身近な戦争体験から考える――「蘆溝橋事件」84周年を前に
2021年7月5日

「蘆溝橋」から「インパール」へ

後日は「盧溝橋事件」84周年である。193777日、北京の西南、盧溝橋で、支那駐屯歩兵旅団(長・河辺正三少将)隷下の歩兵第1連隊(長・牟田口廉也大佐)の第3大隊(長・一木清直少佐[後のガダルカナル戦で壊滅した一木支隊長])が夜間演習中、「中国側から実弾を撃ち込まれた」として「反撃」して、日中全面戦争へと発展していく。また、918日は「満州事変」のきっかけとなった「柳条湖事件」90周年であり、128日は真珠湾攻撃80周年である。太平洋戦争中、インパール作戦(194437)において、ビルマ方面軍司令官・河辺中将(後に大将)の黙認のもと、第15軍司令官・牟田口中将は、補給・兵站を無視した精神主義と杜撰な作戦により膨大な犠牲者を出した。「白骨街道」と形容される「無謀な作戦」「無為無策の戦術」の代名詞として、しばしばこのインパール作戦が持ち出される。河辺・牟田口という「陸軍最悪のコンビ」によるこの作戦は、このところ、安倍晋三・菅義偉政権のコロナ対策・五輪強行に例えられるのも故なしとしない(#インパール作戦」で検索)

  直言「「安全・安心」五輪の危うさ―コロナ対策迷走の背後にでは次のように指摘した。「国家の政策の手段としての戦争が一旦始まると、それを止めることは容易ではなく、トップの過度の思い入れや思い込み、思い違いが重なって、大きな失敗につながることは歴史上、枚挙のいとまがない。日本政府のコロナ対策は、「ノモンハン」「ガダルカナル」「インパール」などに例えられるが、私は1941年の改正防空法を想起する。「兵力の逐次投入」の愚、指揮命令系統の混乱、独断専行と「幕僚統帥」(いまでいえば、官邸官僚主導)等々、コロナ危機を戦争に例えるべきではないことは重々承知の上で、あまりにも似ているのに驚くばかりである。」と。


わが家の「戦争遺跡」――機銃掃射で「遊ぶ」P51戦闘機

さて、今回は、太平洋戦争開戦80周年の年ということもあり、戦争にちなんだ個人的なことを書いておく。すでに何度か書いてきたが、東京・府中の自宅の塀には、空襲の「傷跡」がしっかり残っていた。20017月に塀の建て替えをするときに、穴の周囲を切り取り、研究室に保存した(冒頭左の写真参照)。かつて塀の近くには大きな樫の木があって、父の従兄弟がその近くで遊んでいたとき、突然、米空軍のノースアメリカンP51ムスタング戦闘機があらわれ、機銃掃射をしてきた。急いで樫の木の反対側に回り込むと、米軍機は一旦通りすぎてから急旋回し、もう一度機銃掃射をかけてきたという。「木のまわりをグルグル逃げまわったのよ」と祖母が私に語った。二度目の機銃掃射によって出来たのが、その弾痕だった(直言「痛みを伴う「塀の穴」の話」 参照)

 1945216日、「帝都防空本部発表・情報第117号」には、「府中町東町一丁目機銃掃射ヲ受ケタルモ被害僅少ナリ」とある(小沢長治『多摩の空襲と戦災』〔けやき出版、1995年〕23頁参照)。米軍P51は、軍事的必要性もないのに、子どもや一般市民にまで無差別に機銃掃射を行っていた。「恐らくふざけてやっていた気がするな。桑畑なんて撃つ必要がないんだから」という指揮者・小澤征爾氏の実体験は、私の父の従兄弟のそれと重なる(直言「平和における「顔の見える関係」」参照)P51ガンカメラによる記録(東京近郊の攻撃)がそれを裏づけている。私の家の塀にあった弾痕も、そのようにしてできたのだろう。



母の戦争体験――木材と布を使った特攻機!

  小さい頃から母の戦争体験を聞いてきた。91歳の母と一緒に住んで世話をするようになって、昔の話をよくする。同じ話の繰り返しが多いが、戦時中の話になると、目がキラッと光り、口調がはっきり変わる。「女学校ではね、私たちは勉強できなかったのよ。勤労動員で飛行機を作らされて、戦争が終わったら空襲で焼けてしまった校舎を建てるのを手伝わされたのよ。本当にいやな時代だった」と。母の学校は82日の八王子空襲で全焼している

母は東京府立第四高等女学校(1943年の都制施行で都立第四高女 )に入学するや、学徒勤労令により、立川にあった中島飛行機の子会社、東亜航空機で特攻機の製造に従事させられた。母と同様の体験は、周辺の女学校(武蔵高女、第五高女、第七高女等)の生徒たちもしていた(『記録-少女たちの勤労動員』2014参照)。

 

母が作らされていたのは、中島「キ-115(「剣」)特殊攻撃機である。これはとんでもない代物だった。先日、この「キ-115」の模型を入手した。『日本陸海軍機大百科』40号(20114月)の「付録」で、この写真はその「解説」部分と重ねて撮影したものである。「キ-115」は徹底的に簡素化された攻撃機で、胴体下面に爆弾1発を吊して多数同時に飛び立ち、米軍上陸部隊の舟艇や支援艦船を攻撃する目的で計画された。陸軍航空本部は、中島飛行機三鷹研究所の技術者たちに、爆弾を投下できる機体ではなく、爆弾を固定されたままにしたものを要求したという。エンジンも空冷星型複列14気筒「ハ115」の余剰品が活用された。操縦席も徹底的に簡素化され、計器類も速度計や高度計など、必要最小限のものが8個だけ。操縦桿、座席、床はすべて木製だった。生還を想定しない片道飛行のため、引き込み式主脚は無用とされ、主脚は離陸後に投棄される。驚くべきは尾脚で、車輪ではなく簡単な橇(ソリ)ですませていた。写真の尾脚を拡大してご覧いただきたい。これでは、平均的な技量の操縦者でもまともな飛行は困難で、地上を走って離陸する際にはバウンドして、転覆の危険さえ感じられたという。

髙栁昌久「中島飛行機三鷹研究所―その稼働期」によれば、「剣」の外形には直線が多用されていた。「通常は胴体の断面は楕円とするが、製作上手間がかかるので真円とし、胴体はジュラルミンが不足していたため全部ブリキ板を貼った。主翼はジュラルミン製だったが、尾翼は木鋼混合製骨組、合板および羽布外皮だったとされる。ベニヤ板、家を建築するための木材、ブリキ板、鉄パイプ、布といった材料が集まり始めると、動員されていた学徒も通常の飛行機とのあまりの違いにただ驚くばかりだったという」。

ここに書かれている「動員されていた学徒」の一人が母だった。私が子どもの頃から母に聞かされていたのは、「垂直尾翼を作らされたけど、それは布だったのよ」ということだった。母は半円型の太いカーブ針を私に見せて、「これで垂直尾翼を縫ったのよ」というのだが、子どもの頃の私は「縫った」ということが理解できなかった。だが、上記の指摘によれば、尾翼には「羽布外皮」が使われたとあるから、この部分を母が担当していたことがわかる。

 今回、この原稿を書くために、母に改めて「取材」してみた。高齢のため、記憶がいま一つだったが、「どのようにして「縫った」の?」という私の質問には、指でカーブ針をつかんで下から縫い上げるような仕種をしてみせた。記憶はおぼろげになっても体が覚えていたようで、手の動きは力強かった。残念ながら、そのカーブ針は家財整理の際に処分されてしまったようで、私の「歴史グッズ」に加わることはなかったが、私の子どもの頃の記憶には残っている。


母の言葉:「使われなくてよかった」

「キ-115」は1945 2 月または 3 月に1号機が完成したが、航空審査部における実用テストは散々なものだった。しかし、陸軍参謀本部と航空本部は中島飛行機に大量生産を命ずる。母が関わったのは4月からの作業で、最終的に105機が完成した。だが、6月上旬になっても航空審査部は採否を明らかにしなかった。軽爆撃機の操縦者として実績のある高島亮一少佐が審査主任となり、厳しいチェックの上、「キ-115」の特攻機としての使用は困難であると判定し、6月末に審査部長に不採用を報告した。高島少佐の試算では、「キ-115」を特攻機として使用した場合、離陸事故で30%、飛行中に50%、対空砲火で15%が失われ、運良く突入できる確立はわずか5%だった。尾脚が「ソリ」だから摩擦が大きく、離陸は困難だというのは素人でもわかる。陸軍上層部はあきらめきれず、さらなる改良を命じたが、時間切れで815日の「終戦」を迎えることになった。これにより多くの若い命が失われずにすんだ。「キ-115は、戦争末期の追い詰められた状況のなかで、技術者と軍上層部の“夢想”が生んだ、非現実的兵器の一つであったと言えるかもしれない。」(前掲『大百科』4034頁)。

 今回、この原稿を書くために、「キ-115」の模型や写真、解説文を母に見せた。顔がくもり、いつものように、「[立川]飛行場から飛び立つ特攻機を、みんなで手をふって見送ったのよ。本当にかわいそうだった。若い人たちが死んでいったのよ」といって、ここで涙をぬぐう。自分が作った特攻機(「キ-115」)で若者が死んだと76年近く思い込んでいたのである。しかし、今回、「キ-115」が105機完成したけれど、あまりにひどい飛行機だったので軍に採用されず、1機も使われなかったことを教えると、顔が変わり、「あーっ、使われなくてよかった、使われなくてよかった」と何度も繰り返した。垂直尾翼を作った記憶と、テレビに出てくる特攻機の映像とが重なり、自分が作った飛行機で飛び立つのを、手をふって見送ったと思い込んでいた母の記憶が、91歳になって「修正」されたのかもしれない。だが、母にはもう一つの記憶がある。それは「音」である。小型飛行機が出すキューンという音に対して、昔から母は敏感だ。その理由を、2014年に防空法の本を書いた時に話してくれていた。


 

P51に追われた母―立川空襲

多摩地区は、ゼロ戦を6000機以上も製造したことで知られる「中島飛行機」のほか、「立川飛行機」、「昭和飛行機」、「東亜航空機」などの民間飛行機工場が置かれ、これらの大工場の周りに下請けの中小工場が無数に存在した。これらの飛行機工場は1945年の2月から4月にかけてB29の空襲を受けており、空襲は82日まで断続的に続いた(総務省「国内各都市の戦災の状況」)。母の勤労動員先の東亜航空機は立川駅に近かったが、B29の空襲は受けなかった。母の空襲体験はP51戦闘機の機銃掃射である。日付は確定できなかったが、東亜航空機がP51の攻撃を受けた時、母は級友と、防空壕に向かって必死に走ったという。最後に壕に飛び込んだ母のすぐ後ろの地面に、12.7ミリ機銃弾が連続して突き刺さった。母は間一髪のところで助かり、P51はキューンと急上昇していった。壕のなかは泣き叫ぶ者、失禁した者もいたという。今でも母は、小型機の急上昇・急降下の音を嫌がる焼夷弾や破砕爆弾も恐いが、機銃掃射の恐怖も、母のように一生忘れられないトラウマとなった。
 

このように、私が子どもの頃から身近で聞いた戦争体験は機銃掃射の話が多いが、武蔵野市や三鷹市には中島飛行機があった関係から、破砕爆弾の恐怖が残っている。この写真は、250キロ爆弾にえぐられた墓石である(直言「武蔵野の空襲と防空法——「わろてんか」の「建物疎開」にも触れて参照)。なお、中島飛行機を爆撃したB29の不発弾(1トン爆弾)13年前に調布市で発見され、住民を避難させて処理されている(直言「『63年前の不発弾』の現場へ」)。ドイツ滞在中に不発弾処理の現場に遭遇したこともある。私の「空襲」体験である。

 特攻兵器の思想――「人間の尊厳」の究極の否定

 ドイツ基本法11項に「人間の尊厳(Würde des Menschen)は不可侵である。」という一文が入ったが、その哲学的基礎には、イマヌエル・カントの定言命法「いかなる人間も人格、目的それ自体である。決して手段として使われてはならない。」があった。まさに「人間の道具化の禁止」である。だから、通例、軍隊でも生還を許さない命令はない。爆撃機も爆弾を投下して帰還することを前提につくられていた。ところが、日本軍の過度の精神主義は、人間それ自体を手段とした兵器の開発へと進む。冒頭左の模型は、そうした人間否定の兵器のラインナップである。「人間魚雷」(回天) 、「人間爆弾」(桜花) 、ベニヤ板製で、炸薬を搭載して、米艦艇に体当たり攻撃をする特攻艇「震洋」 、 「人間機雷」(伏龍) 、 そして、特殊攻撃機「キ-115(「剣」)である。今回は、母が製造に関わっていた「キ-115」に焦点をあてて、その反人間性について書いてきた。最後に、父の戦争体験についても書いておこう。 


亡父と特攻艇「震洋」

  母と同年代の父は、府立二中(現在の都立立川高校)に在籍していた。父から詳しい話を聞く前に、1989625日に59歳で急逝してしまった(直言「「一語一会」と一期一会」参照)。その父から、唯一聞いていたのは、特攻艇「震洋」に乗って訓練をしていたということである。どこの基地で訓練していたのかを確認しないまま、この世を去ってしまった。私は千葉県の館山ではなかったかと推測していたが、父から裏づけの言葉を得ていない。ただ、確実なことは、母の足が少し遅ければ、P51の機関銃弾を受けて即死していただろうし、「終戦」がもう少し遅ければ、コロネット作戦(九十九里浜・相模湾上陸作戦)が実施されており、父は米軍の上陸用舟艇にたどり着くことなく海の藻屑となっていたことだろう。戦後8年目にして私が誕生したのは紙一重だったのだとつくづく思う。

 P51の攻撃を受けた地にこれからも住み続ける。府中のこの地域は、陸軍燃料廠があって、米軍が日本占領後、ここを司令部として使う計画があったからB29の爆撃を免れたといわれてきた。戦後、第五空軍司令部として1973年まで使われ、航空自衛隊航空総隊司令部となり、2012年の司令部の横田移転後は、航空保安と気象関係の部隊と、宇宙作戦隊(2020年から)が常駐するのみである。

 

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