どうやったら投票率はあがるか――「マニフェスト」+「選択しない選択」
2021年7月12日

 ミャンマー総選挙の投票率

この写真は、2015年11月8日のミャンマー総選挙の際、私の知人が自分の投票の瞬間を携帯で撮影してメールで送ってくれたものである。メールには、「人生初の投票をさせていただきました。スーチー氏が圧勝し、政権交代が始まるようです。先生にこの歴史になるその投票をライブでご覧になっていただきたく、こっそり撮ってありますので送付します。緑は今の与党のUSDP[連邦団結発展党]で、星の赤はスーチーさんのNLD[国民民主連盟]です」とある。投票用紙への記載は筆記具を使わず、チェックのマークの入ったスタンプを押す仕組みになっている。机には、ここで投票した人たちの試し押しの痕跡がみえる。彼がスタンプを押して投票先を決めたのがこの写真である。選挙の結果は、野党のNLDの圧勝だった。上下両院の定数の86%を獲得して、軍政を支持するUSDPからの政権交代が実現した。この時の投票率は69%だった。彼のように「人生初の投票」をした人が多かったに違いない。そして、2020年11月8日の総選挙でNLDは圧倒的多数を占め、大勝する。この時の投票率は72%だった。

  だが、2021年2月1日、ミャンマー国軍がクーデターを起こした(直言「軍が民衆に発砲するとき(その2)―ミャンマー国軍と2008年憲法」。総選挙で不正があったとして、スーチー氏を含む NLD関係者が拘束された。市民に対して軍が発砲。毎日のように多くの死者を出している。せっかく民主的な選挙で政権交代が実現したにもかかわらず、再び軍政が復活してしまった。昨年11月の選挙が、若者も積極的に参加した高い投票率だったことを記憶しておこう。

 

台湾・香港、若者参加の高投票率

投票率といえば、2020年1月11日の台湾総統選挙も高投票率だった。74.9%で、4年前と比べて8.6ポイントも上昇した。現職の蔡英文総統が、800万票を超える史上最多の得票で再選された。野嶋剛「台湾の選挙に日本人が「感動」する理由」によれば、「投票率の低さに悩む日本人に、ある種の羨望と感動を与えてくれる」選挙だった。台湾総統選では、投票率は回を重ねるごとに低くなって、2016年は66.3%にまで下がった。専門家は昨年の選挙について60~70%を予想したが、結果は74.9%で過去2回の総統選を上回った。背景には、若者たちの投票が蔡英文の得票を大きく押し上げる要因になったとされている。

  台湾では、若い候補や女性候補が多く、選挙集会でも若者が目立つ。90年代の民主化の開始以来、若者たちの政治への関心が高く、「選挙や政治が社会を変えることになる」と信じているという。私がこの論稿で注目したのは、台湾の若者の投票行動における「ねじれ」についてである。蔡英文の得票率が57.1%だったのに対して、与党民進党の比例区の得票率は34.0%にとどまった。若者たちは台湾が香港のようにならないために、明確に「一国二制度」にノーを表明した蔡英文に一票を投じたが、他方で、台湾では、「時代力量」「台湾基進党」「台湾民衆党」「緑党」などの第3勢力の政党が生れていて、それぞれ同性婚実現や環境保護、脱原発などの課題を追求している。日本と同様の「小選挙区比例代表並立制」をとる立法院の選挙では、若者たちは比例区で、第三勢力の小政党に一票を投じ、総統選挙と小選挙区では蔡英文・民進党に投ずるという投票行動をとった。野嶋は、「今回の選挙は若者たちが初めて主導権を取った「世代交代」の選挙だと言われた。その現象が、この分裂投票にはよく現れていた。」として、「これが健全な民主主義の姿ではないかと思わせる。保守的になりがちな先の世代を、改革や進歩を求める若い世代が追いかけてプレッシャーをかけ、社会にエネルギーを与えていく。台湾の選挙の現場に身を置くと、日本が長く失った民主主義のあるべき姿が台湾にあるような思いを抱くのは私だけではないだろう。」と結んでいる。これは興味深い指摘である。高い投票率とともに、若者たちの投票行動には絶妙のバランス感覚が働いていた。蔡英文の800万票に込められた若者たちの一票は、決して手放しの支持ではなかったのである。

  ところで、香港では、2019年6月に逃亡犯条例反対のデモが盛り上がった。一時は103万人が中心部を埋めつくした。香港市民はSNSをフル活用して、条例撤回を求めて粘り強いたたかいを展開した。そして、5カ月後の香港区議会議員選挙は投票率が71.2%となり、前回を24.2%も上回った(直言「軍が民衆に発砲するとき——旧東独「6月17日事件」、「5.18光州事件」、「6.4天安門事件」、そして、香港」)。これは香港の中国返還以来の最高の投票率であり、これにより民主派が議席の8割を占めることになった。投票率上昇の背後には、若者たちの政治的関心の高まりがあったと見られている。だが、中国は「香港国家安全維持法」(2020年6月施行)を制定して、香港の市民を力によってねじ伏せてしまった。ミャンマーでも香港でも、若者たちの政治的関心の高まりのなかで民主主義が活性化したかに見えたが、権力によって抑えつけられてしまった。なお、香港区議会の230人の民主派議員が「愛国的でない」として資格を剥奪されたが、残りの150人の議員がこの7月9日に一斉に辞職を表明している(NNN日本テレビ7月9日)。

 

日本の低投票率の惨状

翻(ひるがえ)って日本はどうか。そもそも日本では、たくさんの若者が街頭に出たり、政治について熱く語ったりといった風景が見られなくなって久しい(2015年にわずかに火がついたが)。国政選挙の投票率は惨憺たるもので、衆院選ではかろうじて50%を超えているが、2019年の参院選挙では48.8%にまで落ち込んだ。これは2016年選挙の54.7%を大きく下回るものだった。

 民主党政権のあとに安倍政権の復活をもたらした2012年12月の総選挙の投票率は59.32%で、「戦後最低の投票率」とされた。第2次安倍政権は、きわめて病的な政治状況のなかで生れたわけである。そして、参議院で多数を占める民主党に打ち勝つため、安倍政権が生み出したフェイク的言葉が「ねじれ解消」だった。衆院は自民党が多数、参院は民主党が多数。この「ねじれ」をなくすということは、参院も自民党が多数になることにほかならない。メディアが「ねじれ解消を最大の争点とする参議院選挙…」という触れ込みで報じたのは公平性の観点から実は問題があったのである。この2013年参院選の投票率は52.6%という低さ。2004年参院選では、参院議長を務めた河野謙三が「驚異的低投票率」と呼んだラインが59.2%だったから、この52.6%という数字は「驚愕的低投票率」といえるだろう(直言「「ねじれ解消」と「3 分の2 」の間」)。なお、2019年の参院選の投票率は49.8%で、有権者の過半数が参加しなかったという意味では、「絶望的低投票率」。まさに投票率傾向的低下の法則というところだろうか。

 

低投票率を演出して「勝った」?

  『産経新聞』2019年7月22日付は、「安倍首相「国政選6連勝」の軌跡 安定の得票、異例の長期政権」 と絶賛する記事を書いているが、私に言わせれば、安倍政権は低投票率を演出してきた節がある。この『産経』記事は自民党の議席占有率の高さだけを強調しているが、決定的なのは投票率の異様な低さである。そこをネグレクトしている。毎回、自民党の絶対得票率(有効得票総数÷有権者数×100%)は2割前後にすぎない。

 特に2014年総選挙は52.6%という、総選挙としては史上最低の投票率だった。「今のうちに解散」という解散の理由も曖昧なまま(直言「「念のため解散」は解散権の濫用か」)、解散それ自体も異様な状況で行なわれたのは記憶に新しい(直言「「安倍晋三解散」の異様な風景」参照)。国民の政治的関心が高まらない状況を後押しするかのように、政権に忖度するメディアは選挙期間中の選挙報道を減らしていた。かくて、ほとんどの有権者が気づかないまま、他国と比べてきわめて短い選挙運動期間※注1※も終わり、投票日を迎える。安倍政権は選挙に勝ったのではなく、負けないように演出していたのではないかとする所以である(直言「二人に一人しか投票しない「民主主義国家」」)。

 

  2017年に行われた総選挙の投票率も悲惨だった。下から二番目の53.68%。年代別でみると、総務省の抽出調査によれば、20代は30%台、30代は40%台、40代は50%台、50代は60%台、60代が70%台だったという(直言「低投票率と「低投票所」―二人に一人しか投票しない「民主主義国家」(その2)」参照)。2019年、平成最後の年に行われた参院選では、投票率はついに5割を切り、20代の投票率は30.9%まで落ち込んできた。なお、7月4日の東京都議選における投票率は42.39%だった。4年前の20代の投票率は26%だったから 、今回は20%をわずかに超える程度だったかもしれない。東京都の人口は1400万人。18~19歳は約22万人、20代は約158万人である。この層が選挙に行かない。選挙に行く60代は約135万人。20代よりも数は少ない。一般に少子化の加速で、高齢者が有権者の多数派となり、政治への影響力が増すとされる現象は「シルバーデモクラシー(民主主義)」といわれているが、20代が選挙に行かないことでこの傾向は一層加速されるだろう。

   現在の衆院議員の任期は10月21日までである。当日に解散すれば、11月28日が投票日となる。これが法的に可能な最も遅い投票日である。任期満了選挙や「追い込まれ解散」で勝てた政権はないというジンクスからすれば、菅義偉政権にとってはかなり苦しい選挙となるだろう。では、どうやったら若い世代が選挙に参加するようになるだろうか。

 ※注1※ 衆議院議員選挙の運動期間  1950年まで30日、1952年25日、1958年20日、1983年15日、1992年14日、1994年12日。ちなみに、市町村長・議員の選挙は1950年まで20日、1983年から5日となり、4分の1になった。5日しかなければ、知名度のある現職が圧倒的に有利である。

 

若者の投票率向上についての質問主意書

2007年10月に「若年層の投票率向上に関する質問主意書」(藤末健三議員) が出された。「若年層の投票率向上の実現を図る」という問題意識から、次の5点を質問している。(1)投票所を駅の近くやショッピングセンターなどに設置すれば、投票率が上がるだろう。投票所設置は自治体の裁量だが、政府はこれを支援・推進することについてどう考えるか。(2)住民票を移していない人が住民票のある地域以外でも投票できるように、不在者投票の手続を簡素化すること、(3)若年層が投票立ち会い、開票作業など、選挙当日の運営にかかわれるよう各自治体を指導すること、(4)明るい選挙推進協会の常時啓発活動についての改善を行うこと、(5)インターネットや携帯電話を選挙活動に利用して、若年層の関心を高めること、である。

 閣議決定を経て国会に提出される答弁書は、次のようなものだった(「政府答弁書」(2007年)(1)については、投票所に必要なさまざまな条件を考慮した上で、なお条件を満たす場合には投票所として使用していくこと、総務省として情報提供等を通じて市町村の選管に助言していくこと、(2)については、二重投票の防止等選挙の公正確保の観点から困難であること、(3)については、開票事務への若年層のかかわりについて助言していること、(4)選挙啓発の活動は総務省の部局が評価を行うこと、(5)インターネット等を選挙運動のために使用することはできないことである。

   大型商業施設などの投票所の拡大などは、2016年の公選法改正によりすでに実現している。インターネットについても、この14年間でオールオアナッシングではない議論がなされてきている。若者たちの投票行動を促進するのにどのようなことが必要だろうか。少なくとも、この質問主意書と答弁書に出てくる内容では不十分ということだろう。

  日本は、選挙運動が不自由すぎる。実は1925年に普通選挙(25歳以上の男性)が実現した際、法に仕込まれたのが選挙運動制限の3点セットであった。それは日本国憲法下でも維持され続けている。すなわち、(1)事前運動の禁止、(2)戸別訪問の禁止、(3)文書図画等の制限である(直言「わが歴史グッズの話(1)」参照)。こうした厳しい制限のため、候補者が名前を連呼する矮小な選挙運動になってしまった。「公営選挙」の延長にある政権放送なども、若者の関心をひくものにはなっていない。もっと選挙運動が自由になれば、若い世代もかかわってくるだろう。それを恐れて、政権政党や現職議員たちが選挙運動の制限にこだわってきたのである。矛盾した言い方になるが、私の嫌いなSNS の活用も、台湾や香港の選挙から学べることだと思う(もちろん無制限ではないが)。

  そして、日本の場合、そもそも投票率をいかにあげるかを考える前に、投票所における投票記載台に大きな問題がある。それをここで触れておこう。

 

「投票の秘密」が守られない日本の投票所

  日本の投票所について、私は12年前の直言「「投票の秘密」は守られているか」において根本的な問題を提起している。日本の投票所で使われている投票記載台はあまりに「密」であり、後ろの立会人や職員から手の動きが丸見えであることなど、重大な欠陥がある。他の国々では、北朝鮮も含めて、投票用紙に書き込むスペースには必ずカーテンがついている。カーテンがなくても、大きな目隠しがついているものもある。上半身が完全に隠れ、他の投票者からも選管職員からも、手元や体の動きが一切見えない状態になっている。

 そもそも、「投票の秘密」には、他人が「投票の記載を見ること」がないようにすることに加えて、「投票に関わるボディーランゲージ(身体言語)」によって投票行動が推知されないことも含まれるのではないか。口では何もいわなくても、体の動きが誰に投票したかを「語ってしまう」こともある。例えば、村長選挙で、「田中一郎」と「小比類巻太郎左衛門」との一騎討ちの場合、手の動きだけでなく、投票台の滞在時間からも投票先が推知されてしまう。「投票の秘密」は極めてデリケートなので、知らず知らずのうちに侵害されるおそれがある。このような丸見え投票記載台は再検討されなければならない。

 一般に、投票所にいる立会人や選管職員の目が気になって、投票所への足が重くなるということもあり得る。地方では、町の有力者などが立会人となり、監視されているような気持ちになることも否定できない。投票用紙をもらい、そこに書き込み、投票箱に投票するまで職員にも立会人にも見られている。日本以外の国では、投票用紙に書き込む時だけはカーテンに仕切られた「密室」状態が確保される。そこで書き込んだ投票用紙を、投票箱に投ずるとき(つまり狭義の投票)はどこの国でもオープンである。日本におけるそのような投票所の配慮不足が、人によっては投票に向かうのをためらわせているとすれば、私の提案するカーテンのある投票スペースの確保は、有権者がより多く投票所に向かう上でも重要な意味をもってくるのではないか。これは若者だけではなく、全世代に共通である。

 

 ヨーロッパでも投票率をあげることは共通の課題である(特にEU議会選挙の投票率は低い)。その点で、ドイツ航空大手のルフトハンザが支援する「#SayYesToEurope 」という活動が注目される。これは多くの人が郵便投票を利用することで投票率を向上させるという狙いで、普通はなかなか入れないところに投票所を設置して、郵便投票を行うという試みである。この写真は、コンサートホールの指揮台の位置にセットされた投票所である。自国の投票用紙を持った欧州市民であれば誰でも利用できる。私が注目したのは、EUのブルーのカーテンである。投票の際の姿(全身もしくは上半身)を他人から見られないようにする配慮は、今や常識になっているのではないか。その意味で、日本の投票所の投票記載台は、EUスタンダードから見たら、仰天の後進性であろう。投票率を上げたかったら、まずは銀色の投票記載台をやめるべきである。

「政権公約」(「マニフェスト」)の明確化

さて、投票率をあげるにはどういう課題があるか。一番重要なことは、有権者に対して、選挙の争点が明確になり、有権者がそれに関心をもつようになって、投票に行こうという気持ちが生まれることだろう。安倍政権の6回の選挙は、ことごとく争点をぼかして行われた。安倍流「5つの統治手法」のうちの、「争点ぼかし」と「論点ずらし」の全面展開である。かつての国政選挙では、メディアがかなり踏み込んだ取材や特集などをくんで、「あと何日で投票日」というような雰囲気をつくっていた。民放のワイドショーなども、小泉郵政選挙の頃は選挙一色だったが、安倍政権下の7年あまりの選挙では「しずかなること林のごとし」である。安倍政権によるメディアの統制と懐柔が進展して、メディアの選挙についての取り上げ方が萎縮していったのではないか。菅義偉政権の誕生にも、メディアの「貢献」はきわめて大きい。その結果、人々の間には、「選挙に行っても別に何も変わらない」という虚無感が支配し、政権与党と現職に有利にことは進んでいく。

 ここで問われているのは、一般的な政治的争点の問題ではない。投票日に向かって、集中的に、できるだけ多くの有権者が理解できるような争点の明確化が重要なのである。その点で想起されるのが、2009年総選挙の「マニフェスト」(政権公約)である。直言「「マニフェスト」への違和感」では批判的に取り上げたが、当時の『INDEX 2009 - 民主党政策集』には評価できる面もあった。かつての「マニフェスト」の批判的総括の上に、新たな形でこれを復活させることも有益ではないかと考える。

 その際に重要なことは、かつてはすべての党が「マニフェスト」を掲げたが、今回は、安倍・菅政権によって荒野にされたこの国の「復興」のため、一致できる野党が共通の「政権公約」を打ち出すことである。「小異を捨てて大道につく」のではない。「大異を捨てて大道につく」のである。とりわけ安全保障の問題では、野党の間でも見解の相違は小さくない。だから、安全保障の方法論の問題は棚上げして、安倍政権が、政府解釈で違憲とされてきた集団的自衛権行使を合憲化する閣議決定を行い、安全保障関連法を強行採決したことを白紙にもどす。つまり、安全保障関連法廃止法を成立させて、「専守防衛」まで引き戻すという点ならば一致する余地はあるのではないか(直言「安保関連法「廃止法案」を直ちに国会に」)。各党の安全保障の方法論については、安倍政権が議論の土台を壊したところを修復してから、共通の議論の前提を作った後に始めればよい。そして、他の問題でも、一致点をさぐるという方向で頭を使い、争点を明確にした「政権公約」を国民の前に提示することが望ましい。

12年前、直言「「総理総裁」が死語になった日」で、2009年の総選挙の意義について書いた。その一つが、「小泉「構造改革」の荒野からの復興に向けた最初の一歩」ということだった。今年の総選挙は、安倍・菅政権によってボロボロにされたこの国を復興させるための選挙と位置づけるべきだろう。直言「「政権交代」の意義と課題」 の末尾で、「鳩山内閣の今後を、期待と緊張感をもって注視していきたい。」と書いた。民主党政権については、少なくとも鳩山由紀夫首相段階で試みられた施策には見るべきものもあった。しかし、民主党政権について、安倍首相の「悪夢」という表現に引きずられて、メディアのなかにも過剰な否定的論調が強く、国民にもそれがしっかり刷り込まれている。若い世代はネット情報しか知らない。私も当時、「直言」で鳩山政権についてはさまざまに批判している。だが、安倍・菅政権のような、議論の前提を壊し、情報を隠蔽、改ざんし、権力を私物化する政権は過去に例がない(まさに「泥棒政治」(クレプトクラシー)。いまコロナ危機下での五輪強行というとんでもないことをやろうとしている。この憲法違反常習政権によって壊された日本を復興させる課題が目の前にある。

 

「選択しない選択」の重要性

今度の総選挙で求められているのは支持政党を選択することではない。安倍・菅政権の8年近くをしっかり振り返った上で、安倍・菅政権の側にいる候補者を「選ばない」という選択をすることである。選挙区に自分の好みの候補者がいるかどうかは、この際あまり重視しない。立憲主義の前提を壊した政権の側にいる議員を選ばない。この「選択しない選択」によって、結果的に、その選挙区で政権側の候補者が落選するという結果が生れる。比例区では支持する政党に投票してよいが、選挙区では「選択しない選択」をすることが大切である。これは、蔡英文を圧勝させた台湾の若者たちの選択と似ている。

 「安倍さんしかいないから」というのが、安倍政権を支えてきた真の「岩盤支持層」である。「ほかにいないから、仕方なく選ぶ」。これは民主主義を腐らせる、思考の惰性ではないか。さすがに、安倍政権の継承者として登場した菅政権は、あまりのひどさに、いまや「菅さんしかいないから」という人は少なくなってきたように思う。ともに丑年。2021年は2009年に続く政権交代の年になるかどうか。

  野党にまかせるのはどうもと考えている人は、植木枝盛の言葉に耳を傾けてほしい。家永三郎編『植木枝盛選集』(岩波書店、1974年)の巻頭は、「世に良政府なる者なきの説」(1877年)である。よい政府というものはない。人民がよい政府にできるだけだ。人民が政府を信じれば、政府はこれに乗ずるし、信ずることが厚ければ、ますますこれに付け込み、また、よい政府などといってこれを信任し、これを疑うことなく監督を怠れば、必ず大いに付け込んで、よくないことをやるだろう。だから、世に単によい政府なし、と。枝盛によれば、「唯一の望み」は、「あえて抵抗せざれども、疑の一字を胸間に存し、全く政府を信ずることなきのみ」である。政府に正面から抵抗できなくても、政府を監視・チェックする姿勢を持続することの大切さを説いたものである。これに学んで、「疑」の一字を胸に抱いて、若い世代も投票所に向かってほしい。

 

トップページへ