憲法の手続を使って憲法を壊す――ヒトラー権力掌握から90年
2023年1月30日

付記: 早大元総長西原春夫先生を悼む→文末参照


あの「1月30日」(月曜日)から90年

日は1月30日(月)である。ドイツ人にとっては特別の「ブラックな記念日」である。90年前のこの日、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領がアドルフ・ヒトラーを首相(ライヒ宰相:Reichskanzler)に任命した。以来、「アドルフ」という名前は特別の響きをもつようになり、戦後ドイツでは、「アドルフ・ヒトラー」は名前として使われることはなく、ことさら使えば社会的非難にあうことになる(直言「ヒトラーと自署した男」)。著書も発禁状態で、それが2016年に再び出版されたときは、一騒ぎ起きるほどだった(直言「雑談(127)映画『お名前はアドルフ?』」)。

ドイツのみならず、ヨーロッパ、さらには全世界に不幸をもたらした人物が権力を掌握した日が「1月30日」というわけである。20年前は、直言「ヒトラーとブッシュ」を出して、「1月30日」の70周年を論じた。10年前は直言「焚書と「美しい国」の80年」をアップした。今回は、「1月30日」の90年ということで、少しアングルを変えて考えてみたいと思う。それは憲法の手続に従って、憲法を壊すという手法の「鮮やか先例」という視点である。


はじまりは連立政権だった

冒頭右の写真は、90年前の今日、ヒンデンブルク大統領から首相に任命されるときのヒトラーの姿である。誰もが知っている制服のヒトラーではなく、一般人の背広とコートを着て、帽子もかぶっていない。顎を少しあげ、口をキリッと結んだ独裁者の顔はそこにはない。元帥服の大統領の前で、固い表情で恭(うやうや)しく手をのばす。車に乗れば、口元から卑屈な笑みがこぼれる。当時のドイツのエリート層は、ヒトラーのことを徹底して馬鹿にしていた。第一次世界大戦時の陸軍元帥に対して下士官(陸軍伍長)が頭を垂れている、と。

この後すぐにヒトラーは初閣議を行う。その時の写真がこれである。ヒトラー以外の10人の閣僚なかで、ナチ党員は2人のみ(ヘルマン・ゲーリング無任所大臣とヴィルヘルム・フリック内務大臣)。2つ前の内閣で首相を務めた中央党のフランツ・フォン・パーペンを副首相に据え、国家人民党には司法大臣と財務大臣のポストを与えた。閣議は合議制なので、ナチ党だけでは決められない連立政権だった。この写真で、向かって左に座るゲーリングはナチスの草創期からの盟友だから気楽に声をかけているが、右に座るパーペンにヒトラーはかなり気をつかっていることがわかる。パーペンはヒトラーを軽くみていて、「2ヶ月もしないうちにヒトラーは隅っこのほうに追いやられる」と、たかをくくっていた。


直前の選挙で得票が減った

なぜここまで低姿勢だったのか。ナチ党は、国会(ライヒ議会)議員選挙で連戦・連勝を続けてきた。12議席(1928年5月20日)から107議席(1930年9月14日)へ、さらに230議席(1932年7月31日)へと急躍進した。だが、1932年11月6日の選挙では196議席と、200万票減、得票率で4.2%減だった。34人もの現職が落選した。野党の社会民主党(SPD)は121議席、共産党(KPD)は100議席と、この2党を合わせた数の方がナチ党よりも多いという状況だった。もしこの時、SPDとKPDとが反ナチスの「統一戦線」を組んでいたら、歴史は変わっていただろう。だが、スターリンの「社会ファシズム論」(「社会民主主義主要打撃論」)を忠実に実行したKPDは、この時期、ナチスよりもSPDを攻撃して、末端ではナチスとタッグを組むことすらあった。歴史の悲劇である。

もう一つ、この年(1932年)4月10日のライヒ大統領選挙(決選投票)でヒンデンブルクが53%を得票して勝利したが、ヒトラーは36.8%だったことがある。ヒトラーとナチスは常に有権者の3分の1強の支持しか得られていないのが現実だった。

初閣議の2日後に議会を解散

力が十分でないものは、「電撃戦」で勝負を決めるのが常である。組閣の翌日の初閣議でライヒ議会の解散を決定する。翌2月1日に議会が解散される。ヴァイマル(ワイマール)憲法とも呼ばれる当時のドイツ国憲法には、大統領に議会解散権があるが(25条)、それが有効となるには、首相の副書が必要である(50条)。ヒトラーは憲法の手続を巧みに使った。選挙戦になると、野党は連立政権を攻撃してくる。そのままいけば、比例代表制の選挙制度のため、圧倒的多数の議席をとるにはまだ十分ではなかった。そこで、ヒトラーは「奇策」に出る。

まず、議会解散の日に「ドイツ国民に対するドイツ政府の呼びかけ」という施政方針を、ラジオを通じて発表した。これは史上初の試みだった。もっとも、この時はヒトラーもまだなれていなくて、原稿を抑揚もなく読むだけで、評判はあまりよくなかったようだが、2回目以降、場数を踏むにしたがい、効果をあげていったようである(詳しくは、高田博行『ヒトラー演説――熱狂の真実』(中公新書、2014年)135-139頁参照)。

大統領の緊急命令権

もう一つは、憲法48条2項の大統領の緊急命令権の活用である。大統領は「公共の安全および秩序を回復するために必要な措置をとることができる」。そのため、一時的に、人身の自由や、意見表明、集会、結社の自由など憲法上の7つの基本権を停止することができる。ヒトラーは選挙が始まるとすぐに、同条に基づき、「ドイツ民族保護のためのライヒ大統領の命令」(2月4日)を発して、SPDやKPDの選挙運動を弾圧する仕組みをつくった。その周到な準備のなかで、「事件の創作」が行われる。

投票日の6日前の2月27日夜、誰もいないライヒ議会議事堂が炎上する。いわゆる「国会議事堂放火事件」である。ナチスはこれを共産党の仕業と断定。憲法48条2項に基づき、より強力な、「民族と国家を保護するためのライヒ大統領命令」(2月28日)を出して、共産党員をはじめ、ナチスに批判的な人々を令状なしで逮捕していった。選挙運動も著しく制限されるなか、ナチ党は43.9%、288議席を獲得した。だが、ここまでやっても、単独過半数には足りない。SPDは1議席減の200議席、KPDは19議席減にとどめて、なお81議席を得ていた。ヒトラー政権は発足したが、国家人民党(52議席)との連立政権だった。

全権委任法(授権法)の成立

そこでヒトラーは全権委任法ないし授権法と呼ばれる「民族および国家の危機を除去するための法律」案を議会に上程した。この法律は一般法律と違い、内容が政府や議会の権限にも及ぶため、憲法改正法律の手続が必要となる。憲法76条は、議員定数の3分の2の出席で、出席者の3分の2の賛成を求めている。過半数で強引に成立させることはできない。そこで、「3分の2」を獲得するため、KPDの81議席を議員定数から除外して、母数を低くする試みが行われた。また、臨時議事堂を突撃隊(SA)に包囲させて、SPD議員が議場に入るのを阻止するなど、採決時の「出席者」の数を減らして、「3分の2」を確保して成立させたのである(3月23日)。ヒトラーは、ヴァイマル憲法の手続に原則として従って、ことを進めてきたといえる。それもここまでである。

この全権委任法(授権法)は、とんでもない内容をもっていた。立法権を議会に代わって政府にも与えている(1条)。これには予算(憲法85条2項)および国債(同87条)も含まれる。また、政府が議決した法律は憲法に違反することができる(2条)。法律は大統領に代わって、首相が認証し、公布することができる(3条)。そして、条約の締結には議会の承認を必要としない(4条)。連立を組む中央党の意見を入れて、時限立法として1937年までの効力がうたわれていた(すぐに一党独裁になるので無意味な条文)。通常、授権法には、議会への報告義務や最終的に議会によって破棄できる条文があるが、これにはそれがない。法律の形をとったヴァイマル憲法に代位する新たな暫定憲法といえる。

6月22日にはSPDが禁止され、他の政党も解散になった。7月14日には「新党結成禁止法」が制定され、唯一の「既成政党」がナチ党ということになって、11月12日のライヒ議会選挙では92.2%の得票を得て、661議席を獲得した。ヒトラーの首相任命から半年足らずで、ナチスの一党独裁は確実なものとなった。書きたいことはまだまだあるが、詳しくは、長利一『ドイツ緊急権の憲法史――「危機憲法」論』(日本評論社、2022年)および加藤一彦『非常時法の憲法作用――国家緊急権の削除可能性』(敬文堂、2022年)を参照されたい。


もう一度「1月30日」を考える

90年前の「1月30日」にこだわって書いてきた理由は、何事も暴力や強引な押しつけだけでは足りないということである。国民が消極的に是認するか、あるいは積極的に支持しない限り、独裁体制といえども事を進めることはできない。憲法の手続をきちんと踏んでいると見せかける。これも大事な一歩である。「1月30日」というナチスの権力掌握の当日の風景は、エリート層にも一般国民にも、まさか第二次世界大戦を引き起こして国が崩壊し、分割占領されることになるなどとは、誰一人思っていなかったに違いない。 冒頭右の写真にあるように、ヒトラーは礼儀ただしく、慇懃で、傲慢な独裁者とは無縁に感じられた。ラジオから流れるヒトラーの施政方針演説も、いまの岸田文雄首相以上に、原稿の棒読み感があったようである(前掲『ヒトラーの演説』136頁参照)。

「1月30日」からわずか3年で、日本との「日独防共協定」、さらに「日独伊三国同盟」の締結へと向かう。第二次世界大戦の「勃発」(ポーランドへの電撃侵攻 )までわずか6年である。右の写真は、日本とナチスの関係のグッズである(安倍晋三のジョークバッジも)。

最近封切られた映画『ヒトラーのための虐殺会議』(ドイツ、2022年) はまだ観ていないが、直言「ヴァンゼー会議の75周年――トランプ政権発足の日」 でこの会議についてすでに書いている。1100万人ユダヤ人の「最終解決」のための輸送計画。一人として悪魔のような人物はいない。メンバー15人のうちの8人が博士号をもつインテリの集まりである。ハンナ・アーレントのいう「本当の悪は平凡な人間の凡庸な悪」である、を想起させる。

ドイツやポーランドにあるナチスの強制収容所(KZ)を訪れたが、どこでも人間否定のトポスのおぞましさを感じる。ベルリン近郊のザクセンハウゼンやミュンヘン近郊のダッハウは政治犯収容所のため、大規模なガス室はない。しかし、ポーランドのクラクフに近いアウシュヴィッツ=ビルケナウは絶滅収容所の頂点に位置し、圧倒的迫力をもっている。ヴァイマル近郊のブーヘンヴァルト、オーストリアのリンツ近郊のマウトハウゼン、ハンブルク近郊のノイエンガンメなどをまわったが、屋内展示のなかに、必ずこの「ヴァンゼー会議」のパネルがあった。虐殺の現場だけでなく、その計画を練った場所、そして、実際に手を下した人々だけではなく、理性的に合理的にそれを立案・計画した人々のことを忘れてはならないということだろう。

なお、ポーランドのグダニスク(旧ダンツィヒ)郊外のシュトゥットホーフ強制収容所は行ったことはないが、そこに収容されていた人が腕に巻いていたオリジナルの腕章がこの写真である。冒頭左の写真の左上にも、この腕章が見える。

「ある日気づいたら、ワイマール憲法がナチス憲法に変わっていたんですよ。あの手口学んだらどうかね」(麻生太郎)

安倍晋三内閣の麻生太郎財務大臣は、2013年7月29日、次のように発言した。「ヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って出てきたんですよ。…ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。…ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。…」

メディアで問題にされて、麻生は発言を撤回した。しかし、辻元清美議員が質問主意書でこれを追及している(「麻生副首相のいわゆる「ナチス発言」「一部撤回発言」に関する質問主意書 辻元清美」(平成25年8月5日提出、質問第6号)。

辻元議員は、「発言を撤回しても、問題になっているのは麻生副首相の歴史認識そのものである」として、本稿で書いたような「国会炎上」から「全権委任法」制定に至る過程に触れつつ、「ナチス憲法」という憲法が存在したという認識なのかどうか、「ワイマール憲法はいつのまにか変わっていた」というのが事実であるという認識か、「あの手口学んだらどうか」という「手口」とは何を指しているのかなどと質問している。

閣議決定された「答弁書」(内閣衆質184第6号 平成25年8月13日) は、「ナチス政権下においてワイマール憲法が十分な国民的理解及び議論のないまま形骸化された悪しき例を麻生財務大臣なりの言葉で表現したものである。ただし、この例示が、誤解を招く結果となったため、ナチス政権を例示として挙げたことについては既に麻生財務大臣において発言を撤回している。」などと、発言は撤回したから終わりという態度である。なお、「ナチス政権については、麻生財務大臣も極めて否定的に捉えており、また、安倍内閣として、ナチス政権を肯定的に捉えるようなことは断じてない。」と弁解している。

麻生の歴史認識は怪しいというよりも、かなり危ないものである。15年前の直言「政治家の歴史認識の貧困」でも批判している。「1月30日」から90年の時点で教訓としていえることは多い。歴史上の悲惨な出来事について決して忘れないこと、「歴史修正主義」(歴史改竄主義) を曖昧にせず、これとしっかり向き合うことである(直言「「虐殺」の現場を歩く――南京の旅(2)」も参照)。

2020年のロシア憲法改正の際、国民投票が不要にもかかわらず、あえて国民を関与させたプーチンのやり方も、また違った意味で、憲法を活用して戦争体制をつくる手法といえる(直言「戦争のために憲法を変える――2020年ロシア憲法改正の深層」参照)。日本においても、岸田政権が、違憲とされてきたハードルをどんどん下げて、権力者にハートフルな憲法に変質させる動きが急である。

「1月30日」はドイツ人だけの「記念日」ではない。

《付記》
  早稲田大学元総長で刑法学者の西原春夫先生が、1月26日、95歳を目前にして逝去された。謹んで哀悼の誠を捧げたい。ご子息で、憲法研究者の同僚、西原博史さんがちょうど5年前の1月に事故死された際には、「直言」に「長い付記」を出した。奥様の福田恭子『あなたと虹を作るために』(幻冬社、2021年) には、父の春夫先生の微笑ましいエピソードも描かれている。
   西原春夫先生とは、昨年の「2022年2月22日22時22分22秒」の「東アジア不戦の訴え」を紹介してから、メールのやりとりをかなり頻繁にやらせていただく関係になった。実際に「声明」が出された2月22日の2日後、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった(直言「「東アジアの不戦のメッセージ」」)。先生は「台湾有事」に前のめりになるこの国の状況を憂え、日中両国の研究者の交流を軸にして何とか関係をよくできないか、といろいろと意見を求めるメールを送ってこられた。高齢にもかかわらず各地にも出向かれていた。日中関係が厳しい状況のなか、さらなる先生のご活躍が求められる時だけに、残念でならない。ご冥福をお祈りしたい。

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