「勝利する」と「負けない」の間――ウクライナ侵攻1年とハーバーマス
2023年2月20日


スクープ記者の特大スクープ?――「ノルドストリーム爆破事件」

米軍が村人506人を虐殺した「ソンミ村事件」(1968年3月16日)をスクープしてプューリッツア賞を受賞したシーモア・ハーシュ記者。1937年シカゴ生まれのこの調査報道記者が、2月8日、自らのブログに、驚天動地の記事をアップした。ロシア産天然ガスを欧州に送るパイプライン「ノルドストリーム」が、2022年9月26日、バイデン大統領の命令で、米海軍「ダイビング救助センター」の「熟練の深海潜水士たち」が仕掛けたC4爆薬により爆破されたというのだ。爆破の信号を送ったのは、ノルウェー海軍の哨戒機とされている。米国務省は「まったくの虚偽で完全なフィクション」として一蹴し、主要な西側メディア(日本も含めて)もこれを報道していない。ロイターは2月10日、ロシア政府がこの件の解明を求めたという事実を、ストレートニュースで伝えた。この問題を立ち入って伝えたのは、韓国の新聞『ハンギョレ』と日本のIWJ 号外くらいだった。

米国は何のためにこのパイプラインを爆破したのか。その狙いについて、ハーシュ記者はブログで、「ヨーロッパが安価な天然ガスのパイプラインに依存し続ける限り、ワシントンは、ドイツのような国が、ロシアを打ち負かすために必要な資金と武器をウクライナに提供することに消極的であると恐れていた」と書いている。これがもし本当ならば、ドイツの国民はかなり怒るだろう。米国とNATO諸国との間にも亀裂が入る。米国の有名記者を使ったロシアの心理戦だという見方も出てくるだろうが、安易に乗れない。いずれにしても、現在は戦時下である。本稿を脱稿した2月16日の時点で、主要メディアはこのことに触れていない。2月24日のロシア侵攻1年を前にして、米国・バイデン政権にとって最大級の「不都合な真実」となるか。単なる「陰謀説」か。解明が待たれる(追記:『南ドイツ新聞』17日付が事件の特集記事のなかで簡単に触れたが、根拠が弱い「スペクタクル・ストーリー」の扱いにとどめている)。

両軍合わせてどれだけの兵士が死んでいるのか?

直言「「ウラヌス作戦」80周年のリアル―「ロシア・NATO戦争」への「勢い」と「傾き」」で予測したように、スターリングラード正面での大反撃戦「ウラヌス作戦」の80周年を契機として、ロシア軍が東部戦線において攻勢作戦を展開してくる可能性がある。本稿執筆の時点で、NATO事務総長は、「ロシア軍の攻勢はすでに始まっている」と述べている(ロイター2月14日)。ロシアの民間軍事会社「ワグネル」代表のエフゲニー・プリコジンは、ロシアRTの2月15日のインタビューにおいて、レオパルトⅡ戦車をはじめ西側の軍事装備をことごとく破壊すると豪語しつつ、3月から北部ドネツクのバフムト(ロシア側はアルチェモフスク)を占領するとしている。プリコジンは、「アルチェモフスクの戦いは本質的に新しいスターリングラードになった」とその政治的意義を語っている。囚人まで戦場に送り込む悪辣な民間軍事会社のボスが、プーチン大統領の言い分を代わりに語っている奇妙な風景である。

いま、いったい両軍でどれだけの戦死者を出しているのだろうか。侵攻当初は、ロシア軍の犠牲者の数が西側メディアによって流され、将官クラスもかなり戦死するという異様な状況が伝えられていた。昨年3月の侵攻1カ月の「直言」では、「師団長クラス(中将)を含む将官7人が戦死しているが、第二次世界大戦を含めて、わずか1カ月でこれほどの将官が殺害される戦争はかつてなかったように思う」と書いた。その後、破壊された戦車の総数などの報道がたまに出てくる程度だった。今週、「侵攻1周年」を前にして、メディアは、戦死者や破壊された戦車などの数を示した比較対照表を出すだろう。「あれから○年」を統計的にまとめたがるのがメディアの常だからである。

アンヌ・レモリの『戦争のプロパガンダ 10の法則』の第7法則は「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」である。西側メディアはロシア軍の損害は大きく士気は下がっていると繰り返す。英国BBCは2月13日、ウクライナ側の発表として、最近のロシア兵の死者数を「1日あたり824人」として、侵攻以来、13万7780人という数字をはじき出している。ウクライナ側の損害については詳細は公表していない。

他方、ドイツにサーバーを置くニュースサイトePrimefeedの2月7日付は、イスラエルの諜報機関モサドのデータとして、ウクライナ軍の戦死者は15万7000人という数字を出している。同じ7日のロシアのRTのサイトでは、ロシア国防相の発言として、ウクライナ軍の戦死者が「今年の最初の月[1月]だけで6500人」という数字を挙げるとともに、「ウクライナ軍は、住宅地、病院、民間人が集まる場所を攻撃し…」と、西側メディアから毎日のように流される「ロシア軍の蛮行」とは逆のことを伝えている。相当な数の人が死に、傷ついていることだけは確かである。両軍の戦死者は数字であらわされるが、その向こうに名前のある個人、家族をもつそれぞれの人生がある。数字の比較はおぞましい。現在のウクライナ東部戦線(ドネツクのバフムト)の膠着状況を「ヴェルダンの戦い」(1916年) と対比する見解も出ている(後述)。まさにドイツ映画『西部戦線異状なし』の世界である。

昨年は、アゾフ連隊(「旅団」に昇格?)の蛮行など、ウクライナ側の不都合な事情に触れると、「どっちもどっち論」だとして非難する書き込みなどもあったが、侵攻1年を前にして少し雰囲気は変わってきたように思う。上記のハーシュ記者の情報についても、各メディアが完無視を続けることは困難になるだろう。ロシアの心理戦か、本当にバイデンが命令したのかについて、メディアは沈黙せずに取材を展開して、客観的な裏付けをすべきだろう。


適時の交渉を呼びかけるユルゲン・ハーバーマス

もっと武器を、もっと戦車を、戦闘機も」と、米国議会からEU議会まで、ゼレンスキー大統領のおねだり行脚は続いているが、そもそも一国の指導者がやるべきことは、これ以上犠牲を出さないよう、交渉の可能性をとことん追求することだろう。前々回の「直言」で紹介したように、「戦車より、交渉を」の声は各国の内部にも少しずつあらわれているように思う(左の写真はDer Spiegel Nr.3 vom 14.1, Nr.5 vom 28.1.2023の表紙)。

『南ドイツ新聞』は、2月15日付の10面と11面(文芸欄(Feuilleton))の見開き1ページを使って、世界的に著名な哲学者ユルゲン・ハーバーマス(93歳)の長文の論説を掲載した(Jürgen Habermas,Ein Plädoyer für Verhandlungen)(デジタル版はここから)。昨年4月29日付の同欄に掲載された「戦争と憤激」については、直言「ユルゲン・ハーバーマス「戦争と憤激」─ドイツがヒョウでなくチーターを送る時代に」で紹介したが、その続編となる。

ハーバーマスの論説は、「交渉のための嘆願」というタイトルで、長文のため、注目すべきポイントのみ紹介する。まず、「西側は正当な理由があってウクライナに武器を供給しているが、それは、戦争のさらなる進展に対する責任を共有することになる」と、武器供与そのものは否定しないが、戦車から戦闘機へと武器供与をエスカレートさせることを警告するとともに、妥協による戦争終結の可能性を探るよう訴えている。

「戦争は長引き、犠牲者の数と破壊の程度は拡大する。正当な理由により行われた軍事援助という独自の力学は、プーチンに対する勝利だけが目標になりうるという理由で、今や防衛的性格を捨て去るべきなのか。米国政府の公式見解と他のNATO加盟国政府は、後戻りできない地点となる参戦の前に、立ち止まることを当初から合意していた」として、ドイツのショルツ首相の慎重な姿勢を、4月の論稿の延長で評価する。他方、ドイツ国内や西側諸国のなかから軍事的な強硬主張が出ていることに危惧を表明する(11面で、強硬派のベーアボック外相(緑の党)の写真を使う)。「武器供与の目的は、ウクライナが戦争に「負けてはならない」ことなのか、それともむしろロシアに対する「勝利」を目指すものなのか」。ドイツ国内でも好戦的な声が高まり、エストニア外相などはロシアに対する「勝利」を口にすることなどに不快感を示す。「何が何でも勝つという観点からは、武器供給の性能を引き上げることで、気づかれないうちに第三次世界大戦への入り口を踏み越えることになる」と危ぶむ。ハーバーマスは、「致命的なのは、「負けないこと」と「勝つこと」の違いが概念的に明確化されていないことである」と指摘する。その点が不明確なままの武器供与の拡大に対しては批判的姿勢を示す。そして、ここ数カ月間、北部ドンバスでの戦線の凍結は「1916年の西部戦線を彷彿とさせる」として、NATO高官の「そこはまるでヴェルダンだ」という悲痛な発言を引用する。

和平交渉の時期についてもウクライナ内部で意見が分かれ、一方は、ロシアを倒すために軍事的支援を拡大し、クリミアを含む領土の回復を要求していく立場であり、もう一方は、少なくとも2022年2月23日の現状を回復することで、敗北の可能性を回避する停戦と交渉を実現する試みを進める立場である。プーチンが交渉に応じる気配はない。しかも、彼は有望な交渉の開始をほとんど不可能にするような決定を下している。ウクライナ東部の州を併合したことで、ウクライナにとって受け入れがたい事実を作り出し、主張を固めてしまった。

「バイデン政権にとって、時間は刻々と過ぎている。交渉開始の試みを精力的に推し進め、開戦前以上の領土的利益をロシア側に与えず、しかも面目を保てるような妥協案を模索すべきであろう」。そして、「この紛争はより広い利害の網に触れているため、一時的に正反対の要求であっても、双方にとって面目を保つ妥協点が見つかる可能性を最初から否定することはできない」と結ぶ。

この論理運びは、『南ドイツ新聞』編集長のクルト・キスターが着目するように、正反合の弁証法の展開になっていて、ハーバーマスの総合(ジンテーゼ)は、「適時の交渉の予防的性格」ということのようである。

高名な哲学者の思弁的な言説は決してわかりやすいものではなく、政治的に明快な提言を読み取るのはむずかしい。ドイツのメディアには、ハーバーマスは、「いつ誰と何が交渉できるかを言わずに、交渉の必要性を訴えている」「政治的・道徳的な激しさに反して、驚くほど非政治的な瞬間がある。この文章は、いくつかの未解決事項を含む嘆願書である」といった評価も出ている(FazやTagesspiegelの2月16日付など)。

ゼレンスキーはクリミア奪還、ロシアに勝利すると叫び、各国の政治家たちはこれに拍手を送る。西側が「結束して」武器供与のレベルを引き上げ、ウクライナ軍の春の攻勢作戦に「期待する」(オースチン米国防長官)という流れも生まれている(『東京新聞』2月15日付夕刊)。もはや交渉の余地がないかのような報道が続くなかで、ハーバーマスは、「交渉の可能性を決められるのはウクライナだけなのか」と問うて、西側に対して、「それは矛盾しているし、無責任だ」と説く。第三次世界大戦が懸念されるなか、ハーバーマスは、ウクライナの戦争で、「許容できる妥協点」を模索するように西側諸国に訴えたわけである。武器供与を行うことで、西側諸国が負う「共同責任」の重さは、武器供与をエスカレートさせるのではなく、プーチンとの「適時の交渉」を追求することなのだろう。

ハーバーマスは歴史的な視点からも交渉の必要性を弁証している。第二次世界大戦後、国際連合憲章とハーグの国際司法裁判所の設立によって、いかなる主権国家ももはや意のままに戦争を行う権利を有しないことが明らかになった。「武力紛争の勃発を、[平和的手段により解決を図る]国際法の守護者[国際司法裁判所]自身にとってさえ苦痛な諸制裁によって防ぐことができないならば、求めるべき代替案は、犠牲者を増やす戦争の継続とは反対に、耐えうる妥協を探究することである」。ロシアによるウクライナ侵攻から1年。93歳という超高齢にもかかわらず衰えない知の力から学ぶものは多い。

入手してから1日しかたっていないので読解が不十分ではあるが、ウクライナの東部戦線での激戦が本格化する前に、国際社会と世論が、両指導者に対して交渉のテーブルにつくように求めるメッセージを発することが必要だろう。

《付記》ウクライナ侵攻1年を前にして、2月15日にユルゲン・ハーバーマスの重要な論稿が掲載されたので、2月20日付「直言」を早めにアップすることにしたい。最終的な脱稿日は2月16日である。

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