人」やそれを支援する「軍事過多」の政治家たちが勘違いした「名誉と誇り」を持ったとたん、軍隊が大きな顔をする社会になり、市民社会に軍事的思考が浸透していくことは目に見えている。

実際、安倍首相は「日本国という存在・・・それそのものが危機に瀕したときには、言わば自由や民主主義や法の秩序を守るためにも様々な協力をしていただく、しかしそれは兵役ではない」(2013年5月15日参議院予算委員会)と答弁した。憲法に軍事組織が明記されれば、「兵役」と呼ばなくても、市民に何らかの防衛負担を課す憲法上の根拠規定と読む主張が出てくるだろう。

■ 九条改憲に対案は必要ない

9条改憲に賛成する人々は、反対する者に対して「対案」を出せという。最近のこのような、現状への批判的姿勢を欠いたまま何らかの「対案」を出すことを自己目的化する傾向は、「対案オブセッション(強迫観念)」と言える。だが、こういう場合の最も明確な「対案」は、その改憲に反対するということである。違法行為が行われているとき、これに協力しないこと以外の「対案」は必要ない。違憲行為に続く改憲行為に対しても同様である。

2016年、防衛庁長官等を歴任した加藤紘一・元自民党幹事長の告別式における山崎拓・元自民党副総裁の弔辞によれば、山崎氏の「君は本当に憲法9条改正に反対か」という問いに加藤氏が「うん」と答え、山崎氏の「一言一句もか」の問いに加藤氏が「そうだよ。9条が日本の平和を守っているんだよ」と断言したという。また、野中広務・元自民党幹事長は、安倍案について2017年7月4日記者団に語った。「僕は反対です。私みたいに戦争に行って戦争で死なないでかえってきた人間は、再び戦争になるような道は歩むべきではないと。これが私の信念です。死ななかったから今日の私があるんですから。死んでいった連中を今思い起こしても、本当に戦争というものを二度と起こしてはならない。それが私の今日までの姿です。」と。このような往時の保守政治家にあった、戦争体験に裏打ちされた「軍事への抑制」の視点が安倍首相やその支持者、「対案」を提案する論者たちには決定的に欠けている。山尾志桜里衆議院議員の「政策顧問」倉持麟太郎弁護士の「改憲提案」も同様である(拙稿「「安倍ファースト」改憲に対案は必要か」朝日新聞WEBRONZA 2017年11月22日参照)。

立憲民主党代表の枝野幸男氏は、民進党幹事長であった2016年、自民党の憲法改正草案について、「現行憲法こそが、我々の堂々たる対案であります」と述べた(『朝日新聞』2016年6月27日付)。同年5月18日の党首討論で「お互いに案を示しあっていく」ことを求める安倍首相に対し、岡田克也民進党代表は、「私は、今の憲法9条を当面変える必要はないと思っているんです。だから、案もないんです。今の憲法でいい、9条でいいということですから。」と述べた。いずれもその通りだが、この主張は維持できているか。

憲法を変える側が、「なぜ変えるのか」の説明に失敗すれば、憲法はそのまま残る。「お試し改憲」や「あら探し改憲」など、強引な改憲論議は、前述した憲法改正の「作法」に反する。とりわけ安倍晋三という「憲法違反常習首相」の政権に対しては、浮足立って対案を提起するのではなく、腰を据えて「ノー」を言い続けることこそが、最大にして最良の「対案」であろう。

(『世界』(岩波書店)2018年1月号64-71頁)

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