「コロナ語」を問う――政治家と忖度「専門家」
2021年11月22日


べての授業を対面で行っている(昨年の今頃の様子はここから)。導入演習(水島1年ゼミ) では、今週、春学期に引き続き、2回目の「霞が関・永田町フィールドワーク」を実施する。感染防止の観点からの厳しいチェックを受けた上で学部に許可されたものである。5人ずつの班に分かれて、裁判傍聴や最高検「移動教室」、憲政記念館見学などを行う。大学キャンパスの風景も昨年とはだいぶ違ってきた。だが、不安は消えない。開いては閉じ、閉じては開き、大学もまた、すべてが手さぐりである。

冬に向けての感染拡大

中・東欧諸国で感染者が急増している。ドイツでは「2Gルール」または「3Gルール」が適用されている。ワクチン接種済み(Geimpft)、コロナ感染から治癒(Genesen)PCR・抗体検査済み(Getestet)である。日本の感覚では「ワクチンパスポート」ということになろうか。冒頭左のスクリーンショットにあるように、ドイツの飲食店や商店などの入口の風景も一変した。ワクチン接種をしていない人は入店を認められず、店内に警官が入って、ルールが守られているかを監視するところもある。

  オーストリアでは1115日から「ワクチン未接種者へのロックダウン」が実施され、1119日には全体に拡大された。ドイツの新聞でその見出しをみたときは驚いた(SZ vom 19.11.2021)。都市封鎖を意味する「ロックダウン」という言葉が、個々の市民に適用されていたからである。さまざまな事情でワクチンを接種できない人たちへの差別ではないかと、訴訟も起きている。他方、ワクチンの2回接種率が88%のポルトガル、80%のスペインなどでは感染者が増えていない。感染が拡大しているドイツと英国は67%、オーストリアは63%、ロシアは35%、ウクライナは19%等々(BBC11月12日データより)。南欧は感染が拡大せず、中・東欧がひどい。その原因はよくわからない。外見的な比較では、2回目の接種を終えた人が人口の70%を超えることが、一つの目安になるのかもしれない。日本は75.8%だから、現時点で中・東欧諸国とは異なり、感染者数の増加はいまのところは見られない。



  ドイツでは、コロナ対処の目安を7日間で住民10万人あたり50人」としてきたが、1119日付の『南ドイツ新聞』掲載の16州のデータ(RKIを見ると、どの州もそれをはるかに超えている。オーストリアに近いバイエルン州は、人口10万あたり636人。ザクセン州が最も多く794人である。バイエルン州首相は1118日、「事実上のロックダウン」("De-facto-Lockdown" in Bayern)を宣言した。12月恒例のクリスマス・マーケットも禁止される。外食産業では「2Gルール」がさらに徹底される。『シュピーゲル』誌46(1113)の表紙は、ワクチン接種済みとコロナからの回復と並べて、「欲求不満になっている」を加えた3Gを並べて、冬に向けての感染拡大を前に、政権がまだ発足していない政治的不安定性と予防接種を拒否する人々の「不合理の同盟」をテーマにしている。

  ドイツのコロナ対処の専門家の中軸をなしているのがロベルト・コッホ研究所(RKI)だが、そのロタール・ヴィーラー所長は、1118日、激しいトーンでこう述べた。「ドイツ全体が感染爆発を起しています。これは国家的な緊急状態です。私たちは今、緊急ブレーキ(Notbremse)を引く必要があります。」(SZ vom 19.11)。直言「この国の「目詰まり」はどこにあるか―日独の指導者と専門家で、RKIとヴィーラー所長のことは詳しく紹介した。米国の国立アレルギー感染症研究所(NIAID)のアンソニー・ファウチ所長も、トランプ大統領(当時)と見解が対立したときに、たじろぐことなく自らの主張を展開した。「コロナ危機」においては、感染症の専門家が科学的根拠に基づき政治家に助言し、政治家もそれに対して「聞く耳」をもっていることが重要である。日本の専門家会議にはそれが十分ではなく、官邸への忖度がみられ、他方、政治家には「聞く耳」がない。現職の岸田文雄首相は、「聞く耳」が歪んでいるようである。


「コロナ語」への違和感──「人流」?

   さて、今回は、日本で20202月から始まった「コロナ危機」において、専門家がいかに適切な「言葉」を発してこなかったかについて書くことにしよう。「人と人との接触」によって感染するウイルスに対処するためには、専門家も政治家も、国民に向かってどのようなメッセージを発するかが決定的に重要となる。昨年の3月段階では、ドイツのメルケル首相と日本の安倍晋三首相(当時)との決定的な違いを論じた(直言「「コロナ危機」における法と政治――ドイツと日本参照)。

  政治家の姿勢だけでなく、そこで発せられる「言葉」も重要である。いろいろあるが、まず、私が問題にしたいのは「人流」である。TBSnews23」の小川彩佳キャスターも、この言葉が好きではないと吐露している(冒頭右の写真)。これは、養老孟司さんにインタビューして、「不要不急」という言葉への違和感を聞き出したときのものである。

  「人流」という言葉は、東京五輪が近づき、人々の動き(象徴的なのは渋谷のスクランブル交差点)が毎日のニュースで報じられるようになって頻繁に使われるようになったように思う。朝日新聞の検索サイトで調べてみると、この言葉が紙面に最初に登場するのは、ゴールデンウィークの人出についての記事で、「スマートフォンの位置情報を活用した人流データの分析からわかった。」という表現が最初だった(202058日付)。文中では「主な駅の人出」と表現されていた。

  転換点は、小池百合子都知事が、202132日の記者会見で、「皆さんには人流を抑え、食事の際に飛沫を飛ばさないような工夫をしてもらうことをもう一段ギアをあげてもらわないと間に合わない事態が生じている」と述べたことだった(202133日付)。

   菅義偉首相(当時)は今年45日の参院決算委員会で、「人流が急増しており…」と、首相として初めて「人流」という言葉を使った(46日付)。423日の「緊急事態宣言」発出の際の記者会見では、「人流を抑え」と3回も立て続けにこの言葉を使っている(424日付)。これ以降、「人流抑制対策」という形で「人流」が見出しにも使われるようになる(428日付奈良版)。

   512日付第2経済面には、「鉄道減便で「密」、人流抑制に疑問符 国交相が反省の弁」という見出しで、3回目の「緊急事態宣言」の際、政府や東京都が鉄道各社に電車の減便を要請した記事が掲載されている。目的は「人の流れを抑える狙い」とされ、見出しにも大きく使われた。だが、結果的に、「人は減らなかった」だけでなく、逆にホームも電車も「密」を招いて、すぐに中止された。この時、私も山手線で「密」を体験したが、乗客の怒りは大きかった。その後、五輪に関連する記事で「人流」が登場する。例えば、「夜間の試合で人流懸念」という見出しで、夜間の「人流増に伴う感染拡大」が危惧され、無観客試合になった経緯が書かれている(『日本経済新聞』71日付)。

 「人流」が1面に載ったのは、『朝日新聞』728日付で、「首相、五輪中止を否定 「人流は減少、心配ない」」だった。菅首相が五輪の中止の選択肢を記者団に問われた際、「人流も減っているので、そこはありません」と明言したと伝えている。1面で「人流」が見出しになったのはこれが初めてである。この「人流」に対してまっとうな違和感を表明する医師のブログを見つけた。タイトルはズバリ、「「人流」に違和感」(202156である。以下、引用する。    

「物の流れを示す「物流」(物的流通の略:広辞苑)に対する人の流れを「人流」と読んでいるのであろうが、「人的流通」の略として使用しているならば、人をまるで物のように扱う感覚はとても受け入れられないし、綺麗な日本語ではない!とくに「人流抑制」などと表現して単なる物としての人の動きを否定、抑制するような意味で使われることが多いのでなおさらである。…人と人との交流を示す人的交流や人事交流とは全く異なった異次元の新語だ。「人の流れ」「人出」で良いではないか。こんなことばが「新語大賞」などの候補に選ばれるようであれば、世も末で日本語の破壊も極まれり!と思うので、そうならないことを望むばかりである。」 

まったく同感である。新型コロナウイルスの感染が「人と人との接触」によって起きるとすれば、「人流」は「人混み」(人ゴミ)と同様、ネガティヴな意味の言葉ということになる(ちなみに「人海戦術」も、命を粗末にした「塵芥戦術」に聞こえる?)。言葉は怖い。

 

「コロナ語」をはやらせた尾身茂氏

私は、米国NIAIDのファウチ所長やドイツRKIのヴィーラー所長と違って、医系技官出身の尾身茂氏を評価しない。専門家といっても、役所に遠慮するメンタリティは抜けきれず、昨年716日に経団連の夏期セミナーで講演したときは、「経済活動との両立という観点」を押し出し、感染対策徹底の困難を語っていた。感染症対策の「専門家」ならば、経済界に向かって、国民の生命・健康が第一といってほしかった。それゆえ、「コロナ「尾身茂」という国難)─日本迷走の諸悪の根源」(『選択』20217月号110-113)の評価が妥当と考えている。『選択』によれば、厚生労働省の医務技監(次官級)に忖度して、PCR検査を抑制し続けてきた。「驚くほど専門知識がとぼしく、感染症ムラの専門家との議論では、全く歯が立たず、彼らの言いなり」「国会答弁では曖昧で冗長な発言を繰り返す」等々。「もし、尾身のポストにしかるべき人物が就いていれば、日本はここまで迷走しなかったはずだ」として、『選択』もまた、米国のファウチ所長と対比している。

   コロナ対策において、政府分科会副座長として尾身氏が初めて記者会見したときのことが忘れられない((『朝日新聞』2020225日付)。私には、その冗漫、冗長な話し方が耐えられなかった。新型コロナウイルス感染症に対してどう対処したらいいのか。一生懸命理解しようとして聞こうにも、とにかく冗漫なしゃべり方が理解を妨げるのである。あまりに官邸を意識しすぎである。今年に入ってからは、何より、専門的知見から、オリンピック開催をもっと強く、もっと明確な言葉で止めるべきだった。トランプとファウチのような緊張関係は、そこには残念ながらみられなかった

   尾身氏に違和感を覚えたのは、やたらとカタカナ語を、定義抜きに使ったことによる。彼が最初に使ったのが「クラスター」だったと思う。私にはとてつもない違和感があった。私の頭では、2008年のクラスター弾禁止条約との関連で書いた「直言」があって、クラスターといえば、クラスター弾が反射的に出てくる(直言「わが歴史グッズのはなし(46) 不発弾をつくる「悪魔の計算」―クラスター弾(その2も参照)

  尾身氏は、「集団感染」という意味で「クラスター」を使った。メディアは「クラスター」(集団感染)と併記した。今でも、「北海道でクラスターが発生」といった形で使われる。「クラスター発生」「クラスター対策班」など、感染した人々を無機質な「かたまり」であらわす、非常に冷たい言葉だと思う。感染症や専門家の世界では一般的に使われている言葉であることは承知しているが、政治家が、国民に向かって用いるときには、「翻訳」する必要があったのではないか。

次に尾身氏の口から出てきたのが、「オーバーシュート」(爆発的患者急増である。「オーバーシュート」は証券用語として使われているそうで、辞書には医療関係の意味が出てこない。尾身氏は記者会見でしばらく使っていたが、すぐに使わなくなり、メディアでも「死語」になったようである。

   さらに、「ソーシャル・ディスタンス」(社会的距離)。これは世界中で使われ、日本でも「普及」したが、何とも薄気味悪い言葉である。社会的分断につながる響きをもっているので、尾身氏自身、それに気づいたか、途中で「フィジカル・ディスタンス」(肉体的距離)と言い換えたが、これはまったくはやらなかった。いまも「ソーシャル・ディスタンス」が一般に使われている。「対人距離」あるいは「人と人との間隔」という形で、実際に即して表現すればいいものを、いまだに「ソーシャル・ディスタンス」が通用している。


小池都知事が言い出した「自宅療養」

   なお、尾身氏に由来するものではないが、政治家たちから飛び出した、歴史に残る残酷な言葉が「自宅療養」であろう。病床が逼迫して、医療崩壊が起きていた7月から8月いっぱい、東京や大阪、日本各地で、病院に入れず、自宅に放置される多くのコロナ患者が生まれた8月には、東京都だけで250人が自宅死している(警視庁調べ)728日、小池百合子都知事は、「自宅もある種、病床のような形でやっていただくことが病床の確保にも療養者の健康の維持にもつながる」といってのけた。これはさすがに評判が悪かった。82日、菅首相までが、「重症患者や重症化リスクの特に高い方には確実に入院していただけるよう、必要な病床を確保します。それ以外の方は自宅での療養を基本とし、症状が悪くなればすぐに入院できる体制を整備します」と述べたので、非難が集中した。「自宅放置」という公助の撤退を象徴する言葉として、「自宅療養」は歴史に残るだろう。小児科医師の阿部知子衆院議員の「自宅療養 患者を切り捨てる現実離れした政府方針参照のこと。
   今年の夏、メディアや国会審議にも登場した「野戦病院」という言葉も不適切だった。コロナ特措法31条の2に「臨時の医療施設」という法的根拠がある。医療逼迫・崩壊の状況のなか、通常の病院建設に必要な建築基準法や消防法などの規制の適用除外が明文化されており、迅速に医療施設を設けることが可能になっている。コロナを戦争に例えることの不適切性と同様の指摘が、この「野戦病院」という言葉の使用にもあてはまるだろう。


「エッセンシャル・ワーカー」と「テレワーカー」?

   私が気になるカタカナ語として、「エッセンシャル・ワーカー」がある。テレワークになじまない、医療従事者や運輸、通信、清掃などに従事する人々のことで、それに対して、パソコンを使って自宅でできるのが「テレワーカー」ということである。これは「ブルーカラー・ホワイトカラー」と重なる。
   人と人の接触によって感染するのが新型コロナウイルスだとすれば、オリンピック・パラリンピックを中止せず、人と人との接触の機会を拡大させた「観戦爆発」により、8月の「感染爆発」につながったのではないか。五輪の強行開催こそ、多くの命を奪った「戦争責任」に続く、「五輪責任」とはいえまいか。五輪開催とコロナ感染との関係における科学的な検証が求められる所以である。


コロナ禍のカタカナ語の頻用──法学部4年生のレポートから

さて、コロナに関連するカタカナ語の使い方について、参考までに紹介するのは、2020年春学期の私の担当科目「法政策論ⅠB」の任意レポートとして提出されたものである。授業期間中、いつでも、どんなテーマでも自由に書いて提出するようにいっている。執筆時点では法学部4年で、今年の3月に卒業した学生である。在学中、英国留学の経験もある。すでに社会人となっている本人の同意を得て公開する。これが書かれたのは昨年7月であること、学生のレポートであることにご留意いただきたい。文章としてはかなり読みにくいが、あえて修正しないで掲載する。この学生の言いたいことをくみとっていただきたい。

 

新型コロナウイルス大流行下におけるカタカナ語使用の是非

―カタカナ語「クラスター」が表す意味を漢字によって表す試みを通じて―

法学部4年生


Ⅰ 朝日新聞GLOBE記事批評と本任意レポートの目的

 「近頃のカタカナ語は許容できる?」という『朝日新聞』GLOBE202156日に掲載された記事がある(注:デジタル版 。続きはこちら)。新型コロナウイルス大流行下で行政により頻繁に用いられたカタカナ語に疑問を投げ掛ける形で、カタカナ語使用の是非がアンケート結果を利用しながら検討されている。カタカナ語をことごとく漢字に直すべきであると主張する人の意見が紹介された後、カタカナ語が人々に理解されているかが重要だと主張する人の意見が紹介されている。新型コロナウイルス感染拡大を防ぐ措置が日本国民に説明される際、頻繁に用いられた「クラスター」というカタカナ語を理解出来なかった私は、この記事を興味深いと思った。記事からは、結局、カタカナ語が許容されるか、カタカナ語が漢字で表されるべきであるかは、カタカナ語を読む人の主観によるという結論しか私は引き出せなかった。本任意レポートにおいて、私は英英辞典を用いて、カタカナ語「クラスター」の意味を漢字によって表す試みを通じて、新型コロナウイルス大流行下におけるカタカナ語使用の是非を検討してみたい。

Ⅱ clusterの漢字表記

 『ロングマン現代英英辞典』によると、clusterという英語の可算名詞には次の3つの意味がある。

1 a group of things of the same kind that are very close together

2 a group of people all in the same place

3 technical a group of SECTORs on one or more computer DISKs

   新型コロナウイルス大流行下で行政によって用いられたカタカナ語である「クラスター」は、ある人々を意味するために用いられている。上記意味3つの内で2番目に書かれた意味が「クラスター」を説明する意味だろう。  

「集団」としばしば訳される英単語たるgroupは、同辞典によると以下4つの意味を有する。

1 several people or things that are all together in the same place

※英国英語においてgroup1の意味で用いられるならば単数形であっても複数形名詞に続く動詞に伴われると同辞書に記載されている。英国英語においては、A group of scientists generally work together on some research project.という文が成り立つ。

2 several people or things that are connected with each other

3 several companies that all have the same owner

4 a number of musicians or singers who perform together, playing popular music

 上記4つの意味において、1番目、2番目、4番目の意味が、ある人々を表す。1番目は「同じ場所に皆一緒にいる複数人」である。2番目は「お互いに関連付けられ合う複数人」である。4番目は「流行音楽を演奏して人々を一緒に楽しませる何人かの音楽家または歌手」である。

 一方で、clusterにおける前述2番目の意味は「同じ場所に皆いる複数人」である。

 clusterにおける前述2番目の意味と、groupにおける前述1番目の意味は、ほぼ一致する。物理的にお互いに近接する複数人を両者は表す。

 clusterにおいては前述2番目の意味のみが、ある人々を表す意味である一方、groupは、ある人々を表す意味を複数有する。groupにおける前述2番目の意味において表される複数人は「お互いに関連付けられ合う複数人」である。当該複数人は必ずしもお互いに近接する訳ではないであろう。groupにおける前述2番目のこの意味の用例として、a group of rightist politicians「右翼政治家集団」が挙げられよう。当該用例において一緒くたに表される政治家複数人は必ずしも物理的にお互いに近接する訳ではないだろう。

 groupで表されるある人々は物理的にお互いに近接する複数人かもしれないしそうでない複数人かもしれない。一方で、clusterという英単語において表されるある人々は必ず、物理的にお互いに近接する人々である。groupに対応する訳語としてしばしば用いられる「集団」という言葉を、groupよりも人々相互の距離に関して限定された意味を持つclusterを日本語に訳する言葉として使うべきではないだろう。厚生労働省は「クラスター」を単に「集団」と訳すが、この訳は以上に述べられた理由を考慮すると使われるべきでないだろう。

 clusterという英単語において表される人々は必ず、物理的にお互いに近接する人々である。ゆえに、clusterという英単語は新型コロナウイルス感染拡大を防ぐ措置において「密集集団」と訳されるべきだと私は考える。

Ⅲ カタカナ語「クラスター」と漢字表記「密集集団」の比較

 新型コロナウイルス拡大とどう関係するか予め説明されなければ「クラスター」も「密集集団」も新型コロナウイルスを知らない日本語を母語話とする者の多くに理解されないだろう。「クラスター」というカタカナ語を知らない日本人の多くが「クラスター」という言葉を初めて読む時、「クラスター」の意味を理解できはしないと私は推察する。「クラスター」はclusterという英単語の音を表意文字でなく表音文字たるカタカナを利用して表した言葉に過ぎないからである。「クラスター」がどう新型コロナウイルスに関係するか「クラスター」の意味を理解しない人間は理解しないであろう。「密集集団」という言葉を初めて読む日本語母語話者の多くは「密集集団」が「密集した集団」や「密集する何かによって構成される集団」を意味すると理解するであろう。「密集集団」という言葉は、たとえば「児童密集集団」というように、新型コロナウイルスとは関係なく使われる一般用語たり得るので、「密集集団」がどう新型コロナウイルスに関係するかを、「密集集団」を初めて読む日本語母語話者の多くは理解しないであろう。

 専門用語として定着していない両言葉たる「クラスター」と「密集集団」が同じ意味を有するのであれば、表音文字で表されるがゆえに日本語母語話者の多くにとって意味を把握し辛い「クラスター」よりも表意文字で表されるがゆえに日本語母語話者の多くにとって意味を把握し易い「密集集団」の方が、「クラスター」や「密集集団」で表される意味を日本語母語話者の多くが理解して記憶するために必要な段階が少ないであろうから、「密集集団」が使われるべきであると私は考える。日本語母語話者の多くが「クラスター」を理解して記憶するためには、①「クラスター」が有する意味を説明される、②「クラスター」が有する意味を表意文字を使用しない「クラスター」に頼れない状態で理解する、③「クラスター」というカタカナ語の音を暗記する、④「クラスター」が有する意味と「クラスター」の音を結び付けて記憶するという4段階を経なければならないだろう。日本語母語話者の多くが「密集集団」を理解して記憶するためには、①専門用語「密集集団」が有する意味を説明される、②専門用語「密集集団」が有する意味を、表意文字を使用する一般用語「密集集団」に頼りながら理解する、③専門用語「密集集団」が有する意味を一般用語「密集集団」が有する意味に関連付けながら記憶するという3段階を経なければならないだろう。

 「クラスター」以外のカタカナ語についても同様に、専門用語として定着していない言葉であるカタカナ語と、その意味における漢字表記が同じ意味を有するのであれば、表音文字で表されるがゆえに日本語母語話者の多くにとって意味を把握し辛い当該カタカナ語よりも、表意文字で表されるがゆえに日本語母語話者の多くにとって意味を把握し易い当該漢字表記の方が、当該カタカナ語や当該漢字表記で表される意味を日本語母語話者の多くが理解して記憶するために必要な段階が少ないであろう。だとすれば、当該漢字表記が使われるべきであると私は考える。

IV  結論

 数ヶ月間で急激に感染者数を増やした新型コロナウイルスによりよく対処するためには、行政がする新型コロナウイルスに対する説明を国民全体がより迅速に理解する必要があるであろう。新型コロナウイルス大流行という未曽有の事態において、国民大多数にとっては、既知の医療知識のみならず、国民大多数にとって未知の医療知識が国民に説明される必要があるだろう。未知の医療知識が国民に説明される過程では、国民大多数にとって全く聞き慣れない専門用語が使われ得る。未知の医療知識に対する国民全体のより迅速な理解が不可欠であり、かつ、国民大多数にとって聞き慣れない専門用語がいくらか導入されざるを得ない状況において、国民大多数による専門用語に対するより迅速な理解や記憶を可能にする専門用語の漢字表記が、カタカナ語の専門用語よりも選択されるべきだと私は考える。

Ⅴ 本任意レポートにおける課題

 実証に基づく客観的な証拠を取り入れなければならないという課題を本任意レポートは抱える。本任意レポートには実証に基づく客観的な証拠が欠けている。実証をしてみたら前述の4段階よりも3段階の方が、実はより多くの時間を要するという証拠が生まれるかもしれない。

《参考資料》

朝日新聞GLOBE(202052日付)「近頃のカタカナ語は許容できる?

ロングマン現代英英辞典(5訂版)

厚生労働大臣レク用資料(2020年)

 


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