東日本大震災7年の福島と憲法——「帰還困難区域」にも
2018年4月2日

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2018年3月は、歴史の上で大きな変動期として記録され、記憶されるだろう。国内的には、いまや「安倍ゲート」と総称されつつある「モリ・カケ・ヤマ・アサ・スパ」問題のうち、モリ(森友学園問題)をめぐる財務省の公文書改ざん問題が一気に浮上し、佐川前理財局長の証人喚問にまで発展したこと。佐川氏が刑事訴追を理由とした証言拒否を50回以上繰り返して、一見「幕引き」可能かと政権側は安堵したようだが、むしろ国民の怒りは「マグマ溜まり」のような状態になっていることを知るべきだろう。だが、安倍首相だけは「憲法に自衛隊を明記し、違憲論争に終止符を打とう」と鼻息が荒い(3月25日の自民党大会での演説)。党大会では、安倍流フェイク改憲の方針が一応確認されたものの、党内が一致して改憲に向かうというにはかなり距離がある。翌日の新聞には、「改憲論議 年内困難に」「安倍政権 視界不良」「改憲論議 党内からも「拙速」」といった見出しがおどった(『朝日新聞』3月26日付2面「時時刻刻」など)。

世界に目を転じれば、この3月は、東アジアの状況が激変する兆候がほぼ同時にあらわれた。南北首脳会談の4月開催が決まり、米朝首脳会談への蛇行が始まった。そして突然の中朝首脳会談である。5年前に直言「北東アジアの危うい現実—六カ国協議の再起動に向けて」を出した頃からみれば考えられないような変動が起こり始めている。先月中旬の直言「「地球儀を俯瞰する外交」の終わり—トランプと「100%一致」の末に」でも予告した通り、「100%一致する」というトランプにはしごを外され、日本は今やすべてカヤの外で、「地球儀を俯瞰する外交」の終わりは誰の目にも明らかだろう。

さて、7年前、東日本大震災発生の直後に福島県郡山市から岩手県大槌町までまわった。その取材結果は、拙著『東日本大震災と憲法』(早稲田大学出版部、2012年)にまとめてある。あるいは、『法律時報』2011年7月号の拙稿も参照されたい。より詳しくは、直言バックナンバーの「災害、特に東日本大震災」のカテゴリーをクリックすれば、2011年3月21日以降、折に触れて取り上げているのでいつでも読むことができる。福島には震災1年の時点で行き、「「復興」と「仮の町」」を出し、そのあとも何度か訪れている。

先週、久しぶりに福島に滞在した。安倍政権が「明治150年」のキャンペーンを始めたのに対して、福島では「戊辰150周年」と切り返しているので、この機会に「戊辰戦争」の現場を訪れることにしたのだ。5年前の白河講演の際、地元の方に「白河口の戦い」の旧跡を案内してもらったが、じっくり「会津戦争」の現場の方を見て回ったのは初めてである。「戊辰戦争150年」については、長州出身の安倍首相が「明治150年」を前面に押し出してきたら改めて書きたいと思う。

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今回は、会津から裏磐梯をまわったあと、太平洋側の浜通りまで福島県を横断して、国道6号線を走って「帰還困難区域」に行った。途中、川俣町から飯舘村に入り、道の駅「までい館」に寄った。名産品なども売られており、ここで福島県産のアイスクリームを食べた。7年前に訪れた飯舘村について、直言「大震災の現場を行く(1)—郡山から南相馬へ」にこうある。「(村の)全域が「計画的避難区域」に指定され、政府は住民に概ね1カ月以内に避難せよというが、村民には不安と混乱が広がっている。「この村は原発と無関係で、電源三法関係の交付金をもらわず、自分たちの力でよい村づくりをやってきたので、本当に気の毒なんですよ」と藤野さん〔藤野美都子福島県立医大教授〕。「ほんの森・いいたて」という村営の本屋さんもあり、「立ち読みOK」で、定期的な読み聞かせの会も開いているという。村内を走ると、「飯舘牛」の看板が目立つ。このブランドに対するダメージははかり知れない。・・・」 その後、全村避難となって、村民の生活は激変した。7年前閉鎖されていた村役場に入り、『までいの村に陽はまた昇る——飯舘村全村避難4年半のあゆみ』(飯舘村、2015年)をいただいた。その冒頭には、「飯舘村は、自主自立の村を目指し、村民と行政とが知恵をしぼり力を合わせて、までいに(ていねいに・心をこめて)村づくりを進めてきました・・・」とある。藤野さんもいう通り、原発の補助金はもらわずに自主的な行政を行ってきた誇り高い村が、原発事故の影響を特に大きく受けることになったのは何とも口惜しい。役場でもらった村の広報(3月11日付)をみると、今年の2月現在、帰村者は254軒、491人である。

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かつて足尾銅山の鉱毒で強制廃村に追い込まれた谷中村のように、飯舘村や浜通りの市町村は、田中正造流にいえば「合成(複合)加害」の被害を受けているわけである。原発事故ではなく、「東日本大震災・福島原発加害」である。足尾銅山の問題で先頭に立って尽力した政治家、田中正造は命をかけて政府を糾弾した。「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」と。

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スポーツ走行のできる車に買い換えていたので、東京からずっと走り続けていたが疲れはなかった。車は南相馬市に入る。7年前、原発20キロ圏内のため災害対策基本法に基づく警戒区域にとなって通行が禁止された県道も走った。7年前のその時のことが周囲の風景とともによみがえった。

市内に入ると海側に白い大きな煙突が見える。東北電力原町火力発電所である。近づいていくと、かつては津波のため荒れていた海岸地域に真新しい白い堤防がつくられていた。この発電所は18メートルの津波の直撃で大きな被害を出した。火災も発生し、石炭船が沈没した。福島第一原発事故による「緊急時避難準備区域」内にあったため復旧が遅れたが、2011年9月に当該区域の解除により復旧作業が始まり、2013年4月に営業運転を再開した。福島のこの地域の人々は東北電力の電気を使う。福島第一原発は東京電力である。東京都民に電気を供給していた福島第一原発が事故を起こして福島の人々にすさまじい被害を与えている。このことは忘れてはならないだろう。

農家民宿に泊まり、翌朝、南相馬市役所に着く。7年前は、2階の大会議室が南相馬市災害対策本部になっており、私も傍聴した。桜井勝延市長(当時)のもと、市の職員だけでなく、警察、自衛隊、消防、他県からの応援組も参加していた。2011年4月当時、自衛隊では精鋭の第1空挺団が南相馬市に投入されて、遺体捜索などにあたっていた

なお、南相馬市議会は2014年6月、集団的自衛権の行使容認に反対する意見書を全会一致で決議している。意見書末尾にはこうある。「本市は、大震災と大津波及び原子力災害により甚大な被害を受けているが、自衛隊の災害派遣・支援によって大いに助けられたところである。特に福島第一原発から30キロメートル圏内、20キロメートル圏内にいち早く捜索に入るなど、国民と国土を守るために身を挺したことに、心からの敬意と感謝を表している。その自衛隊員が海外に出て行って武力を行使することは到底容認できない」と。

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実は、今回の福島滞在のもう一つの目的は、南相馬市小高区にある、憲法学者・鈴木安蔵の生家を訪れることだった(『毎日新聞』2016年5月18日大阪夕刊)。田林信哉副市長をはじめ、教育委員会文化財課など南相馬市の職員の方々のご配慮で、生家のなかにも入ることができ、保存をめぐるさまざまな話をうかがうことができた。

鈴木安蔵は、戦争直後の1945年9月、高野岩三郎や森戸辰男、室伏高信らと「憲法研究会」を創設。鈴木が起草した「憲法草案要綱」(第3案まで)に連合国軍総司令部(GHQ)民生局のラウエル中佐が注目し、日本国憲法制定過程におけるGHQ案起草の参考にされた。とりわけ、この草案が国民主権を明確にすると同時に、天皇が国政に関する権能を有せず、「国家的儀礼ヲ司ル」としている点は、現行憲法の象徴天皇制につながったとみられている。また、「国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス」という条項は、現行憲法25条に影響を与えている。

『東京新聞』3月4日付の一面トップ記事は、日本国憲法を「創案した学者。生家と生存権守らねば」「安蔵の志 継ぐ」という見だしで、生家保存の動きを報じている。記事は鈴木安蔵が起草した憲法草案に生存権が明記されていたことから、「その生誕の地が東京電力福島第一原発事故によって汚染され、多くの住民の生存権が踏みにじられてきた。」と書いている。生家はJR小高駅の駅前通りの少し先にあり、震災で土蔵の壁が崩れたが、大正時代に建てられた建物は落ちついた日本家屋である。原発事故で13000人が生活していた小高は、2016年7月に避難指示が解除されたものの、帰還率は2割程度という。鈴木の生家周辺は解体家屋が目立ち、更地が増えている。生家も取り壊すことになったため、これを保存しようという人々が行政とタイアップして動いたものである。今回訪れてみて、鈴木が中学までを過ごした家を保存することは、原発事故と憲法、生存権がここでリアルにつながるという意味で大変意義深いと思った。

なお、この通りをはさんだ少し先には、芥川賞作家の柳美里さんの家がある。田林副市長のはからいで柳さんにもお会いして、まもなく自宅にオープンする書店「フルハウス」を見せていただいた。柳さんは、「学校帰りに駅で電車を待つ高校生たちが、時間をつぶせる場所として考えました」という。私が拝見したときはまだ準備段階で、書籍の一部が並べられていた。自宅奥には小さな劇場も出来上がっていて、ここで演劇や対談講演なども行われる予定という。

ところで、鈴木は、憲法理論研究会の創設者である(直言「憲法理論研究会と鈴木安蔵のこと」参照)。私も2010年から2年間、代表を務めた、会員約350人の憲法研究者の学会である。ホームページには、創設者鈴木安蔵についてのコーナーも設けてあるので参照されたい。鈴木の生家が保存され、著作や資料が展示されれば、日本国憲法制定に関わった学者が生まれた場所と原発事故で「生活権」を脅かされている地域と人々という形で憲法の問題を考えることができる。同時に、安倍首相がさかんに「憲法学者が自衛隊違憲をいうから改憲する」という奇妙な「論理」を展開して憲法研究者に対して圧迫的な空気を醸しだしている今日、日本国憲法の原点を考える上でも絶好の場所といえるのではないか。

小高から国道6号線に入る。道路の両側は柵やフェンスが設けられ、道路から外れることができないようになっている。「帰還困難区域」の標識が目立つ。冒頭の写真を見ていただきたい。「注意 国道6号北方 「帰還困難区域」につき 自動二輪車 原動機付き自転車 軽車両 歩行者は通行できません 原子力災害対策本部 富岡町」とある。車から外に出ることはできず、右折も左折もできない。横道に入ろうとすると、警備員が立っていて通行を規制する。民家も商店もドライブインなどもすべて荒れ放題で、浪江町から富岡町北部まで、「帰還困難区域」を縦断する国道6号線は、ハンドルを握る手に汗がにじみ、緊張を強いられる。

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そこで想起されるのが、2013年9月7日、ブエノスアイレスで行われた国際オリンピック委員会(IOC)総会における安倍首相の最終プレゼンである。直言「東京オリンピック招致の思想と行動—福島からの「距離」」で詳しく触れたが、安倍首相は「アンダー・コントロール」(under control)という言葉を使い、「(福島第一原発の)状況はコントロールされています」「汚染による影響は福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメートルの範囲内で完全にブロックされています」と言い切った。「東京は世界で最も安全な都市の一つです。それは今でも、2020年でも一緒です。フクシマについて案じる向きには、私が皆さんにお約束します。状況はコントロールされています。東京には、いかなるダメージもこれまで与えたことはなく、今後も与えることはありません」「健康問題については、今までも現在も将来も、まったく問題はありません」とも。オリンピック誘致のための訴えだったとしても、「過去・現在・未来」にわたって「まったく問題ない」と断言する根拠は何か。甲状腺異常に苦しむ子どもたち、国の不十分な情報伝達のため、放射線量の高い地域に避難して被曝してしまった人々、高い放射線量のなか、収束作業にたずさわる原発作業員のことは思い浮かばなかったのか。「東北復興 しっかりと、着実に」というポスター(冒頭の写真)の近くに、除染土の仮置き場がある。安倍首相はこの5年前の演説のことなどもう忘れて、「2020年まで」と、「オリンピック便乗型改憲」を押し進めていこうとするのだろうか。

南相馬市役所の階段のところに、前川喜平・前文科事務次官の講演会のポスターが貼ってあった。主催は「ベテランママの会」。後援は南相馬市、朝日新聞支局、二つの地元紙である。名古屋の公立学校とは違って、安倍チルドレン議員が圧力をかけようにもできないような企画である。会場となる小高生涯学習センターは、鈴木安蔵の生家と同じ町内にある。前川さんの講演の案内にこうある。「「平和」と「人権」と「民主主義」という人類普遍の価値を拡大し、地球規模の持続可能な開発を実現するため、日本という国に生きる我々は何をすれば良いのか。そのために、どのような教育が求められるのか。一緒に考えていきたいと思います。」

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