防空法の「逃げるな、火を消せ」に抗して――松山、大垣、八王子の空襲
2019年1月21日

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年5月3日の憲法記念日に松山で講演した。それから6月25日に加計学園獣医学部の取材(直言「「ゆがめられた行政」の現場へ―獣医学部新設の「魔法」」)、さらに10月14日に加計学園問題を追及している「今治市民ネットワーク」を取材した。そして、12月9日には、防空法の実際の機能について調べるため、松山空襲の体験者に直接話を聞いた。

私は34年前から防空法に注目しており(この分野で最初の論文は「「有事法制」研究と「民間防衛」――西ドイツ民間防衛法制にも触れて」久田栄正古稀記念『現代における平和憲法の使命』(三省堂、1986年)149-177頁)、さまざまな角度から検討を加えてきた(防空法制研究参照)。大阪空襲訴訟では、私の防空法制研究が意見書や証人尋問で活用された。この訴訟で知り合った大前治氏との共著『検証 防空法―空襲下で禁じられた避難』(法律文化社、2014年)の出版を契機に、防空法の存在と機能が注目されるようになった(共著者の大前氏のサイト参照)。NHKの連続テレビ小説「ごちそうさん」や同「花子とアン」で、防空法関連の事象がとりあげられ、私のホームページも参考にされたようである(最近では「わろてんか」)。

防空法の本質は、それが国民の生命を守るためではなく、住民を防空活動に動員し、戦争継続意思を低下させないということにあった(特に1941年改正法)。貴族院議員が議会で、人の命が大切だから「逃げろと言ってくれ」と迫ったが、政府の姿勢は変わらなかった(拙稿「人貴キカ、物貴キカ――防空法制から診る戦前の国家と社会」(立命館平和研究16号〔2015年〕)参照)。

検証 防空法

ところで、3月10日の東京大空襲をはじめとする大都市に対する空襲は、6月15日の尼崎空襲をもって終了した。焦土となって、もはや爆撃の必要がなくなっていたからである。にもかかわらず米軍は引き続き、中小都市空襲を開始する。「重要産業のない中小都市の空襲は「完全に無意味」」であり、「この空襲の真の狙いは、アジア諸国に米軍の破壊能力への畏怖を生ぜしめ、その新植民地主義的野心を遂げるためだった」という評価もある(O.Groehler, Geschichte des Luftkriegs 1910 bis 1970, 1975, S.491)。その最初の爆撃が6月17日の大牟田、浜松、四日市、鹿児島だった。四国に対しては、7月4日に高松(死者1359人)、徳島(死者1001人)、高知(死者401人)の爆撃が行われた。松山に対しては、7月26日深夜11時30分頃からB29爆撃機128機により焼夷弾896トンが投下された。死者251人。旧市街の城北地区などを残して焼け野原となり、全戸数の55%が被害を受けた。道後温泉と松山城は爆撃目標から外された。「これらの地域は、当初から攻撃の対象外であったから、厳密な意味では「焼け残った地域」ではないことになる」(松友正隆『「松山城」は残った―松山大空襲の記録』(愛媛ジャーナル、1989年)116-117頁)。

渡部玲子さん(平和資料館をつくる市民の会運営委員)のお世話により、松山市北持田町の愛媛県教育会館会議室で、松山空襲の体験者の皆さんとお会いすることができた。

まず、栗原美奈子さん(86歳)。女学校1年の時に空襲にあう。松山東警察署の近くに住み、警防団の人に両親が、「警察を守るために逃げたらいかん」と言われたことを覚えている。両親は、空襲が始まってからも、家の門の前に立っていた。警防団から、家の向かい側にある松山東警察署を「守る」ように言われたからという。防空法に基づいて、焼夷弾を「消す」ために待機していた。栗原さんは空襲後、両親と再会することができた。栗原さんの家や警察署にまで爆撃が及ばなかったからだけで、もし爆撃されていたら両親は死亡していただろう。

工水戸富士子さん(86歳)。「くみと」とよむ。きわめて珍しい名前で、「全国的にも、私だけでは」という。栗原さんと同じく女学校1年で空襲に遭遇した。家は街中の商店街でろうそく屋をやっていた。防空壕を掘るように隣組防空群から言われたが、店のなかの防空壕をつくったがうまくいかない。簡易なものだったため、警戒警報がなると、家族はみんな外に飛び出して逃げた。「逃げたらいかん、火を消せ」とは聞いていたが、実際にどういう強制が働いたかわからない。空襲時、日頃、お上のことをよく聞けと言っていた父親が、驚いたことに、「すぐに逃げろ」と言ったという。商店街で最も早く逃げたのが工水戸さんの一家だった。少しあとに避難しようとした家族は警防団に呼び止められ、現場にもどって焼け死んだ人もいたという。父親は、逃げる途中、家の防空壕に貴重品を投げ入れていたという。店のなかにつくった防空壕が、空襲から人の命を守るようなしろものでなかったことは、父親もよくわかっていた。工水戸さんによれば、防空壕はみんな使っていなかったという。

中山厚さん(85歳)。中学1年生だった。家や地域を守るのは当然と思っていたという。父親は日頃から、「非常時には子どもたちで逃げなさい。私はとどまる」と言っていた。防空壕を裏庭に掘ったが、1.5メートルの穴にムシロをかけたようなもので、「火災になったら、防空壕はかえって危ない」と認識していた。学徒動員から帰っていた兄は、空襲が始まると、「逃げるぞ」とすぐに避難したという。

コーディネーターの渡部さんは、同じ四国の高松空襲の資料(『高松の空襲―手記編』(高松空襲を記録する会、1973年))を紹介してくれた。例えば、戸祭恭子さんの手記(57頁)には、「防火用水で大布団を濡らして逃げようとしていたら消防士〔警防団?〕がとんできて「家をほっといてにげたらいかん。ほかの家の人が火を消してもおまえとこだけ消すもんがおらんかったらほかの家まで燃えてしまうじゃろが。はよ帰って訓練の時みたいに家を守るんじゃ」と言われた」とある。また、喜田清さんの手記(151頁)には、「…焼夷弾の降下で防空壕に逃げ込む者は常に非国民であり卑怯者であると教えられていた。「防空上必要アルトキハ、其ノ区域ヨリノ退去ヲ禁止又ハ制限スル。」この精神がそのまま我々に要求されたのである。」とある。防空法が、さまざまな形で浸透・徹底していたことがわかり、興味深かった。

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なお、この聞き取りには愛媛大学教授の和田寿博さんも参加していた。和田さんは「第48回空襲・戦災を記録する会全国連絡会議松山大会」の現地責任者をされていた(空襲・戦災を記録する会全国連絡会議参照)。

松山空襲の3日後の7月29日深夜、岐阜県大垣市にB29が90機来襲した。2万発の焼夷弾が投下され、4900戸が被災。罹災者3万人を出したが、死者は50人と、他の都市に比べて極端に少なかった。『中日新聞』2016年11月8日付1面には、「軍紀に反して市民逃がす」という見出しで、大垣空襲の際、防空法によって退去禁止と消火を義務づけられていたにもかかわらず、陸軍の二等兵だった吉田正己さん(87歳)が、「とにかく逃げろ」と住民を避難させた体験について書いている。道路に非常線を張り、逃げる住民を押し戻す任務に就いていたにもかかわらず、焼夷弾のすさまじい炎を目の当たりにして、命令に違反して住民を逃がした。軍法会議にかけられるおそれを自覚していたという。吉田さんの部隊にいた15人の兵士は全員が住民を逃がす活動をした。防空壕にいた人たちにも、「蒸し焼きになるので外に逃げろ」と声をかけていった。軍法会議を覚悟したが、指揮系統が乱れたまま終戦を迎えた。この兵士たちの活動がなければ、消火活動で逃げ遅れたり、防空壕で蒸し焼きになったりした人がかなりいただろう。

『大垣市史(資料編近代)』に収録された「南頬町第五部重要事項記録」には、岐阜空襲(7月9日、死者863人)の悲惨な結果を踏まえて、「7月9日 ・・・到底初期消火など思ひも寄らざることを教へられたり、其結果遂に避難を主とすることに当局の方針一変を見ることとなれり」「7月10日 ・・・防空活動可能の者と雖も、速かに退避して、其生命を護ることに重点を置かるることになり、事前退避をなさしむることとなる」とある。

この記事には、私のコメントも付いている(『中日新聞』11月8日付26面)。

『検証 防空法』の著書のある水島朝穂・早稲田大教授(憲法学)の話  防空法は「避難を禁ず」が大前提。行政などが国民の命を優先して法に反することをやれば処分され、場合によっては逮捕も免れない。実際の空襲を知っている人たちが「初期消火どころではない」と国民を避難させた事例は各地にあったと思われるが、そんなことは記録に残せない。その意味で大垣の事例は貴重。一度でも通達として出ていたとすれば、実際に影響力があったと考えられる。

最後は、八王子空襲である。大垣空襲の4日後の8月2日深夜、B29が169機来襲し、死者445人、被災者7万人、焼失家屋1万4000戸となった(市街地の8割)。

焼夷弾

八王子市郷土資料館編『八王子の空襲と戦災の記録(市民の記録編)』(八王子市教育委員会発行、1985年)には、さまざまな空襲体験が掲載されている。その110頁に、「バケツの水で消した」という証言がある(横山町の主婦)。「我家にも三発落下した。一つは台所の土間で炎上したがバケツの水で難なく消え、庭の一つも同じく消す。もう一つは・・・不発であった」。他の証言から浮いた感じがある。M69集束焼夷弾は呑気に消火できるような代物ではない。私の研究室には、焼夷弾各種のほか、艦砲射撃の砲弾や爆弾の破片などがいろいろある(直言「わが歴史グッズの話(35)」参照)。当時、「焼夷弾を恐れるな」という教育が行われていた(大前治「焼夷弾は手掴み、空襲は大丈夫―フェイクニュースと国民統制の恐怖」)。

多摩地区のケーブルテレビ「多摩探検隊」に、「八王子空襲の謎」という番組があり、これがネットにアップされている。4分6秒あたりから、防空法に関する私のコメントも出てくる。この番組で重要なのは、浅川にかかる橋の上で、避難しようとする住民と、警防団員が衝突したという事実である。「逃げるな、火を消せ」といって警防団員が住民を押しとどめる。6分50秒あたりからご覧ください。住民の気迫で、警防団員は去っていったという。当時、その橋の上にいた人は、「法律を守っていたら焼け死んだだろう。命の守ることが一番大事。」と語っている。

『八王子の空襲と戦災の記録(総説編)』(八王子市教育委員会、1985年)24-25頁に興味深い記述がある。見出しは「各自の家を守る」で、警防団員たちも「火叩きやバケツリレーによって対抗できる程度の空襲ではなかった」という認識のもと、数人の団員が内緒で東京大空襲の焼跡を見に行き、これではとても消せるものではないと判断して、「各自の家を守ろう」ということになったという。「東京空襲で罹災した疎開者や、東京空襲を体験した市民も多く、「消せるものではない。避難した方がよい」と考えている人が多かった」とある。こういう判断で避難する人々が増えていったことが、犠牲者の減少につながった可能性がある。前述の大垣市の例は、行政も陸軍部隊の末端も住民避難に重点を置かざるを得なくなっていたことがわかる。

大都市空襲の頃は、防空法による消火義務を果たそうとして逃げ遅れた人が少なくなかった。東京大空襲の時の警視総監(1944年9月〜45年6月)、坂信弥は、当時を回想して、こう言い訳している。

「防火を放棄して逃げてくれればあれほどの死人は出なかっただろうに、長い間の防空訓練がかえってわざわいとなったのだ。また、私が思った通り、事前に退避命令を出すよう関係方面と協議していたら、あのように多くの犠牲者は出さずにすんだだろうに・・・・・・私のほかだれもがそういう事態の予想をする人がなかっただけに、よけい悔やまれてくる。全くあい済まないことをしてしまった」(「私の履歴書」『東京大空襲・戦災誌』4巻(東京空襲を記録する会、1973年)1004頁)。

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