反戦デモは「グレーゾーン事態」か?――2020年陸幕記者説明資料と「60年安保と治安出動」
2022年4月18日

反戦運動の「探知・無力化」

クライナ侵攻に反対するロシアの市民のデモはことごとく弾圧・抑圧されている。白紙の紙を持って通りに立っただけで身柄拘束される映像は衝撃的だった。いずこにおいても、戦争に反対する市民の声に対して、権力者はそれを「敵」の煽動によるものと見て、制圧の対象とする傾きが強い。

  「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている」という安倍晋三政権下の202024日、陸上幕僚監部(以下、陸幕という)が実施した記者向けの勉強会(説明は陸幕防衛班長(一等陸佐(三))で配布された資料『陸上自衛隊の今後の取組み』のなかに、「予想される新たな戦いの様相」の「グレーゾーン事態」として、「テロ」「サイバー攻撃」と並んで「反戦デモ」 があげられていたことが明らかとなった。330日の衆議院外務委員会における穀田恵二議員(共産)の質問である(衆院外務委・2022330日、3時間4510秒あたりから)。答弁した防衛副大臣によれば、その場にいた記者からの指摘を受けて、「反戦デモ」を「暴徒化したデモ」に修正した文書を後日配付したという。なお、「グレーゾーン事態」のケースのトップには、「事実に反する事柄を意図的に報道する行為」があがっていたが、「事実」は誰が判断するのか。これについても、記者はなぜ指摘しなかったのか。報道の自由に対する感覚が問われる。 

 上記の質疑のなかで、「反戦デモ」となっている修正前の文書について、公文書管理法に基づく行政文書であり、保存期間が1年あったにもかかわらず廃棄していたことも明らかとなった。松野博一官房長官は331日の記者会見で、陸幕の「グレーゾーン事態」の例として「反戦デモ」を挙げていたことを認めた上で、「合法的に行われている場合も含め、一様に記述したことは誤解を招く表現だった」と釈明した。その上で、保存期間1年とすべきものを翌日に廃棄したものと推定されるとして、こうした防衛省の対応は「行政文書の管理に関するガイドラインの規定に照らし合わせれば不適切だった」と認めた(『東京新聞』41日付)。都合の悪い公文書を隠蔽したり廃棄したりすることは、20177月、国会で追及された南スーダン派遣部隊の「日報」問題を想起させる

 反戦デモをテロ行為と同列に扱うのは、陸幕長クラスも同様だったことが報道されている(『朝日新聞』デジタル47)。ここまで反戦デモを敵視するのには理由がある。軍事問題研究会が情報公開請求で開示させた『情報科運用(試行案)』(陸上自衛隊教範、平成30121日)がそれである(軍問研ニュース(202238))。これは、「反戦運動の探知・無力化を図る陸自マニュアル」とされる。情報活動は、「敵、地域等に関する知識を獲得して使用する分野、我が状況を把握する分野及び敵の情報活動を無力化する分野」(2)からなる。そして敵の情報活動を無力化する分野を「保全」という(18)。保全は、「探知活動」と「無力化活動」に大別される。そういえば15年前、東北方面隊(仙台)の情報保全隊長名の資料が表に出ることで、イラク派遣に反対する市民や集会やデモ、記者の取材活動などが細かく調査されていたことがわかった(直言「情報の保全の保全の保全…」参照)。


 60年安保と自衛隊の治安出動

 反戦運動をテロ行為などと並立して捉える発想法というのは、実は62年前から一貫している。冒頭左の写真は、右から、『60年安保と陸上自衛隊(東部方面隊の部)』(昭和39年年1月、東部方面幕僚副長手書き文書)、陸上自衛隊幹部学校第1研究室『60年安保闘争の史的考察(60年時点における国内戦争の立場から)』(昭和448月)、『70年代の日本における暴力革命運動の展望(過激な学生集団を中心に)』(昭和453月)である。最初のものは手書きで「秘」とあり、後二者は「取扱注意」である。また、冒頭右の写真は、治安出動、治安警備の法令・訓令の類を集めたもので、陸上自衛隊のものを持っていないので、ここでは海上幕僚監部防衛部『治安警備の参考』(昭和3512)をあげておく。いずれも、30年ほど前に古書展目録から落札したものである。

 19606月、安保条約をめぐる反対デモが国会周辺で連日行われるなかで、自衛隊の治安出動が検討されていた。上記写真にある『60年安保闘争の史的考察』には、「国内戦争」という言葉が使われている60年安保闘争について、自衛隊はこれを「国内戦争」と捉えていた。「国内戦争」には二種類あって、侵略により国土を戦場として戦う「国土防衛戦争」と、国内で相対立する集団によって戦われる狭義の「国内戦争」である。大衆の暴動等がそれで、従来は「間接侵略」(自衛隊法1)の観点から「未来予測的な様相研究」が行われてきたが、ここでは「史的研究」という角度から安保闘争が盛り上がったのはなぜか、これが「革命」に発展しなかった理由などが分析されている。「国際共産主義運動の影響」という視点が押し出され、60年安保が「革命」に発展する可能性ありという強い問題意識をもっていたことがわかる(6-7頁)。冒頭の記者レク資料で「反戦運動」をテロなどと平気で並記できるのは、長年にわたるこうした問題意識に起因しているのであろう。

  520日に衆議院で新安保条約の承認が強行採決され、参議院での審議がストップした。岸信介内閣は、30日以内に参議院が議決しなければ、衆議院の議決を「国会の議決」とするという憲法61条を使って、619日に「自然承認」となった。この日には、アイゼンハワー米大統領の訪日が予定されていた。安保条約に反対する数十万のデモ隊が国会を取り囲んでいたが、これに対して岸首相は、赤城宗徳防衛庁長官に、陸上自衛隊の治安出動を要請した。赤城長官はこれを拒否した。

治安出動を拒否した防衛庁長官

  赤城著『今だからいう』(文化総合出版、1973年)「自衛隊出動についての真相」の節では、「それにしても、紙一重の決定であの時自衛隊を出していたらどうなっていたろうか、いまでもこれを考えると、冷や汗が出る」と書いている。赤城が88歳で亡くなる3年前に、朝日新聞の横山宏記者が単独インタビューしている(『朝日新聞』1990523日付)。重要な証言だと思うので、ここに引用する。

 「自衛隊で抑える必要がある、といった党内世論が強くなって、池田(勇人)通産相や佐藤(栄作)蔵相からも『なんとかならんのか』って言われてた。そのうち川島(正次郎)幹事長が地下道を利用して防衛庁に来たんだ。『赤城君、ちかごろ君の評判が悪くて困った。弱腰長官だって評判だ。このへんでなんとかしなくちゃあ、立場が悪くなるぞ』って」

 「そこで3幕僚長に聞いたんだ。陸幕は『自衛隊はデモ鎮圧の訓練をしていない』。海幕は『日本人に砲撃はできない』。空幕は『日本人を爆撃できない』っていうんだ。そこで川島さんに、『私が命令しても出動をしり込みするし、無理ですよ』と言ったら、悄悄として去ったよ」

  「ハガチー事件があって、ついには樺美智子さんが死ぬ。アイゼンハワー大統領の訪日をどうするかって時、岸さんの私邸に呼ばれたんだ。『出せ』とは言わなかったが、『赤城君、自衛隊はどうなんだ』って。私は『出せというなら出さざるをえない。しかし、出したらデモは全国に広がりますよ』って言ったんだ。武器を持ったら日本人を殺すことになる。反発が強まってデモは全国に広がり、抑えられなくなる。武器を持たなければ逆にデモ隊におしつぶされてしまう。そしたら同席していた代議士が、『防衛大の学生を出せばいい』って言うんだ」

  「最後は、『総理が出せと言えば拒否はできません。それだけ申しあげて失礼します』って帰っちゃった。岸さんは『そうか』と言っただけだった。その夜は眠れなかったな。出動となったら『私は責任持てない』と言うしかなかった。ところが(6月)16日の閣議で、岸さんがいきなり『この際は、大統領に対して日本においで願うことは、お断りします』と言ったんだ。ビックリした。ホッとしたな」

 「もし、あのとき自衛隊が出動していたら、自衛隊はなくなっていたな。デモを抑えられないようなものは必要ないってことになっていたろう」

 「今、世界は軍備で行き詰まっている。将来は日米安保はやめたらいい。アメリカに守ってもらっているから駐屯費も負担しなくちゃならん。アメリカは撤退してくれたほうがいい。日本の安全保障費用は日本で持てばいい。たいしてかからんだろ、日本は敵を持っていないんだから。ソ連もアメリカも敵にするわけにはいかんのだから」


東部方面幕僚副長の文書

 冒頭左の写真にある『60年安保闘争の史的考察』は1969年の研究であり、前述のように運動の背景や原因などの分析に重点が置かれている。ただ、この文書で注目されるのは次の下りである。すなわち、「自衛隊が出動してくる」という「たあいのない噂」「デマ」が流れだすと、デモ隊のなかに緊張と恐怖が広がり、618日午後10時頃には、デモは4万に減少した。「この4万は、18日の12時過ぎに安保条約が自然成立するまで座り続けていたが、自衛隊出動説におびえてか、国会突入はやらなかった。大勢が決したことを知った彼等は、敗北感を抱いて解散していった」(33頁)。

  自衛隊の出動は「他愛のない噂」「デマ」だったのか。赤城防衛庁長官(当時)は前述の著書のなかで、「「待機姿勢を」との命令を出した」と書いている。これを治安出動待機命令(自衛隊法79)だとすると、「内閣総理大臣の承認を得て」とあるから、岸首相とのやりとりをみても、正規の待機命令を出したかどうかは不明である。

 自衛隊が事実上の治安出動待機状態にあったことを示す一次資料が、冒頭左の写真の一番右の手書き資料である。この文書は、東部方面幕僚副長(防衛担当)の陸将補が執筆したもので、末尾に登場する人物が列挙されている。陸幕長、EA(東部方面総監)1D(1師団長)1i(1普通科連隊長)と、東方幕僚長、2人の幕僚副長、G-2(情報部長)G-3(運用部長)1D幕僚長が登場する。左の写真が文書の目次である。手書きの上、青焼きコピー(ジアゾ式複写)で見にくいが、第1「東部方面総監部(EAHQ)の状態、第2「ア米大統領訪日を巡る情勢の推移」、第3「安保闘争最高潮時」、第4「安保条約自然成立後」、第5「情報関係の教訓及び所見」からなる。

  「まえがき」では、デモが頂点に達した618日、アイゼンハワー訪日の619日を前にして「出動の一歩手前まで進展した」として、「一般に公表されていないEAHQの主要な動き」を中心に、時系列で書かれている。ここで注目されるのは、大統領の訪日中止は、6161600、警備打ち合わせの担当者会議の場で明らかにされたことである。「当時はなんとなくホッとした感じと拍子抜けの感じが交錯し」とあるが(17)、マスコミ発表はまだで、デモは19日に向けて大規模に組織されていた。

  第2の箇所で、「陸幕長の意図開陳」という節があり、そこで、「長官も次官も簡単には出動しないという方針を堅持しておられる。しかし、万一を考慮し準備は十分にして万全を期したい」とある。「EA[東方総監]の意図」には、「東方隊員としての心がけ」として「東京付近の部隊は言動に注意し、模範たるとともに、治安出動の心構えを持つこと」とある。前述のように、赤城長官が出動に強く反対していることについて、幕僚長も認識していたわけである。

  3の「最高潮時」の写真がこれである。6181100に東部方面総監が隷下部隊長を招致し、出動に関する訓示を行ったことがわかる。総監の「企図・腹案」を幕僚副長が説明している。第1師団は1800、その他の諸隊は1900から2030に出動準備を完了し、「(治安出動)下令後1時間以内に出発しうる態勢が整った」とある(18)。「出動の機運いよいよ濃化していたが、陸幕長と総監は断固反対の態度でおられた(防衛副長に電話連絡せらる)」。ただ、デモの動きは流動的で、国会周辺にしぼられると判断して、第1師団長は「国会付近に出動の構想を練らせておられた由」とある(19)

   6190100、陸幕第3(G-3)副部長から東方副長に電話。警察庁からは「今日はたいした事にはならぬと思う。次は22日頃が山と判断。19日は自宅待機」との電話があり。「一息入れるため、19日は関係者以外は帰宅させる。Hel[ヘリコプター]TK[戦車]も駐とん地に帰してもよいと思う。 0200、総監から指示。「A[方面隊]3種勤務解除等発令」。所要の処置を終えてから0300 AHQにおいて仮眠する」(20) 22日以降、平常態勢に復帰(22)。「TK」、すなわち61式戦車も出動態勢にあったことがわかる。

   この資料で注目されるのは、第5の「教訓と所見」である(25-32)。「暴徒、デモの状態」の判断にあたり、「集結位置、現場進出のための所要時間、速やかに現場に進出する必要等について1D[1師団]の考え方は必ずしもA[東方総監]の意図と合致していなかった」として師団の情報幕僚が報告を適時にあげなかったことなどが厳しく指摘されている。G-2[情報部長]が冷静、客観的な情勢判断ができていなかったこと、「一般国民の感情とか、自衛隊が出動した場合の影響等もよく検討することが必要であって、これらに関する情報収集もゆるがせにできない」と反省している。ここでは、「自衛隊独自の情報収集の要」として、「警察情報はその本質からして自衛隊が欲する軍事情報資料としては必ずしも適当なものは得られない」として、私服のG-2部員や調査隊員[陸自調査隊]などからの情報収集について触れている(27-28)

  この写真は「秘密保全」に関するもので(29)、出動準備中に、報道関係者の来訪や電話の問い合わせ、外出禁止のため隊員の友人、家族や飲み屋の女等からの電話など「秘密漏洩の要素は数多く存在する」。副長自身、「報道関係者には苦労した」と吐露している。治安出動の場合、警察との関係が決定的に重要だが、「警察の関係」でも課題が指摘されている(30-31)

 「暴徒の戦法に対する情報収集」は特に留意すること、「我々としては血を見ないように十分配慮することが肝要であるとともに、やるときは徹底的にこらしめる必要がある。しかし、一般大衆やシンパに対しては圧倒、せんめつするようなやり方は適当ではない」と結んでいる。「こらしめる」「せんめつ」という表現がひらがなになっているのが何ともいえない。

 「あとがき」には、「今この稿を終るに当り、今日がEAHQ創設第4周年に当ることに気付き、当時を回想し、ただ感慨無量なものがある。奇しき因縁というべきか。」(33)とあるから、この文書の脱稿日は、1964114日ということになる。


ベ平連も「革命運動」とする視点

  60年安保闘争の10年後に、70年安保闘争があった。冒頭左の写真の真ん中にある『70年代の日本における暴力革命運動の展望』がそれを扱っている。東大紛争をはじめ、60年の時とは異なり、かなり学生運動の突出が見られたが、自衛隊はここでも「暴力革命運動」のさまざまな背景や影響、「国際共産主義運動の影響」、「70年代における過激な学生集団」という柱で分析を試みている。例えば、当時からすれば、最も穏健な「ベトナムに平和を!市民連合」、いわゆる「ベ平連」について、「〇平連」として、「過激派」と一緒に扱うのには違和感を覚える。「体制変革を企図した革命集団的性格」という記述には、当時、学生だった人々(70歳以上)からすれば、そんなふうに見られていたのかと驚くような仰々しい叙述が続く。何がなんでも仮想敵国から影響を受けた運動と見ようとする姿勢は一貫している。「武力攻撃に至らないグレーゾーン事態」に「反戦デモ」をカウントするのは、こういう背景をもっているのである。

プーチンがロシアの反戦デモを厳しく弾圧する際、外国からの影響や扇動を強調する。一人ひとりの個人が、自らの判断と責任において、平和や戦争反対を求めて立ち上がることまで、外部勢力にそそのかされたものという目で見てしまうのは悲しい。

  ちなみに、60年安保の際、陸上自衛隊員として出動準備で待機していた人が、後に安保反対のデモのなかに、自分の高校の先生や同級生がいたことを知って愕然となったという話を聞いたことがある。デモをするのは革命勢力にそそのかされた人たちと思い込んでいたからである。いずこにおいても、そして現在のロシアにいても、市民・学生のデモを弾圧する際には、外部から唆(そそのか)されるという視点を共通してもつ傾きにある(直言「軍が民衆に発砲するとき——旧東独「617日事件」、「5.18光州事件」、「6.4天安門事件」、そして、香港)。日本の自衛隊も、反戦デモをそのようにとらえることをやめるべきではないだろうか。

トップページへ