追悼・外岡秀俊さん――いま、ジャーナリストに求められているもの
2022年1月24日


出会いの最大瞬間風速

のところ、大切な人が次々に亡くなっていく。人は、「人と人との出会い」によってつくられる。私も最初は、父と母の出会いである。これがなければ私はいない。でも、そこからは、たくさんの出会いの連鎖が私をつくってくれた。子どもの頃は、水島正美という植物学者のおじさん小学校の先生の影響が大きい。その後は、「出会いの最大瞬間風速」を繰り返しながら、この歳まで生きてきた。25年連続更新を続けてきたこの「直言」のなかで、追悼文を書いた方々が何人もいる。例えば、ベルリンに「ヒロシマ通り」をつくった友人ハインツ・シュミット、作家の辻井喬さん、俳優の米倉斉加年さん菅原文太さん。憲法研究者では、芦部信喜奥平康弘深瀬忠一の各先生。「最後の特攻隊員」信太正道さん、元・沖縄県知事の大田昌秀さん等々…。私自身、70歳を目前にして、同世代との別れも続いている。

 

28年前の出会い、「戦後50年企画」

18日の新聞各紙を開いて愕然となった。『朝日新聞』の訃報欄には、外岡秀俊さん(元本紙編集委員・作家)死去とある(デジタル版は17)。昨年1223日、68歳で亡くなっていた。急いで手帳を確認すると、私の広島大学時代19941041930分、東京の自宅で取材を受けていた。「戦後50年企画」で相談したいというのが訪問の目的だった。お互いにまだ41歳。私は広島大学助教授、外岡さんは、ニューヨーク特派員を終えて本社の社会部に戻った頃だったと思う。広島の中国新聞社から出版した『ベルリンヒロシマ通り』(森英樹・書評)をお読みになられていて、ドイツと日本の戦後50年を比較する特集を組みたいというのが取材の趣旨だった。

それから28年間、さまざまな場面で外岡さんとは「見えざる連携」を続けてきた。直接会ってお話する機会は数えるほどしかなかったが、テーマや書かれたものが、なぜか不思議と重なるのである。

先週、作家の池澤夏樹さんの文章を読んで妙に納得した。冒頭の写真、「ぼくは未来の親友を失った 外岡秀俊さんを悼む」(朝日新聞』2022119日付夕刊・デジタル版)。「人生にはすぐ横のトラックを走る仲間を見ながら行くということがある。競走ではなく並走。外岡秀俊はそういう相手だった。会ったのは二回ほどしかないし、それも立ち話くらい。友人とは呼べない。しかし彼が朝日新聞のヨーロッパ総局長としてロンドンにいた時から署名記事はすべて読んできた。ぼくもフランスに住んでいたからいちいち納得することが多かった。国際関係を理解するセンスを共有していると思った。東日本大震災の後で三陸地方に通い詰めていた時期、彼が阪神淡路大震災について書いた『地震と社会』は座右の書だった。何を考えても先回りされている。…この先、会って飲んで喋って、長い時間があると思っていた。ぼくは未来の親友を失ったのだ。」

 かなり昔に外岡さんが書いた新聞コラムのタイトルで、気に入っている言葉がある。「人の出会いにも季節あり」(朝日新聞』1999926日付)。民俗学の南方熊楠が、孫文との交友を振り返って、「人の交わりにも季節あり」と述べたことを外岡さんが言い換えたものだ。28年の間に、外岡さんとのメールのやりとりをするときには、必ず何かの「現場」がかかわっていた。その「現場」の季節の変化の度に、外岡さんとのやりとりは続いた。


阪神大震災、沖縄、イラク戦争、アジアへの視点

外岡さんは、朝日新聞社のみならず、全新聞社のなかでスターライターであったことは間違いない。常に「現場」に向かう。阪神淡路大震災、沖縄、アジア、東日本大震災…。

1995年の阪神淡路大震災で、私は救助組織のあり方について論稿を発表した(『世界』19953月号)。外岡さんは、『地震と社会』上(みすず書房、1997年)のなかで、私の主張を詳しく紹介してくださった。私も『沖縄タイムス』200092021日に連載した「「ビックレスキュー東京2000」への疑問のなかで、『地震と社会』を引用している。「…オーストリア軍の災害救助隊(AFDRU)は、自治体や他の組織との連繋をはかるため、2つの原則をもつ。1つ。被災地においては、自治体の指揮下に入り、どの組織もできない専門的な仕事に徹する。2つ。自治体や他の行政機関、非政府組織、民間が行える活動を代わりにやってはならない(外岡秀俊『地震と社会』みすず書房)。…」

199712月の辺野古新基地建設をめぐる名護市住民投票(「市民投票」)の前後でも、外岡さんの沖縄取材の記事は光っていた。私も『沖縄タイムス』などに書いた。その後、2002101日付で朝日新聞ヨーロッパ総局長に就任された時、「管理職になって、編集委員としての自由な取材ができなくなりますね」というメールを送ると、すぐに「各支局がしっかりしているので、総局長なんてやることないです。一人で好きにやります」という返信があった。

2003年になって、イラクに対するアメリカの武力行使の動きが急になってきた。2003214日(金)の国連安保理で、アメリカは孤立した。ドイツとフランスが武力行使に抵抗した。その翌日の15日(土)、全世界でイラク戦争反対のデモが行われた。外岡さんはこれを取材して、「反戦の波、地球を回る イラク問題で集会・デモ「60カ国」」という見出しで、216日付1面に出した。

私は、イラク戦争が始まる17日前の直言「いま、そこで作られる危機のなかで、外岡さんのこの記事を紹介して、「いま、「国際の平和及び安全」を脅かす危機はワシントンで作られている。「いま、そこで作られる危機」を見抜く目が求められている。そのための第一歩が、対イラク攻撃の阻止だろう」と結んだ。結局、イラク戦争を防ぐことはできず、その結果はいまも世界に甚大な損害を与え続けている。


NHKラジオ「新聞を読んで」と外岡さん

私は1997年から2011年まで、NHKラジオ第一放送「新聞を読んで」のレギュラーを務めた。このホームページに私の放送内容はすべて収録してある(バックナンバー:NHK「新聞を読んで」、11年分をまとめて『時代を読む』(柘植書房新社、2009年)として刊行)。14年間に外岡さんの記事を紹介したことが何度かある。特に、歴史認識をめぐって、日中、日韓の関係が悪化した2005、ヨーロッパ総局長の外岡さんの署名記事、「『過去の克服』今も進むドイツ、日本に残る『対話の不在』」(『朝日新聞』2005526日付オピニオン面)について、ラジオの番組のなかで語った(200564日午前538分放送)。直言「「対話の不在」克服への道でも紹介した。

 

…「ドイツは植民地の多くを第一次大戦で失った。日本には、戦前から植民地化した台湾や朝鮮半島、旧満州の問題がある。そこが大きな違いだ。英仏など欧州の宗主国は、戦後10年から20年をかけて植民地が独立するまで、つらい葛藤の時期を体験した。どうしたらお互いの信頼を勝ち取るかで悩み抜いた」。これに対して、敗戦直後に植民地を切り離された日本は、冷戦構造に組み込まれ、旧植民地の多くと対話が途切れた。そこに一種の「記憶の空白」が生まれた。「記憶の空白」は「対話の不在」につながる。外岡氏は、歴史認識の問題の根っこには、この「対話の不在」があったと指摘し、歴史認識を深めるためにも、対話を重ねお互いの信頼を築くことの大切さを強調しています。重要な指摘と思います。 …

 
 5年後の2010年、日中関係はさらに悪化して、反日デモが起きるようになると、私は再び外岡さんの記事を紹介した(NHKラジオ第一放送「新聞を読んで」20101023日午前518分放送)。まるで12年後の「いま」を語っているようである。 

…『朝日』1020日付「ザ・コラム」の「南海の波、静める知恵を」(外岡秀俊)が注目されます。中国の急成長に応じ、尖閣諸島が領土という「点」から、「線」と「面」の問題に発展しつつある。中国は日本列島からサイパン・グァムに連なる「第2列島線」の外に進出し、さらに東シナ海進出の勢いを強めていく。「線」では、日本だけが米中対決の矢面に立たないよう、緊張緩和に向けて働きかけること。「面」では、東南アジアを含む多国間外交を駆使して、中国の「覇権」志向に歯止めをかけることが大切だと書いています。「かつて尖閣は琉球王国に属した。当時は、琉球、福健、台湾の漁民が周辺の海で平和に漁をしていた。日中『対決』の波が険しくなれば、自衛力の増強や、沖縄における米軍基地固定化の声も出てくるだろう。緊張の高まりで大きな波をかぶるのは、いつも沖縄であったこと、忘れずにいたい」。いたずらに危機感をあおることなく、このような冷静な視点が必要だと思います。…」



新聞の危機のなかで
 

  200610月、外岡さんは朝日新聞東京本社編集局長兼ゼネラルエディターとなった。大学でいえば学長である。朝日のトップになっても、外岡さんは嬉しそうでなかった。私も、大学の役職者に「ならない、なれない、なりたくない」で、学部も全学もほとんど無役の一教授で定年を迎えようとしている。外岡さんも一記者として取材を続けたいという人だった。だから、お互いに暗黙の連帯感があったのかもしれない。1年足らずで編集局長を降りて、20079月、香港駐在の編集委員となった。たまたま電話で話した。「先生、一人で取材できるようになって楽しいですよ。香港は、実は東京よりも沖縄に近くて行きやすいですから」と笑った。メールの送受信を検索してみて、香港から届いたメールが出てきた。

■2008年6月2日11時51分
ご返事、ありがとうございました。

  私も、先生の折に触れてのご発言に、いつも支えられてきました。私はいつも同僚に話すのですが、新聞の役割は、「自分がいつも感じていたことを、代わって新聞が発言してくれている」と、読者に感じてもらうことだろうと思います。そのためジャーナリストは、必死になって発言者を探し回ります。しかし、だれも発言してくれなかったらどうするのか。私は、その場合には、ジャーナリストが自分で発言すべきだと思います。もちろん、意見と報道は違うので、なかなか機会はありませんが、現場で人々とじかに接していれば、黙っていることができない、あるいは彼らに代わって発言することが許される局面があるのではないか、という気がするのです。そう思うようになったのも、これまで先生が、一見孤立無援の状況にあって、果敢に発言してこられたことの影響が少なくありません。  いつか、八ヶ岳の先生の仕事場で、そんなことなどを話せたらうれしいと思います。

香港・外岡

 
  話は前後するが、2014年、慰安婦報道における「吉田清治証言」について、「訂正するのが遅きに失した」と朝日新聞社長が謝罪したことから始まった「朝日叩き」が激しさを増していた頃、私は直言「
歴史的逆走の夏――朝日新聞「誤報」叩きと「日本の名誉」?」を出した。念のため、アップする前に生原稿を、外岡さんにお送りした。すると、下記のメールがすぐに届いた。

20149271011
水島先生、お久しぶりです。いつも「直言」を楽しみに拝読し、いろいろと考えさせられます。今回は原稿を事前にお送りいただき、感謝しております。先生のご指摘に、まったく同感です。
 私自身、200607年には東京本社の編集局長(GE)をつとめ、吉田証言の誤報を訂正しなかったという不作為の責任があるので、あえて公には発言はしていません。それに、OBは後輩に向かって直接ものをいうべきで、第三者のように外部から批判をして現役の記者をがっかりさせるのは、望むところではありません。自分なりに、後輩を激励したいと思っています。…
 私は、報道機関はつねに読者、視聴者に対して責任を負っており、謝罪は、報道機関に信頼を寄せてくれる読者・視聴者に対して行うものだと思います。もちろん、「誤報」によって第三者を傷つけた場合には、その第三者への謝罪も必要です。謝罪は当事者にとっては恥ずかしいことかもしれませんが、自らの報道を検証し、誤りを是正することは、読者・視聴者からの信頼を得るにあたって、最低限の言論責任だと思います。その意味では、謝罪を恐れるべきではなく、謝罪したうえで、信頼を得るべく、また地道な報道を重ねる以外に方法はないと思います。
 あまり参考にならないと思いつつ、感謝の気持ちをお伝えしたくて、感想を書かせていただきました。今後も「直言」を楽しみに拝読いたします。
外岡秀俊

東日本大震災と外岡さん

2011311日、東日本大震災が起こった。私はこの「直言」でこの問題について書き続けた(バックナンバー:2011321日以降)朝日新聞社の週刊誌『アエラ』2011411日号に、「これほどの無明を、見たことはなかった 通用しない阪神大震災の教訓 東日本大震災」と題する外岡さんのルポが掲載された。私はすぐに読了して、外岡さんにメールを送った。


2011491012
外岡秀俊様
お元気でご活躍のことと存じます。先日、『アエラ』のルポを拝見しました。朝日社機からの俯瞰、車での地上からの細かな取材。スケールの大きなルポでした。特に東北道で抜いた車が136台という視点は鮮やかでした。そこから支援のテンポをあげる必要性がみえてきます。
  阪神淡路大震災のときの作品『地震と社会』をお送りいただきました。労作でした。確かな視点と徹底した取材。短いながら、『アエラ』のルポは力作でした。 とはいえ、政府の対応はあまりににぶく、原発の状況は悲惨です。そんなときに、外岡さんが朝日新聞から去られたことは大変残念です。このメールも移行期のわずかな間だけでしょうか。メールアドレスが変更になるなら、お教えください。それでは、これからも健筆を期待します。とりいそぎ。
水島朝穂

  外岡さんから返事がきたが、フリーになって間もないからか、どことなく元気がない。

 2011411924  
  メールありがとうございました。
3月末日をもって退社し、札幌に帰郷しました。間の悪いもので、退社手続きが終わってから震災が起き、アエラのルポ校了が3月末日でした。…一足早く退社したのですが、やはり現地の光景を目にすると、このまま安穏と過ごすことはできません。フリーの一ジャーナリストとして、何ができるのか、いろいろ算段しているところです。頭よりも先に、体が動き出す性格なので、まあ、体に従って、追いかけていこうかと思います。…
外岡秀俊


   私は、熱心な「直言」読者の降矢通敦さん(福島県郡山市在住)の「決して燃やしてはならない「消せない火」を私たちは燃やしてしまった――私のいわき福島原発災害の記録」を、直言「想定外という言葉―東日本大震災から1か月で紹介した。すると、降矢さんから、「先生、大震災の現場に是非ともおいで頂きたい。直言で書いてほしい」というメールが届いた。実際の現地案内は、富岡町職員で原発担当課長も務めた白土正一さんが運転手役をかって出て下さった。その結果、「直言」の連載を続けることができた。外岡さんから、その降矢さんと白土さんを紹介してほしいというメールが届いたわけである。即レスで、お二人の連絡先を外岡さんにお教えした。なお、この写真は、2011年4月30日、岩手県大槌町の吉里吉里地区避難所近くのJR山田線(当時)吉里吉里駅(電車は不通)で撮影したものである。


2011582233
お世話になっています。いつぞやは、ご丁寧なメールをありがとうございました。3月末で退社し、郷里の札幌で両親の世話をするつもりでいましたが、今回の震災で、細々と活動を続けることにしました。
  ところでお願いがあるのですが、水島先生が、直言でご紹介になっていた降矢通敦さんか、白土正一さんを、ご紹介いただけないでしょうか。私は最近、ブログを始め、次回から福島に入ろうと思っていますが、なかなか現地につてがなく、どうしようかと迷っていました。もし、ご紹介いただけたら、たいへんありがたいのですが。大変お忙しいところを、お邪魔して申し訳ありません。

外岡秀俊

2011591613
水島先生
さっそくのご返事、ほんとうにありがとうございました。フリーになって、組織の後ろ盾がなくなると、人のご親切や真心が、ひとしお、身に沁みます。ご連絡をとらせていただきます。札幌のご講演の時間と場所が決まりましたら、お知らせください。札幌にいましたら、ぜひ伺いたいと存じます。取り急ぎ、御礼まで。

外岡秀俊

  翌年、「直言」をベースにして、『東日本大震災と憲法─この国への直言』(早稲田大学出版部、2012) にまとめた。それをお送りすると、下記のような外岡さんのメールが届いた。なお、2013年の日本公法学会における総会報告をまとめた「緊急事態における権限分配と意思決定─東日本大震災から考える」 (鎌田薫監修『震災後に考える─東日本大震災と向き合う92の分析と提言』(早稲田大学出版部、2015)529-541頁も参照)。

201231399
ご丁寧なメールを、ありがとうございました。
直言、いつも楽しみに拝読し、多くのことを考えさせられます。

先生の「東日本大震災と憲法」、その迫力に圧倒されました。とりわけ女川原発の箇所は、どのマスコミも報じていない貴重な記録だと思います。自衛隊の動きにも細かく目配りをされており、今回の動きを評価しつつも、それが過剰な賞賛へと向かわないよう、慎重な抑制と警告をしておられることに、深く共感しました。またお目にかかれる日を楽しみにしています。

外岡秀俊

だが、そこは外岡さんである。地震・津波(天災)と原発(人災)による「合成(複合)加害」という視点から、外岡秀俊『311 複合被災』(岩波新書、2012)を出版された。この方のすごさは、ジャーナリストとしての確かな取材と文章に加えて、作家としての文章の冴えがある。外岡さんは、「言葉に全人格の重みがこもる。おのずと輝く「個」の発光がある」と述べている。作家・池澤夏樹さんが外岡さんに抱く気持ちと重なるところがある。とにかくすごい人だった。本当に惜しい方を失ったと思う。

 

しっかり見守ってください

外岡さんには、むのたけじさんと同じ101歳まで生きてほしかった。そして、ジャーナリストとは何かを説き続けてほしかった(直言「ジャーナリストとは何か――むのたけじ氏の言葉)。私は、むのさんを目標に、この「直言」の連続更新を続けていく決意を外岡さんに伝えたいと思う。

ヨーロッパのNATO正面がウクライナをめぐって怪しい雰囲気である。台湾をだしにした米中対立も危うい状況にある。岸田文雄政権は「飲みやすい毒薬」である。

外岡さん、安らかに眠らずに、しっかり後輩の記者たち、そして私たちを見守ってください。

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