雑談(128)「断捨離」で再会した本のこと――『植木枝盛選集』
2021年8月30日

合により、ストック原稿をアップする。8月9日の雑談127回に続く雑談シリーズとなることをご了承いただきたい。感染爆発と医療崩壊という、戦後日本における真正の緊急事態のなか、菅義偉政権による「緊急事態宣言」逐次投入とパラリンピック開催という究極の愚策については、前回の直言「パラリンピックは中止すべきである――この国に「総理」大臣はいるのか」などを参照されたい。また、アフガニスタンにおけるタリバンの復権とそれによる大混乱については、9月6日に、「対テロ戦争の結末――「9.11」から20年」(仮題)としてアップする予定である。そこで、今回は、『法学セミナー』20215月号に掲載された拙稿を転載する。「直言」の関連バックナンバーも文中に適宜リンクしたので、この機会にお読みいただければ幸いである(法セミのPDFファイルはここから)。

 法学セミナー2021年5月号特集「法学入門2021』「法学者の本棚から学ぶ』Part.2

【憲法】 「断捨離」で再会した本のこと――『植木枝盛選集』

早稲田大学教授 水島朝穂

1. 本との出会いと再会

70年近く生きてきて、物心ついた頃から本を読んでいた。祖父の書斎から古い本をたくさんもらって、勉強部屋に山積みになっていた。高校1年の時は「高校紛争」の真っ只中で、議論のために社会科学の古典を読みあさった

法学セミナーとの付き合いも長い。大学に入学した1972年に5月号を初めて購入した。高校時代に「沖縄返還協定」をめぐる法律時報臨時増刊や本誌特集号は個別に買っていたが、定期講読を始めたのはこの号からだった。特集は新潟地裁における小西事件(いわゆる反戦自衛官訴訟)。「自衛官の内なる人権と国家」などの論稿には、青線がびっしり引かれている(当時は本を読む時、万年筆を使っていた)。以来、半世紀近い読者であり、36年前からは執筆者にもなり、何代もの編集長とお付き合いをしてきた。

若い頃は、「いつか読むだろう」と「捨てるのはもったいない」という2つの「基準」によって、本や雑誌はどんどん増えていき、引越しのたびに段ボールに詰め込んでは運んでいた。初めて就職した北海道の大学、広島の大学、そして東京のいまの大学へ。大きな引越しは3回だが、学内での研究室移動を含めると、今年で計7回もやっている。そのたびに本や雑誌のバックナンバーを段ボールに詰めては開き、配架してきた [1]。

一昨年から8000冊ほどの本と雑誌を処分して蔵書のスリム化をはかってきた [2]。具体的方法としては、大学院生にあげる、古書店に引き渡す(これは1度だけ)、町内会の古紙回収、「資源ごみ」、この4つ である。一番多かったのは3番目だった。書き込みや青線・赤線が入った雑誌や単行本、文庫・新書は人の目に触れられたくないので、ほとんど資源ごみ行きとあいなった。

不思議なもので時間の経過とともに、先の2つの「基準」はどんどん緩和されていき、今年になってさらに本や雑誌を処分して段ボール300個ほどにまで減らした(研究室の本はまた3年後に)。例えば、ドイツの週刊誌『シュピーゲル』(Der Spiegel)は、1988年から定期講読してきたので、1700冊近くを捨てられずにいたが、重要な事件の表紙と特集記事だけを切り取り、残りはすべて資源ごみにした。残ったのは「天安門事件」前後の号や「ベルリンの壁」がまだあった旧東ドイツの変化の兆しを毎週のように伝える号、そして湾岸戦争、ユーゴ紛争、「9.11」、イラク戦争、リーマン・ショック等々、これらは歴史的事件の息づかいを感ずるドキュメントとして、30センチほどの「ファイル」になった[3]。 「ベルリンの壁」崩壊から「メキシコ国境の壁」建設と中止(トランプの登場と退場)に至る30年あまりをビジュアルに俯瞰することができる [4]。長年の講読費や引越し費用を考えると「壮大な無駄」であり、妻の目はやさしくないが、私にとっては、この「ファイル」も研究者人生が濃縮された「エッセンス」なのである。いま、コロナ禍で自宅から出られないなか、こうして生き残った本たちとの再会を楽しんでいる。

さて、これから大学に入って本をたくさん読もうという「法学1年生」に向かって、何で本の「終活」みたいなことを長々と書いているのかと思う向きもあるだろう。無限の可能性を秘めた若い世代の皆さんには、これから本との出会いをたくさんしてほしい。その観点から、まずは本との出会い方について、個人的体験に傾きつつ具体的に述べていこう。

 

2. 本の3つの読み方--「積ん読」の効用

研究室や自宅書庫の蔵書を見て、「先生はこれを全部読んだのですか」と聞かれることがある。そのつど、私は「読みました」と答えることにしている。万の単位の本をすべて同じように読んだわけではもちろんない。本の読み方には3つある。「熟読、精読、味読」と「乱読・速読・斜め読み」、そして「積んでおく」、すなわち「積ん読」である。書物を手にとって、最初の1行からじっくり、味わいながら最後まで読む。それに対して、特定のテーマ(問題意識)を決め、目次や索引などでわたりをつけながら、必要な部分をピック・アップしつつ、その書物全体の内容を素早く把握する。それにより熟読・精読するものが決まる。さらに、入手した本をすぐには読まないで、書棚や机の横に「積んでおく」。それが、ある時、たまたま授業で扱われたテーマと重なる。問題意識が発酵してきて、何気なく積んでおいた本との素敵な出会いが演出されるわけだ。「積ん読」の効果は、忘れた頃にやってくる。むしろその方が、インパクトがあるかもしれない。私の場合、この間の「断捨離」過程で、いまはこの世にいない先生方から頂戴した書物が語りかけてくるのに驚いた。今の時代を読み解く指摘に満ちあふれている。大きな書庫のなかに長期にわたって眠らせていた本たちが、いま芳醇な香りを放ちながら蘇ってきたわけである。さらに生きようという「元気」をもらった。「終活」が、本との再会によって新たな「就活」につながっていくかもしれない。だから皆さんもまた、自分を信じて、いますぐでなくていいので、いつか読もうという本と出会うことを期待したい。

この間の「断捨離」を通じて再確認したことがある。本の世界にも、残るもの、残るべきもの、残したいものが混在していることである。「ベストセラー、必ずしもロングセラーならず」であり、真の「ロングセラー」を古典という。なぜ古典は古くならないのか。それは誰が読んでも、いつ読んでも、どんな状況下で読んでも、得るものが必ずあるから。

 

3. 140年前の憲法構想--植木枝盛「東洋大日本国国憲案」

  編集部からの依頼は、少なくとも1冊の本を、「法学1年生」の読者に紹介してほしいということだった。たくさんの本との別れと再会を体験している、いまの私の特殊事情と心境からすれば、「この一冊」に絞るのは至難である。だが、ここでは、手軽に入手できる「古典」の一つとして、家永三郎編『植木枝盛選集』(岩波文庫、19747月初刷)を挙げておきたい。

正直に告白すると、大学3年の夏に新刊広告で知って購入したが、一度も読まないうちに本の山にまぎれて失念していたものである。これは「積ん読」にならず、「死蔵」となった。古書店で入手した家永三郎『植木枝盛研究』(岩波書店、1960年)などを読んでいたので、この文庫本の存在は忘れていた。赤線と書き込みがあるものは第6(19874)で、表紙に購入場所と日付が書いてある。《Osaka, den 10.Oktober 1987,公法学会報告前日》。日本公法学会第52回総会(神戸大学)での初の学会報告 [5]を前に、梅田の書店で購入したことがわかる。帰りの札幌行きJAL便のなかで再読したのを思い出す。すでに知識としてはあったものの、疲れた頭には、枝盛の熱く、みずみずしい文章がジューッと音をたてて染み込んでくる気分だった。以来、この第6刷を、仕事机のすぐ横の書架に並べて、必要に応じて取り出せるようにしてきた。いまもこれを横に置いて本稿を書いている。

では、なぜ、いま、植木枝盛なのか [6]。日本史知識として、枝盛のことは皆さんの頭のなかにそれなりにおさまっているだろう。南国土佐の自由民権運動の有力メンバーとして、立志社のエースとして、また当時としては最も先駆的な憲法草案を起草した人物として。この『選集』には「東洋大日本国国憲案」(以下、「国憲案」という)220カ条が収録されている [7]。これが起草されたのは1881(明治14)8月、今からちょうど140年前である。高知市桜馬場、高知城の北西に位置する城西公園、そのすぐ近くに植木枝盛旧邸跡がある[8]。枝盛はその書斎で、「国憲案」を執筆した。書斎は「桃色の壁」で、後に訪れた徳富蘇峰がたいそう驚いたという[9]。日記には、828(日曜)「大風雨幽居、日本国憲法を草す」、829日〔月曜〕「大風雨。幽居日本憲法を草す」とあるから、暴風雨のなか、短期間に執筆されたことがわかる。なぜかくも急いだのか。それは前年の1880(明治13)11月の国会期成同盟第2回大会において、翌年の第3回大会までに各地方の結社が憲法案を持ち寄ると決定されていたため、憲法案づくりが、政党結成に向けた動きと並行して進んだことがある[10]いわゆる「私擬憲法」がこの時期、全国各地で60以上も起草された背景には、こうした事情があった。暴風雨のなか、枝盛が猛烈な勢いで執筆したのには、そうしたタイムスケジュールがあったとみてよいだろう。実際、9月に立志社の憲法草案が起草されるから、枝盛の草案がその下敷きになったのは間違いない。

枝盛の書いたものには、近代西欧思想の摂取に際して明治中期の思想家のような日本的デフォルメ(変形)を経由していない分、よくいえば純粋さと率直さがストレートに反映しているといえるかもしれない。他方、憲法草案としての精緻な論理性や体系性という点では、歴史学でもいろいろと論争をよぶところである。でも、雑然とした条文の建て付けも含めて、これも「国憲案」の粗削りの魅力といえるかもしれない。 

「国憲案」で注目されるのは、憲法というものが、国家権力を拘束し、その暴走をチェックするところに存在意義があることを、抵抗権や革命権の実定化によってさらに徹底しようとした点だろう。「政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハザルコトヲ得」(70条)、「政府威力ヲ以テ(せん)()暴虐(ぼうぎゃく)(たくまし)フスルトキハ日本人民ハ兵器ヲ以テ之ニ抗スルコトヲ得」(71条)、「政府(ほしいまま)ニ国憲ニ背キニ(ほしいまま)ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ建国ノ旨趣ヲ妨クルトキハ日本国民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得」(72条)。不服従権から抵抗権を経由して革命権に至る、権力統制の「最後の切り札」の設計は、明らかにアメリカ独立宣言(1776年)やフランス・ジャコバン憲法(1793年)の影響を受けていることがわかる。「国憲案」には、近代立憲主義のエッセンスが鮮度を保った状態で沈殿しているといえよう。

枝盛が構想した国家のありようは、「州」を単位とする連邦制である。「州」には「常備兵」と「護郷兵」を置いて独立性を強力に担保しているのが特徴である。他方、この国家の頂点には「皇帝」が存在し、強大な権限を有していた。皇帝・皇族・摂政に関する条文は39カ条もある。特に「兵馬ノ大権」(宣戦講和)(78)や立法院の議を経ない徴兵権(79)、さらには「特法」という緊急事態条項もあって(213条以下)、「内外戦乱」の際に集会・結社の自由「等」を制限することも可能だった。なお、興味深いのは、「国憲案」では「女帝」が想定されていたことである(9798102条)。

自由・権利の保障に関しては、第4編の40条から74条までの充実した条文配置のほか、第1編の総則で「国家ノ権限」の基本を定めたところで、「日本国民各自ノ私事ニ干渉スルコト」を周到に禁じているのが注目される。いまでいうプライバシーである。かくして、権利保障の充実度は私擬憲法のなかで最も高い方に属し、その意味で「現存するすべての憲法構想の内最も民主主義的な内容のもの」(家永三郎)と評される所以である。

30を超える権利保障のカタログを眺めてみると、条文上整理が可能な部分がかなりある。人身の自由に属するものや精神的自由権に括られるものが混在しており、とりわけ思想、言論、出版、集会、結社まで独立した条文が与えられていて、今日的視点でいえば、日本国憲法21条一本にまとめることも可能なように思われる。ただ、これは、法律家の体系性重視の観点ではなく、枝盛が「自由民権運動の課題を条文化した」ということ、すなわち弁士中止の体験や、集会・結社禁止の弾圧体験、信書の秘密を侵された苦い経験に根ざしていたという評価が妥当だろう[11]。

また、1888(明治21)年秋に高知で陸軍演習があったとき、松山や丸亀に兵士が民家宿泊することになったが、高知の上町の人々は「兵隊のお宿は出来申さず」とこれを拒否したという。「国憲案」73条が「日本人民ハ兵士ノ宿泊ヲ拒絶スルヲ得」と定めていたことが町民の具体的行動指針になったと評価されている[12]。米合衆国憲法修正第3(1791)を取り入れたものと思われるが、「国憲案」が果たした運動論的機能など、当時の事情も合わせて考えるとおもしろい。

 

4.「国憲案」の退場―「明治14年の政変」

憲法や憲法草案というものを考えるとき、「国憲案」が注目される理由はもう一つある。それは、権利保障規定の充実に表現される「最も民主主義的内容」の一方で、皇帝(天皇)の権限がきわめて強力であった点をどう読み解くかである。家永三郎は、「単に立法技術のまずさに出るもので、特殊な意図によるものではあるまい」という[13]。皇帝の強大な権限から、枝盛を共和制論者と見るかどうかについては議論がある[14]。私擬憲法のほとんどが立憲君主制を採用している事情は、当時の政治状況も無視できない。問題は、共和制か君主制(皇帝制)かの二者択一ではなく、「国憲案」のもつ複雑な顔のなかに、枝盛の「戦略」を見て取ることだろう。当時は薩長藩閥政府である。どんな国家をモデルにするか、どんな憲法を構想するか。それがリアルに問われるなかで、枝盛は、革命権までの徹底した「自由権利」をもつ「人民」と、その保護を約束した、強大な権限をもつ「君主」(天皇)の契約による「国家」を想定し、この「きわめて緊張を孕んだ二元的構造」が、「天皇」=「国軍」と「常備兵」「護郷兵」をもつ「州」の二元的構想として具体化されたとする見解がある[15]。これによれば、革命権と「特法」(緊急事態条項)を併せ持つ「国憲案」の他の憲法草案にない特徴は、「憲法」で法的秩序が形成されても、基底には「官」と「民」の戦争状態があり、いわば「国憲案」は「休戦条約」のようなものということになる。

皇帝の「兵馬の大権」や常備軍を「国憲案」に盛り込んだ枝盛も、1880(明治13)年に書いた「無上政法論」におては、「万国共議政府」設立による軍備縮小と、最終的には兵備を完全に廃止することを主張していた[16]。カント『永遠平和のために』につながる着想であるが、その枝盛が「国憲案」では軍事の要素をふんだんに取り込んでいる。「国憲案」は枝盛案であるが、実は立志社の案として中央に伝わることを想定していた点は無視できない。

「国憲案」が起草された1881年は、明治維新から戊辰戦争を経由して、どのような国家モデルを設計するかをめぐり、政府内部でも、地方においてもさまざまな力学が働いていた。受験日本史の知識でバラバラに覚えている出来事が、明治維新から13年たって一つの決着をみる。その転換点が「明治14年の政変」である。その背景や原因を探ると、明らかに政府部内における憲法構想の対立があった。

政府の内部では、君主大権を維持するドイツ・プロイセン憲法→ビスマルク憲法の道をとるか、英国型の議院内閣制の憲法をとるかで対立していた。前者は伊藤博文と井上馨、後者は大隈重信と交詢社系(慶應義塾門下生)のいわば早慶の勢力で、最終的に後者が政府から追放されて、近代日本の国家構想が確定した。1890(明治23)年施行の大日本帝国憲法は、君主大権を残すプロイセン・ビスマルク憲法をモデルとしたものとなった。

「国憲案」をはじめ60を超える私擬憲法が、地方からの喧々諤々、討論を通じて提起された、まさに下からの「自主憲法」であったのとは異なり、大日本帝国憲法は、ごく限られた人たちだけが密着して、密室において、秘密裏に、まさに「三密」において作り上げ、国民の側からすれば「欽定憲法」として下しおかれた「押しつけ憲法」[17]だったのではないか。

 

.「国憲案」から日本国憲法へ

19937月、県立高知短期大学での集中講義のおりに訪れた自由民権記念館(高知市桟橋通4丁目)の常設展示のなかに、「国憲案」と大日本帝国憲法と日本国憲法の比較対照表があった。何気なく眺めていて気がついた。「国憲案」にあって日本国憲法にない条文。それは「国憲案」45条だった。「日本ノ人民ハ何等ノ罪アリト(いえども)モ生命ヲ奪ハサルヘシ」。明確な死刑廃止条項である。「国憲案」48条は拷問禁止だから、これは日本国憲法36条に照応するが、日本国憲法に45条に対応する条項はない。日本国憲法31条は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」として、31条単体では死刑を直接排除していない。「国憲案」46条は「日本ノ人民ハ法律ノ外ニ於テ何等ノ刑罰ヲモ科セラレサルヘシ」とあり、対照表では日本国憲法31条と対応させてあるが、「生命刑」は法律に基づくものであっても、「国憲案」45条によって排除されていると解される。60以上ある私擬憲法のなかで、死刑廃止条項をもつものは「国憲案」だけであるという自信はないが、同時につくられ、その進歩的性格が高く評価されている、千葉卓三郎「日本帝国憲法」(五日市憲法)も、71条に「国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告サルルコトナカル可シ」とあるものの、通常犯罪における死刑は否定されていない[18]。

枝盛が何を参照して45条を起草したかは不明である。書斎の「桃色の壁」の前に枝盛が広げていたのは、「アメリカ合衆国、フランス、オランダ、プロシャ、ベルギー等の憲法やマグナカルタその他」であった[19]。私はこのなかにフランクフルト憲法(1849)が含まれていたのではないかと推測している。

ドイツ3月革命(1848)のあと、フランクフルトのパウル教会で開かれた憲法制定国民議会で採択されたが、あまりに立憲主義的であったため、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が署名を拒否し、「幻の憲法草案」となった。この「パウル教会憲法」の正反対の君主主義憲法がプロイセン憲法(1850)として制定され、それをモデルにしたのが大日本帝国憲法だった。

フランクフルト憲法は基本権条項が大変充実しており、その139条が死刑廃止条項になっている。一般に「最も民主的憲法」といわれるヴァイマル憲法(1919)にも、死刑廃止条項はなかった。戦後のドイツ基本法(1949)102条で「死刑は廃止されているものとする。」と定めたのは、フランクフルト憲法139条の「復権」という面がある。

植木枝盛の「国憲案」も140年前にいったん歴史の舞台から退場するが、194512月、憲法学者鈴木安蔵の手になる憲法研究会草案として、日本国憲法制定過程において重要な役割を果たすのである[20]。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、日本国憲法の原案となる「マッカーサー草案」を作成するにあたり、この憲法研究会草案を参考にしたとされている。 

皆さんに紹介してきた『植木枝盛選集』の解説において、編者の家永三郎はこう書いている。「憲法研究会草案は、戦前におけるほとんど唯一の植木枝盛研究者であった鈴木安蔵が植木枝盛草案その他を参考にして起草したものであるから、日本国憲法と植木枝盛草案との酷似は、単なる偶然の一致ではなくて、実質的なつながりを有するのである。」と。

140年前に歴史の舞台から消えた植木枝盛の憲法草案は、鈴木安蔵を媒介にして、日本国憲法のなかに蘇ったといえるかもしれない。それは、1849年のフランクフルト憲法が「幻」に終わったものの、そこにおける立憲主義的理念が、ちょうど100年後に、死刑廃止条項をもつドイツ基本法として生まれ変わったように

本と同じように、憲法もまた、長い時間の経過のなかで、原理や条文の出会いと別れ、そして再会を繰り返してきたといえるかもしれない。

 

[1]水島朝穂「平和憲法のメッセージ」の直言「引越しの「効用」--書物との再会参照。
[2] 直言「「断捨離」と「終活」」参照。
[3] 直言「「平成」の30年間は民主主義の劣化の冒頭の写真参照。
[4] 直言「「壁」思考の再来―ベルリンから全世界へ?」参照。
[5] 水島朝穂「現代国家における秘密保護」公法研究(日本公法学会)50(1988)、同『現代軍事法制の研究』(日本評論社、1994) 172-194頁所収。
[6] 水島朝穂「「疑」を胸にひめて-植木枝盛のリアリティ」法学館憲法研究所「今週の一言」2007423 [7]家永三郎編『植木枝盛選集』(岩波文庫、1987年)85-111頁。
[8] 筆者は200853日、高知市での憲法講演会の際に訪れたが、その2年後に旧邸は解体され、書斎部分のみ、自由民権記念館内に移築・復元された。
[9] 外崎光広『植木枝盛の生涯』(高知市文化振興事業団、1997)14775-78頁。
[10] 松沢裕作『自由民権運動〈デモクラシー〉の夢と挫折』(岩波新書、2016)121頁。
[11] 外崎・前掲注[9]103頁。
[12] 外崎・前掲注[9]106頁。
[13] 家永三郎『植木枝盛研究』(岩波書店、1960年)372頁。
[14]共和制否定説が、米原謙『植木枝盛』(中公新書、1992)133頁。
[15] 小畑隆資「植木枝盛の憲法構想--「東洋大日本国国憲案」考」文化共生学研究(岡山大学)6(2008)104-106(タイトルで検索すればPDFファイルで読める)
[16] 家永編・前掲注[7]67頁。
[17] 色川大吉他『民衆憲法の創造』(評論社、1983)297頁。
[18] 新井勝紘『五日市憲法』(岩波新書、2018)203頁。
[19] 外崎・前掲注[9]104頁。
[20] 原秀成『日本国憲法制定の系譜』Ⅰ(日本評論社、2006年)90-110頁。

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