核シェルターは壮大なる無駄――「防護して生き残れ」ではなく「抗議して生き残れ」
2023年3月6日


元日の産経新聞の社説

日の社説は、各社なりにテーマにこだわって長めのものを出すのだが、記憶に残るものは少ない。今年は、驚くほどあけすけに本音を語る社説に出くわしたので切り抜いておいた。「「国民を守る日本」へ進もう」と題する『産経新聞』11日付主張(論説委員長名)である。内容は同紙のスタンスで代わりばえはしないが、今回は「「シェルター」担当相を」という小見出し付きで、「台湾のように、日本でも地下シェルター整備は急務だが、内閣に整備促進の担当相がいないのは疑問だ。政府はウクライナや台湾、欧米、イスラエルへ調査団を派遣し、国民保護の手立てを学ぶべきだ」と岸田文雄首相に迫っているのが印象に残った。

 

北朝鮮は中国を警戒――日本の大軍拡のための米朝連携?

 218日、北朝鮮が大陸間弾道ミサイル(ICBM)級を発射、北海道西方の排他的経済水域(EEZ)内に落下した。今回は、Jアラート(全国瞬時警報システム)が鳴ることはなかった。それが鳴っても、その時は、すでにミサイルは海上に着弾しているということが続いた。しかも、「日本上空を通過」とメディアは煽る。昨年104日も、「日本上空を通過」と報じた(直言「弾道ミサイル「上空通過」をめぐる日台比較―「キューバ危機」から60年」参照)。国民を不安にさせて、「安心」のためにミサイル防禦システムの整備をはじめ、どさくさまぎれに防衛費を一気に増やす。「不安の制度化」と「安心保障」の手法である(直言「「不安の制度化」の手法」参照)

  「上空」といっても1000キロの高高度は大気圏外であり、宇宙空間である。日本の主権が及ぶ「領空」は概ね100キロである。この日本「上空」通過という表現によって、日本国民は、北朝鮮のミサイルに過剰に怯えさせられている(直言「「敵基地攻撃能力=抑止力」という妄想(その3・完)過大評価と過剰対応」参照)。

  その時々の国際情勢の展開に合わせて、北朝鮮はミサイルをさまざまなタイミングで発射している。ミサイルの種類、威力、距離、方向など、すべて彼らなりの計算に基づく。まさに国際政治的アドバルーンともいえる。この点で興味深いのは、マイク・ポンペオ前米国務長官が最近出版した回顧録のなかで、CIA長官当時の20183月に北朝鮮を訪問した際、金正恩が、「中国から身を守るために在韓米軍は必要である」という趣旨の発言をしたと書いていることである。「中国は朝鮮半島を、チベットや新疆ウイグル自治区のように扱えるように米軍撤退の必要を主張している」と語ったことから、ポンペオは、朝鮮半島で米軍がミサイルや地上戦力を強化しても北朝鮮は気にしないと判断したという(『東京新聞』2023128日付(ソウル特派員・木下大資))。この記事では、父の故・金正日総書記も、2000年の南北首脳会談の際、「北東アジアの勢力均衡のためには南北が統一されても在韓米軍が朝鮮半島に駐留すべきだ」と述べたことが紹介されている。在韓米軍撤退の主張はあくまでも「国内政治用」だというのである。これは「故・金日成主席の遺訓」でもあり、これを親子二代で「履行している」のだという元閣僚の分析も合わせて紹介している(同上)。実に興味深い指摘である。中朝vs.日米韓の単純な構図だけでは見えてこない複雑な力学がそこに働いている。

 米国はこうした北朝鮮の手の内や事情を知った上で、日本国民の恐怖を煽り、米国製ミサイルや兵器を爆買させていく。ウクライナや台湾に目が向かい、北朝鮮に対する世論の関心が下がれば、そのタイミングで北朝鮮のミサイル発射が行われる。だとすれば、「間欠泉」のような北朝鮮ミサイル発射に過剰反応するのは愚の骨頂ではないだろうか。北朝鮮は制裁解除が重要課題であり、その鍵を握る米国の関心をひくために、ミサイル発射でアピールするわけである。確実にいえることは、日本の納税者だけが、何も事情を知らされずに多大の負担を強いられていることである。


「強靱化」は何のためか

  北朝鮮だけではない。中国の権威主義的、拡張的な傾向もまた、大軍拡の格好の「栄養」になっている。だが、それに対する日本の対応は、北朝鮮のミサイル以上に「過激」である。2015年の安全保障関連法を駆動させるべく、昨年、1216閣議決定」が行われた。その安全保障3文書(部内では「戦略3文書」というには、「万が一、抑止が破れ、我が国への侵攻が生起した場合」について触れ、「これを阻止・排除する」として、「有事においても容易に作戦能力を喪失しないよう」に、司令部機能の地下化や構造強化など、自衛隊施設の「強靱化」が明記されている。その内容は、国会のチェックが圧倒的に甘いため、予算先取りで実施に向かって進んでいる。その一例が「強靱化」施策である。

  先週、32日の参議院予算委員会で小池晃議員は、昨年1223日と今年22日に防衛省が大手ゼネコン関係者などを集めて行った「自衛隊施設の強靱化」という会合について、そこで配布された「各種脅威に対する施設の強靱化」と題する文書を使って政府を追及した。主要司令部等の地下化、主要施設のHEMP攻撃対策(電磁パルスによる電気系統破壊)、「CBRNe(核・生物・化学・放射性物質)に対する防護機能をもった構造強化、施設再配置・集約化などがそこに挙げられているという。これは、5年間で4兆円という大プロジェクトである。「軍拡バブル」ともいうべきすさまじい金額である。ミサイルや装備品とは異なり、鉄とコンクリートの大量消費につながるゼネコン需要の爆発である。それは、民間のシェルターづくりにもつながっていく。

シェルター議連――安全保障ではなく、「安心保障」広める

  宮古、石垣、与那国など、戦後初めて、南西諸島の軍事化が進んでいる沖縄戦の記憶が生々しく口にも出せなかったことが、ここ12年で公然と表に出てきた。昨年1129日の衆院予算委員会で、沖縄出身の国場幸之助議員は、沖縄で計画されている鉄軌道について、有事の際のシェルター機能をもつ計画にしてほしいと政府に要望した(『琉球新報』20221130日付)。1213日には、自民党有志議員が、弾道ミサイルなどでの攻撃に備えるシェルター整備推進議員連盟を発足させた(『毎日新聞』1214日付)。

  『毎日新聞』には、「普及率0.02%:「核シェルター」整備は進むのか 高まる関心」という見出しの署名記事が載った(同紙1228日付)。「シェルター整備を巡る日本と海外との差は明らかだ。「日本核シェルター協会」が2014年に公表した02年当時の調査によると、核シェルターの普及率(国内の核シェルターで収容できる国民の割合)は、スイスやイスラエルの100%、米国の82%、ロシアの78%に対し、日本は0.02%にとどまる」として、無批判に数字を並べた上で、この女性記者は、ウクライナ侵攻から、「日本も核攻撃に対する国民の関心は高まりつつある」と安易に断定する。「国を挙げてシェルターを整備するには巨額の費用が必要となる」という現実から、「体育館をまるごとシェルター化しようと思ったら4億~5億円、永田町駅なら7000億円から1兆円はかかるだろう」という専門家の声を拾いつつ、「国民負担にも関わるため、実現に向けては十分な議論と国民の合意が必要となりそうだ」という一般的な感想で終わっている。メディアには、この議論の前提そのものを問うことが求められるのである。

 また、別の女性ライターは、「「北朝鮮がミサイル発射」Jアラートが鳴ったら、生き残るために何をすべき?」という安易な方法論に踏み込む。Jアラートがなれば、窓から離れて、頭を抱えて床に伏せる。こんな訓練を子どもたちにやらせるのは、戦前における防空演習とかわらない。桐生悠々の「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」ならぬ、「Jアラートを嗤ふ」の世界である。不安をあおり、「安心保障」の人参をぶら下げられて、この国はたくさんの税金を、米国軍需産業と軍事・ゼネコン需要に投入しようとしている。


ドイツの政府核シェルターに2度入る

  初めてドイツ政府の核シェルターに入ったのは24年前である(「核シェルターのママチャリ」Waseda Weekly No.874(July.1.1999 )参照)。2度目は20164月である(直言「再訪・政府核シェルター―緊急事態法の「現場」へ(その1)」および直言「再訪・政府核シェルター―緊急事態法の「現場」へ(その2)」参照)。この写真は政府核シェルターの重い扉と、コール首相の寝室である。2回ここを訪問したが、この場所で、案内人は、「このベッドにコール首相が寝るのです」といって、太ったコール首相を想起させて笑いをとる(1999年の時は、まだコブレンツ財務局が管理していたので、似顔絵はなかった)。

  在外研究中に紙媒体で定期購読していた『南ドイツ新聞』の2016824日付に、当時のメルケル政権の内務大臣トーマス・デメジエールが「市民防衛構想」を提起したことが出ていた。記事に付いている漫画を切り抜いたのが、冒頭右の写真である。緊急時の予防措置や市民の行動指針というよりも、この計画のスタッフに対する祈りのようなものと皮肉っている。以下、要約的に紹介しよう。

    「市民防衛」というのは、「少なくとも、その伝え方、見せ方において、ヒステリックな概念である。国民を驚かせ、恐怖を取り除くよりも恐怖を与え、安全よりも不安を生じさせる。その構想は、新しい緊急事態法の準備のように見られ、連邦軍がその網の目を通って国内深く入り込めるように作られている。…」「戦争、テロ、停電…。すべてがひとつの災害か。このような未分化な方法で物事に取り組むことはできない。この構想は、電池や食料の缶詰などをどれだけ自宅に買いだめしておくべきかが説明されているからだ。参加する、買い物をする、用心する、すべての家庭は小さなシェルターである。これは、 30年前、連邦内務大臣がCSU(キリスト教社会同盟)のフリートリヒ・ツィンマーマンだった頃の民間防衛構想を彷彿とさせるものである。当時は冷戦時代で、多くの人々は冷戦が熱戦に変わることを恐れていた。当時、その恐怖はツィンマーマンの構想によってさらに深まった。大臣は、何十万もの民間シェルターを建設することを望んでいた。一戸建てを建てようとする者は、そこに国の支援で「基本的なシェルター」を含めることになった。当時、批評家たちは、このような民間防衛は軍事システムの一部であり、戦争への先行投資であると批判した。戦争の可能性をより高めることになる。デモが起きたり、建築家が新聞広告で、シェルター計画を拒否したりした。このツィンマーマンの騒ぎは、真面目な民間防衛構想には有害だった。デメジエールは彼の真似をしてはならない。…」

  連邦不動産管理庁によれば、政府核シェルターは(まだ)599箇所あり、それらのほとんどがバーデン=ヴュルテンベルク州とバイエルン州にあるという。最小のシェルターのサイズは約10平方メートルで、費用は5万ユーロ。これに、ドライトイレ、ガスフィルターシステム、装甲ドア、防爆バルブ、非常用電源が含まれる。最大の価格帯は36万ユーロで、面積は90平方メートルである。ミニキッチンと6つのベッドがつく。ドライトイレというのは、水の洗浄を省き、臭いがでないように設計されている(シェルターの注文サイト)。だが、核シェルター政策は、冷戦時代に歩を進めた国はあるものの、21世紀になって本格的に取り組む国はほとんどない。実は、核シェルターというのは、ミサイルという「矛」に対する防禦の「楯」のように思われている。しかし、国内に完璧なシェルター整備を行えば、ミサイルを撃っても大丈夫として、核兵器使用の敷居が低くなる可能性がある。つまり、シェルターというのは「楯」としてだけでなく、「矛」として、つまり先制第一撃につながりかねないのである。


「防護して生き残れ」vs.「抗議して生き残れ」

  旧ソ連が中距離核ミサイルのSS20を旧東ドイツやポーランドなどに配備したとき、NATO197912月に、中距離核ミサイル「パーシングⅡ」と巡航ミサイル(核弾頭搭載)を旧西ドイツやイタリアなどに配備する計画を決定した。それに対して、ヨーロッパで反核運動がかつてない盛り上がりを見せた。

  冒頭左の写真の一番右は、スイス連邦法務警察省が出した『民間防衛』(Zivilverteidigung)の訳書である(原書房、1970年初版、写真のものは1978年に入手した第4)。核シェルターを作れという人々のバイブルとなった。他方、冒頭左の写真の真ん中にあるペーパーバックは、E.P.Thompson and D.Smith, Protest and Survive, 1980。その左は訳書で、山下史他訳『核攻撃に生き残れるか』(連合出版、1981)である。80年代のはじめに反核運動がドイツからはじまり、全世界に広がった。この動きは、国連の軍縮特別総会(SSD) 開催へとつながった。

  そもそも核戦争の危機を前にして、シェルターで「防護して生き残れ」というコンセプトを打ち出したのは英国内務省である。配布されたパンフのタイトルは、Protect and Survive、「防護して生き残れ」である。これに対して、英国の反核活動家、E.P.トンプスンが実にうまいタイトルのパンフを作った。内務省パンフの「c」を「s」にかえて、Protest and Survive、「抗議して生き残れ」としたわけである。「私たちは、みずから生き残るのであるならば、抗議しなければなりません。抗議こそが、民間防衛の唯一の現実主義的な形態です。…この反対派は国際的でなければならず、大多数大衆の支持を獲得しなければなりません」(原書p.57、訳書92-93)

  シェルターに高いお金を払って、自分とその家族だけ生き残る。国民全員が入るシェルターの建設など、非現実的である。お金をもっている人と、もっていない人との命の選別が行われる。核シェルターは、究極のエゴイズムを体現しているのではないか。だから、そんなことやめて、みんなが街頭に出て、戦争や核兵器反対の声をあげよう。これは実に新鮮な響きをもっていた。

  トンプソンの本が長年にわたり自宅書庫に眠り、43年の月日を経て、いま、再び読まれる日がきたのは、何とも不思議な気がする。米ソの全面核戦争の恐怖がなくなり、冷戦が終わったと浮かれているうちに、再び、ロシアの戦術核兵器使用のハードルが下がるという事態が生まれている。日本はこれを「奇貨」として、「敵基地攻撃能力」を誇示する国になろうとしている。「武力による威嚇」(91)を対外的なカードにする国への脱皮である。「歴史は繰り返す」のか。

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